日本には倉橋惣三がいてよかった!(佐伯胖)

2010/5/26

先日、大学院の授業(「学習学原論」)で、Joseph Tobinらによる、日本、中国、および米国の幼児教育についてのビデオをつかった以下のエスノグラフィについて検討する機会をもった。

Tobin, J. J. et al. 1989 Preschool in Three Cultures: Japan, China, and the United
States
. Yale University Press.

Tobin, J. J. et al. 2009 Preschool in Three Cultures Revisited: China, Japan, and the United States. University of Chicago Press.

本当は、最初にTobinらの研究自体についてコメントするのが礼儀というものだろうが、ここはブログという場に甘えて、彼らの研究はさておくとして、2009年版の資料編であるビデオ映像(DVD)の中の一部(米国の幼児教育現場)を視聴した、まさに独断と偏見による感想を述べさせていただく。

日本、中国、および米国の幼児教育実践を見て、一番大きなショックを受けたのは、米国の幼児教育実践(ハワイのSt. Timothy’s Children Center およびアリゾナのAlhambra Preschool)であった。それは、この両保育が、どちらも、徹底した「教え主義」に貫かれていたことである。ハワイの実践は、「水」をテーマにした「単元」の、厳密に計画されたカリキュラムに従ったものである。水にまつわる単語の学習、水の性質についての学習(“absorb” という単語を覚え、スポンジで色水を吸い取って見せて、これが ”absorb” だと教えたり)、さらには、驚いたことに、ピアジェの「量の保存」実験(細長いビーカーと太いビーカーに同じ量―同じ容器一杯の量―の水を入れて、高さが変わっても量は変わらない)をやってみせたりしている。ハワイの保育者もそうだが、アリゾナの保育者の場合にとくに激しかったのは、子どもたちに矢継ぎ早に、「簡単な質問をなげかけ、答えさせ、”That’s right!” と返す」という、まさに、H. Mehan I-R-E Initiation-Reply-Evaluation)形式の会話の洪水であったことである。子どもたちの「自由遊び」の場面でも、保育者がつきっきりで「寄り添う」というより「監視する」様子で、「そこに登ってはいけません。」、「こっちをちゃんとつかんでやりなさい。」などなど、機関銃のように注意と指示の連発である。全般的に、保育者も子どもたちも、「無表情」であり、笑っている、怒っている、泣いているという、日本の保育現場ではまさに「そればっかり」というべき場面がほとんど見られない。けんかは「おこりそうになる」前に保育者が介入して、ちゃんとことばで自分の考えを「述べる」ようにしむける―全体的に、ことばをきちんと話す言語指導がかなり重視されている―というありさまであった。

ここには、幼児教育についての確たる思想はほとんどみられず、断片的な「認知発達論」(俗流ピアジェ発達心理学)や小学校教育の前倒し(まさに、“ヘッド・スタート”)、それと、親の要求(「ちゃんと“教えて”ほしい。」「怪我を絶対させるな。怪我をさせたら訴えるぞ!」)にただひたすら応じることばかりに目が行っているというのが、感想であった。

ああ、日本には倉橋惣三がいてよかった!幼児の遊びがいかに大切かについて、日本の幼児教育の世界ではきちんとした思想と保育理論としてかなり行き渡っていると思われる。ただ、これも最近の動向では、むしろ「アメリカ型」への移行へのプレッシャーが高まってきていることも確かなのだが。

しかし、先日、日本保育学会第63回大会での記念講演で、宮台真司は、むしろ、ちゃんと遊べない若者、「勉強田吾作」が増えてきており、それが日本をダメにするという話があって、「遊び」の重要性は幼児教育の話ではなく、教育の根幹にかかわることだということが熱っぽく語られていた。今、あらためて、「倉橋に帰れ!」といいたい。


直感からはじめる研究テーマ探索(山下勝)

2009/8/21

いま大学は夏休みである。といっても授業がないというだけで、書かねばならない原稿がたまっていてなかなか休み気分にはなれない(なかには〆切を過ぎているのもあるし)。わたしの夏休みはいつから始まるのだろう?

さて先日、ヒューマンイノベーションコースの前期最後のゼミを行った。今年はM1の人が4名、M2の人が1名いる。それなりの人数なので前期は平日夜間に隔週でゼミをやってきた。企業にお勤めの方だと、1830分スタートといっても全員が時間通りには揃わない。こんなご時世で会社も大変だ。それはある程度は仕方がないと思う。30分遅れ、1時間遅れという感じでようやく全員が揃う。終わるのはいつも22時ちょっと前だったので、みんなきっと腹ぺこだったろう…。わたしだけゼミのなかでいつもコンビニのおにぎりを買って食べていたが、なんか申し訳なかった(みんなも買ってくればよかったのに)。

M2の社会人の女性は論文提出までもう半年を切っているので、やるべきことが多くてかなり大変そうだが、そこはもう頑張れと応援するしかない。忙しい社会人だと、〆切が迫ってくるとあきらめてしまう人もときどきいるが、気持ちを切らせないというのが一番重要なのだと思う。そんな彼女に比べるとM14名はさすがにのんびりしている。彼らは大学院に通いはじめてペースをつかむというだけでも前期は大変だったはずだ。平日夜間は週3で、土曜日も隔週で授業を受けてもらっていたので、なかなか自分の研究を進める時間がなかったのだろう。本当は、そろそろ「これだ!」というのを見つけてもらって、読むべき文献も絞り込めてきたというふうにしてもらいたいのだけど…。

M14名の研究報告の様子はもちろん一概にはいえないのだけれど、それでも似た特徴があるように感じられる。そもそも4名の関心のある研究分野は違っているが、それぞれ職場のチーム開発、経営理念の伝承、組織活性化、組織変革と極端にバラバラというわけでもないので、わたしもなんとか対応できている。問題なのは、これらのテーマがなかなか安定しないところだ。ある週の研究報告で聞いたテーマが翌々週に大きく変わっていることもしばしば。時間もなかなか取れないし、研究活動をスタートする最初のうちは仕方ないのだろうけど、もう少し効率的に研究テーマを見つけてくれたらいいのにと、ついつい思ってしまった。

最近は論理思考ブームで(もう終わった?)、結構多くの人が論理思考には興味があるみたいだ。たしかに研究者が論理思考できなければ大問題なので、それは大学院生のみんなには是非とも身につけてもらいたい能力だ。ただし、研究テーマを探索するときに早急に論理思考に入ってしまうと、これは良くないことが多いと、わたしは常々感じている。例えば、前期は院生だけでなく学部ゼミの4年生も卒論のテーマを探していたが、頭の良いやつほどどつぼにはまる。難しそうな本を読み込んでくるが、そんな本を読みあさっても研究テーマなんて簡単に見つかるものではない。どんどん理論の深みにはまってしまって、視野は狭くなっていくし、話を聞いているわたしもそうだが、プレゼンしている本人もちっとも楽しそうではない。おまけに最後までプレゼンしても結局、研究課題にはたどり着かない。また最初からやり直し…ということを無限ループのように繰り返している。論理思考だけで研究テーマを見つけられる人はかなりの天才だと思う。

そこで、わたしは主に学部生には次のように指示することにしている。まずは頭を使わずに、(1)直感的に素朴な疑問を感じること。前述のように、導入の段階から頭を使うと視野が狭くなるし、既存理論の枠組みのなかでしか物事を考えられなくなってしまう。通学電車の窓から景色をボーッと眺めているだけでもいい、多少は失礼だけれど同じ車両内の人たちの会話に耳を傾けて立ち聞きをするだけでもいい。なにも学術的な本でなくても小説や漫画を読むだけでいい、テレビ番組や映画を見ているだけでもいい。ほんの少し、それらのなかで直感的に何かを感じてくれればいいと思う。直感には面白い特徴があって、ひとつは本人の興味のなかからそれは出てくる。われわれの心のアンテナは興味のないことには引っかからない。もうひとつは、逆説的にも感じられるけれども直感的にピピッときたものはそもそも本人の頭のなかの知識と異なっているということだ。たとえ興味のあることでも、すでに知っていることや常識の範疇のものに対してわれわれはピピッときたりはしない。直感は自分の知識への問いかけなのだ。

こういった直感が得られるようになれば、次にしなければならないのは(2)その直感の基本的な前提を明らかにするということだ。ここから先は論理思考になってくる。例えば、日曜日の夕方にボーッとテレビを見ていて、“なぜ笑点なんて番組がいまだに放送されているのだろうか?”という直感を持ったとしよう。この問いははっきり言って笑点ファンの人たちには失礼だ。だからこそ、なぜ自分がそんな失礼な直感を持ってしまったのかを冷静に考えてみる必要がある。すると、まず自分は笑点という番組が嫌いなのだと気づく。なぜ嫌いなのかといえば、自分は大阪人で上方の落語家ならともかく関東の演芸が肌に合わないからだとわかる。それでは関東人はみんな笑点が好きなのかと考えてみれば、どうもお年寄りばかりが見ているようで、若者はきっと見ていないのではないかと気づく。つまり、この直感の前提は“関東のお年寄りしか見てないのに”ということになる。われわれの直感の裏側にはこういったロジックが実は埋め込まれている。とりあえずこの前提が明らかになれば、きっと笑点ファンの人にもこの直感を理解してもらえるはずだ。

自分の頭のなかにあった前提を明らかにすることで直感の全貌が見えてきたら、最後にしなければならないことは(3)仮説を探すことだ。これも論理思考である。なぜ笑点がいまだに放送されているのか、自分の頭のなかで考えられるかぎり考えてみればいい。おそらくこの場合は簡単で、笑点は視聴率が良いということになるだろう(インターネットで調べてみたら常に15%以上をとっているらしい)。若者は日曜日には行楽に出かけていて、この時間帯に自宅にいるのはお年寄りが多いのかもしれない(大相撲の時期は若干視聴率が下がるらしい)。すると、わたしも年寄りになると笑点を面白がって見るようになるのか、といった新しい疑問もわいてくる。ほかにも次のような直感をもってきた学生がいた。“どうしてスタジオジブリのアニメには大人も見に行くのだろうか”。おそらくこの直感の前提には、普通はアニメ映画を大人は見に行かないはずだ、というのがあるのだろう。これも仮説を真剣に考えてみればいい。ひとつは子供の頃にジブリアニメをよく見ていた人が大人になっても見に行っているという仮説が考えられるが、これはドラえもんも同じ条件のはずなので当てはまらない。大人も見られる作品内容だという仮説はなるほどと思うけれども、COWBOY BEBOPのような大人向けのアニメも結局はアニメ好きの大人しか見ていないことを考えれば、この仮説も説明力が足りない。もともとアニメ映画を大人が喜んで見に行くという習慣がなかったのにスタジオジブリがうまくブランド化に成功した(宣伝も含めてマーケティングがうまかった)という仮説については、これはなにかありそうだと思う。

こういった心と頭の運動をうまく連携させてやることで、なにかが見えてくる。ここで、なにかありそうだと思えば、関連する文献を読んで、さらに直感の外堀を埋めていけばいい。実際のところ、上記の笑点とジブリアニメの両方に対する素朴な疑問はちょっと仮説を考えてみればすぐに答えが見つかってしまいそうな問いなので、研究してみるほどの価値がなさそうだと自分で気づくことができる。なかなか答えの見つからない疑問や直感をまた収集することになるのだけれども、これは心と頭を使った面白いゲームなので苦痛ではないはずだ。

忘れてはならないのは、必ず直感から入るということだ。会社にお勤めの人たちも職場での直感をスタートラインにしてじっくりと考えていけば興味深い研究テーマが得られると思う。そのために直感を得る機会をたくさん増やしてほしい。前述のように、電車のなかも直感の宝庫だ。そんなときにヘッドフォンをつけて音楽を聴いているなんてもったいない(そんなに音楽が好きなら自宅のオーディオの前に座ってじっくりと堪能すればいい)。電車のなかにいるときも、街を歩くときも、ぜひいろんなものを見聞きしてほしい。直感を得るのは快感だ。

夏休みのあいだにも一度、ヒューマンイノベーションコースの院生ゼミを開催する予定だけれど、みんな良い直感を持ってきてくれるだろうか…。少しだけ心配だ。というのも、不幸なことにこの直感だけは誰にも手助けできない領域だからだ。でも幸いなことにこの直感だけは科学の世界にあっても誰にも介入されない聖域なのだ。そのことを楽しめ人は研究に向いていると思う。


最近読んだ「目からウロコ」論文―その3(佐伯胖)

2009/6/13

前回、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD)について、Chaiklinが「客観的ZPD」と「主観的ZPD」の2種類に分けて考えるべきだしていることを説明した。その場合、「客観的ZPD」というのは、すべての年齢層の子どもたちが直面している、社会歴史的に構成され準備されている“次の段階”へ向けての橋渡し的状況にあり、そこでは、その年齢層の子どもの精神機能の発達が“次の段階”への備えとなるべく、社会歴史的に(否応なく)「方向付けられているという状況を指しているとした。この問題を、私は、LPP論における学習者の「アイデンティティ」が、そのコミュニティの社会歴史的に形作られてきている「成員性(membership)」への同一化へむけてのプレッシャーにさらされているという「客観的状況」の問題に対応していると述べた。

それでは、ZPDについて、個人の発達に焦点化した「主観的ZPD」とはどういうものだろうか。

「主観的ZPD」というのは、特定の個人としての子どもが、その子どもを取り巻く大人や教師、もしくは「次の段階の子ども」と関わる中で、自分自身の発達を“方向付けている”(そういう交渉過程の中で「自分一人ではできない-あるいは、やらない-こと」をするようになる)状況のことである。ちなみに、ここでも「ZPD」というのは子どもの「発達」を捉える視点であって、「そういう状況」が学習を促進させるのだとか、「そういう状況」こそが理想的な「教授(instruction)」だというわけではない点は注意しておくべきであろう。

Chaiklinによると、ヴィゴツキーの「主観的ZPD」を構成しているのは、「模倣(imitation)」だという。言い換えると、「主観的ZPD」で子どもが求めているのは自ら「模倣したい(模倣したくなる)」と同時に「模倣できる」対象なのである。ただし、ヴィゴツキーはこの場合の「模倣」は表面的な物まね(ミミッキング)ではないとのことである。あくまで、その子どもにとって背後の「意味」あるいは「理由(わけ)」がわかっての模倣だというのである。「どうしてそうやるのか、そうやるとどういう意味になるのか」がおよそ「わかる」範囲での模倣だというのである。

私としては、こんなところで突然「模倣」問題が飛び出してきたことには驚いた。子どもの発達を考えるとき、子どもがどのように他者を模倣するかについての発達が重要な鍵になるということについて、最近論文を書いたところである。(佐伯胖 2008 展望:模倣の発達とその意味 『保育学研究』第46巻第2号、347-357.

また、トマセロ(M. Tomasello)は「模倣」こそが、人間の「文化」生成の鍵であること、「模倣」にもとづく学習こそが「文化を創る」学習であるとしている。

Tomasello, M., Kruger, A., and Ratner, H. 1993 Cultural learning. Behavioral and Brain Sciences, 16, 495-552.

Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., and Moll, H. 2005 Understanding and sharing intentions: The origins of cultural cognition. Behavioral and Brain Sciences, 28, 675-753.

佐伯やトマセロが焦点をあてているのは、ヴィゴツキー同様、表面的な物まねのことではなく、「意味がわかっての模倣」のことである。

考えてみると、ヴィゴツキーが「模倣」に焦点を当てるのは、発達を「子ども全体(whole child)」の問題だとすることから当然の帰着でもある。なぜなら、「模倣」というのは、個々の動作を「写し取る」というようなものではなく、相手に「なってみる」ことで初めてできることなのである。つまり、「多様な精神機能の統一体」としての「全人格(whole person)」に「なってみる」ことでしかできない。「五木ひろし」のマネをするタレントのコロッケは、五木ひろしの声だけでなく、表情、仕草、語り口など、ありとあらゆる様態のすべてを「まるごと」(全人格的に)真似ているのである。精神機能の発達はすべて「子ども全体(whole child)」のレベルで生起するとしたヴィゴツキーが、発達の生み出す原動力は「模倣」であるとしたことは、当然と言えば当然であろう。

しかし、模倣と発達との関係は、ヴィゴツキーが予想していた以上に複雑かつ重要な問題をかかえている。Chaiklinによれば、ヴィゴツキーはくりかえし、ZPDでいう「模倣」は「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」ではないと断っているという。たしかに、ヒトの模倣の発達を見ると、生まれて直後の新生児模倣は「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」だが、やがて、行為者の意図や行為で達成されることの意味を理解しての模倣になっていくのだが、学齢期が近づき、言語使用がはじまると、「意味がまったくわからないこと」をそっくり取り込む模倣が入り込み、それがどんどん「発達」していくのである。ヴィゴツキーは、「学校教育」についてはかなり楽観的かつ肯定的に見ているようであるが、むしろ、学校では、「意味がまったくわからいこと」でも「先生が教示している」というだけで、まるごと「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」で対応することが要求され、「考えない子ども」がどんどん「育って」しまう。

先の「客観的ZPD」のまっただなかで、「主観的ZPD」が「模倣」を通して一人一人の独自の発達を生み出していくというのはどういうプロセスなのだろうか。

幼少のときからベートーベンやショパンのピアノ曲を「丸暗記」して弾きまくり、20歳にしてヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝した辻井伸行氏にとっての「模倣」とはどういうものだったのだろうか。おそらく、そのときそのとき、彼自身にとってのできるかぎりで「ベートーベンになること」、「ショパンになること」に集中していたにちがいない。おそらくいつも、「彼流に」という但し書きが、本人の意識とは無関係につきまとっていたに違いないが。(おわり)


最近読んだ「目からウロコ」論文-その2(佐伯胖)

2009/6/7

前回Chaiklin論文で、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD)が、あくまで「発達」のモデルであって、「学習を促す」話ではないと言うこと、さらに、ヴィゴツキーが「発達」と捉えていることは、「アレができる、コレができる」というスキルや、「アレを知っている、コレを知っている」という知識ではなく、それらが相互に関係し合う「統一体」としての「子ども全体(whole child)」の変容を指していることが指摘されていた。この「子ども全体」というとらえ方は、レイヴとウェンガーの「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation: LPP)において、学習とは「実践共同体への参加を通して、学習者のアイデンティティが変容すること」とし、その場合、変容するのは学習者の「全人格(whole person)」であるとしていることに相通じる考え方であることを知って、「目からウロコ」だったことを述べた。

ちなみに、発達を子どもが「人間になっていくこと」として全人格的に捉えるべきであり、「コレができる」、「アレができる」ということに焦点化すべきではないということは、『幼児の教育』(日本幼稚園協会発行)の20094月号(第108巻第4号)の巻頭言“幼児の「発達」をどう見るか”(pp. 4-7)で論じておいた。

さて、Chaiklinによると、ヴィゴツキーのZPDには、「客観的(objectiveZPD」と名付けるべき概念と、「主観的(subjectiveZPD」と名付けるべき概念があるという。「客観的ZPD」というのは、特定の個人としての子どもには焦点化せず、特定の年齢層の子どもの一般的な「成熟度」とともに、その年齢層の子どもについて社会的・歴史的に形作られた子ども像が、次の年齢層の子どもについての成熟度にあわせた社会歴史的に期待され想定される子ども像への「橋渡し」的状態にあるとして「発達」を見るということを指している。

我が国の最近の幼児教育界の実情に合わせて言うならば、幼稚園の年長組の子どもたちは、否応なく、「小学校に行く」べく、社会的・歴史的に構成された子ども像からの制約を受けており、それが、その年齢の子どもの知的能力全般の「成熟度」と相まって、さまざまな矛盾やプレッシャーのまっただ中にいる、そういう状況が「客観的ZPD」ということになる。ここで、文部科学省が「幼小連携」を叫び、幼稚園がもっと「小学校へ行く」準備となる保育をすべきだという話についてあえて言うならば、別に文部科学省が言わなくとも、今日の社会全体、教育制度のありよう、幼児の教育をめぐる社会歴史的流れの中で、「幼小連携」志向のモーメントが、幼稚園年長組の年齢層の子どもたちに「客観的ZPD」を構成しており、子どもの発達が、「よい」とか「わるい」とかではなく、否応なく、そういう中に位置づけられているという「客観的現実」を「客観的ZPD」と言うのである。年齢を下げて言うならば、「幼稚園に行く」前の年齢層の幼児に対しても、いわゆる「お受験」をする・しないにかかわらず、何らかの意味で、次の段階(幼稚園児)への「橋渡し」的な社会歴史的制約を受けているばかりでなく、子どもの精神発達の成熟度が、そういう制約を抵抗なく受容する(受け入れる)段階にあるという「客観的ZPD」からまぬがれることはできない。

ところで、前回同様、Chaiklinが解き明かすZPDについての議論が、おそらくChaiklin本人は気付いていないだろう(たぶん?)と思われるが、小生にはレイヴとウェンガーのLPP論と関連づいていることとして考えないわけにはいかない。

それではChaiklinのいう「客観的ZPD」に対応するものはLPP論ではどういうことになるだろうか。

それはLPP論でいう「アイデンティティ」に関連している。LPP論では、通常「アイデンティティ」を共同体の“成員性”として捉える。しかし、「共同体の成員性」というと、それはその共同体の中で社会・歴史的に想定され、期待される「あるべき姿」を指しているようにも受け止められる。人類学や社会学の観点を強調すれば、「アイデンティティ」というのはその社会の「ハビトス」の獲得であり、「そのコミュニティの成員」という資格条件を満足し、期待される行動様式を「身に付けること」と見なされる。しかし、レイヴとウェンガーは、そのような「固定化した」アイデンティティ観を「内化」論(外側の制約が学習者の中に「取り込まれる」こととする論)として退け、世界の意味についての絶えざる交渉、再交渉の中で「変化する」アイデンティティ観を提唱している。しかし、「客観的ZPD」論は、LPP論でいえば、「社会歴史的に期待され、想定され、促され、否応なく“身に付けさせられる”共同体の“成員性”へのプレッシャー、相克、矛盾、もがき」としての「アイデンティティ状況」なるものの存在をうきぼりにする。

ここまでくると、その解釈が多様でしかも難解な、かのHodgesの「反・アイデンティティとしての参加」の意味が、なんとなくわかってくるではないか。

Hodges, D. C. 1998 Participation as dis-identification with/in a community of practice. Mind, Culture, and Activity, 5(4), 272-290.

Hodges は幼児教育の教員になるために受けた実習で、自分の居場所を失い、「その世界」に入れない自分を発見するのだが、「その世界に反発する」という自らの「反・アイデンティティ」こそが、LPPでいう「参加」になっていることを論じている。これは、「幼児教育コミュニティ」における成員性の「客観的ZPD」的状況をしっかり見つめ、その内実をきちんと把握することで、自らの、自分自身のアイデンティティのありようと、みずから切り開く「参加」の軌道を示そうとした論文だと解釈できるのではないか。

さて、こうなると、ZPD論でも、「客観的ZPD」の中で生きようとする一人の「個人」のZPDはどうなるのか気にならないではいられない。そこでChaiklinZPD論に戻って、では一人一人の子ども自身の、個別の「発達」をとらえる「主観的(subjectiveZPD」とはどういうものかを考えることにしよう。それについては、次回(3枚目の「ウロコ」落とし)で論じることにする。


最近読んだ「目からウロコ」論文-その1(佐伯胖)

2009/6/2

昨年秋にカリフォルニアのサンディエゴで開催されたISCARInternational Society for Cultural and Activity)大会で、小生の発表に対してSeth Chaiklin がいろいろ有意義なコメントをくださったのだが、「ほんのついで」という感じで、「Sayeki ZPD (Zone of Proximal Development) 解釈は、“よくある誤解”にはまっているので、私が数年前に書いた論文を読むとよい。」と言われた。

帰国後、しばらくはほったらかしにしてあったが、最近、気になって読んでみた。読んだ論文は

Chaiklin, S. 2003. The zone of proximal development in Vygotsky’s analysis of learning and instruction. In A. Kozulin, et al. (Eds.) Vygotsky’s Educational Theory in Cultural Context. Cambridge University Press.

である。

読んだところ、これはまさに「目からウロコが落ちる」経験をしたので、ちょっと長くなるが、本ブログでその概要を3回にわけて紹介する。

ZPDというのは、ヴィゴツキーL. S. Vygotsky, 1896-1934:ロシアの発達心理学者)の中心概念で、「最近接発達領域」(または「発達の最近接領域」)と訳されており、ヴィゴツキー学派の人たちが学習や教育を語るときには必ず引き合いに出す鍵概念である。その定義は「現時点で子どもが自力でいろいろな課題を解決できる知的水準と、他者の助けを借りれば解決できる知的水準の差(当然、後者の方が高い水準)の領域」とされる。そこで、ちょうどこの領域に入る課題(つまり、「子どもが自力では解決できないが大人や教師がうまく援助してあげれば解決できる」課題)を適切に与えれば、子どもの発達を最大限に促すことができるという、いわば「早期教育」万歳論に理論的根拠を与えているかのように解釈されてきた。いや、そうではなく、子どもは周りの社会的環境全体(大人や教師だけでなく)と相互交渉することによって新しい「知」を獲得する(「収奪appropriationする」)という「学習」の一般論を述べているだけだという解釈もされてきた。(それ以外にも、さまざまな解釈がなされてきたが、それについてはここでは省略する。)

Chaiklinは、ヴィゴツキーの書いたとされる入手可能な論文のなかで、ZPDについて言及しているものすべてを調べ上げた結果、ヴィゴツキー自身のZPD概念は、従来通説とされているものとはかなり異なったものであると指摘している。

Chaiklinがいうには、ZPDは「発達」の最近接領域であって、「学習」の最近接領域ではない、ということである。つまり、ヴィゴツキーが中心的に関心をもっていたのは子どもの「発達」であって、「学習」ではないという。つまり、子どもの「発達」を論じる際、子どもが自分一人でいるときに発揮するさまざまな精神機能(知的能力)から現時点での発達水準を査定するのではなく、大人や教師があれこれと「働きかける」なかで示す精神機能(知的能力)が、子ども独自の精神機能に“近接している”(接している)――つまり、発達の「次の段階」が目の前にある――ということを同時に視野に入れて、「発達」を捉えるべきだ、といっているのがZPD提唱のヴィゴツキーの本来の意図だったのだという。ここで注意したいのは、ヴィゴツキーが「発達」と呼んでいることは、子どもが「アレができる、コレができる」というスキルとか、「アレを知っている」、「コレを知っている」という個別の知識を意味するわけではなく、さまざまな精神機能が相互に関連しあった「統一体」として、その子ども全体(whole child)を構成しているものを指すとしている(つまり、大人がアレコレと助けてあげて「できるようになる」ことを意味しているわけではない)。

ところで、ヴィゴツキーが「発達」を「子ども全体(whole child)」として捉えるという考え方は、最近注目されているレイヴとウェンガーの正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation: LPP)が「学習」を個別的知識や技能の獲得として見るのではなく、全人格(whole person)の変容、つまり、アイデンティティの変容として見る、ということにも相通じる重要な観点である。

ちなみに、LPPについては、本年度のヒューマンイノベーション・コースの授業「学習学原論」で取り上げているが、前回の授業で、「LPPは“全人格”を問題にしている」と説明したところ、聴講していた学生の一人が、「教育という世界で、“全人格”を問題にされるのはたまらなくイヤだ。息がつまってしまう。むしろ、単純に“能力”だけをとりあげてくれた方がいい。」というコメントをくれた。しかし、これはあきらかにLPPにおける「全人格(whole person)」の誤解であり、ヴィゴツキー発達論における「子ども全体(whole child)」の誤解にもつながる話である。「全人格」性とか、「子ども全体」性というのは、人や子どもを「評価」する際の話ではない。まして、「全人教育」というようなある種の「教育的働きかけ」を意味しているわけでもない。その点の誤解はともかく解いておかねばならない。

ヴィゴツキーが「子ども全体」というとき(あるいは、レイヴとウェンガーが「全人格」というとき)、それはその子ども(人)が「アレができる」、「コレができる」ということを個別的に「習得すべき技能項目」をクリアしていくという話として取り上げないということである。「コレができるがアレはできない」、「コレができるからアレができる」、というように、いろいろな「デキルこと」が相互に関連しあっていて、当人にとって、当人の全体として、「しっくりいっていること」(ナルホド、そういうコトかと“納得”できること)として「統一が取れている」ことを意味している。そうでない「付け焼き刃的に」デキル話はそこには入らない。

ヴィゴツキーがZPDで問題にしているのは、このような「現時点での子どもの“統一体としての”さまざまな精神機能水準」(知的段階)が、「大人と接している中で子どもが示すその子どもの“統一体としての”一歩進んだ精神機能水準」(次の知的段階)に「接している」というのが、“発達”の最近接領域の意味だというわけである。ここには、学習(learning)とか教授(instruction)の入る余地はないのである。むしろ、LPP論で言う「アイデンティティの変容」に近い。LPP論的知見を借りていうなら、子どもは大人(や教師)と接しているとき、自分が「次になってみたい」姿の軌道(トラジェクトリー)を見るのではないか。つまり、大人の世界を見たとき、「アレができる」、「コレができる」という個別の「デキルこと」を(付け焼き刃的に)身につけようとするのではなく、「あんなコトやこんなコト」がさりげなくできてしまう、統一の取れた、全人間としての、「次になりたい自分」を見るのではないか。LPP的に言えば、ZPDは(LPPでいう「参加の軌道」ではなく)「発達の軌道」)を子どもが「かいま見る」ということではないだろうか。

以上が、Chaiklin論文を読んで最初に落ちた「一枚目のウロコ」である。

次に落ちた「二枚目のウロコ」は次回にゆずる。