最近読んだ「目からウロコ」論文-その1(佐伯胖)

2009/6/2

昨年秋にカリフォルニアのサンディエゴで開催されたISCARInternational Society for Cultural and Activity)大会で、小生の発表に対してSeth Chaiklin がいろいろ有意義なコメントをくださったのだが、「ほんのついで」という感じで、「Sayeki ZPD (Zone of Proximal Development) 解釈は、“よくある誤解”にはまっているので、私が数年前に書いた論文を読むとよい。」と言われた。

帰国後、しばらくはほったらかしにしてあったが、最近、気になって読んでみた。読んだ論文は

Chaiklin, S. 2003. The zone of proximal development in Vygotsky’s analysis of learning and instruction. In A. Kozulin, et al. (Eds.) Vygotsky’s Educational Theory in Cultural Context. Cambridge University Press.

である。

読んだところ、これはまさに「目からウロコが落ちる」経験をしたので、ちょっと長くなるが、本ブログでその概要を3回にわけて紹介する。

ZPDというのは、ヴィゴツキーL. S. Vygotsky, 1896-1934:ロシアの発達心理学者)の中心概念で、「最近接発達領域」(または「発達の最近接領域」)と訳されており、ヴィゴツキー学派の人たちが学習や教育を語るときには必ず引き合いに出す鍵概念である。その定義は「現時点で子どもが自力でいろいろな課題を解決できる知的水準と、他者の助けを借りれば解決できる知的水準の差(当然、後者の方が高い水準)の領域」とされる。そこで、ちょうどこの領域に入る課題(つまり、「子どもが自力では解決できないが大人や教師がうまく援助してあげれば解決できる」課題)を適切に与えれば、子どもの発達を最大限に促すことができるという、いわば「早期教育」万歳論に理論的根拠を与えているかのように解釈されてきた。いや、そうではなく、子どもは周りの社会的環境全体(大人や教師だけでなく)と相互交渉することによって新しい「知」を獲得する(「収奪appropriationする」)という「学習」の一般論を述べているだけだという解釈もされてきた。(それ以外にも、さまざまな解釈がなされてきたが、それについてはここでは省略する。)

Chaiklinは、ヴィゴツキーの書いたとされる入手可能な論文のなかで、ZPDについて言及しているものすべてを調べ上げた結果、ヴィゴツキー自身のZPD概念は、従来通説とされているものとはかなり異なったものであると指摘している。

Chaiklinがいうには、ZPDは「発達」の最近接領域であって、「学習」の最近接領域ではない、ということである。つまり、ヴィゴツキーが中心的に関心をもっていたのは子どもの「発達」であって、「学習」ではないという。つまり、子どもの「発達」を論じる際、子どもが自分一人でいるときに発揮するさまざまな精神機能(知的能力)から現時点での発達水準を査定するのではなく、大人や教師があれこれと「働きかける」なかで示す精神機能(知的能力)が、子ども独自の精神機能に“近接している”(接している)――つまり、発達の「次の段階」が目の前にある――ということを同時に視野に入れて、「発達」を捉えるべきだ、といっているのがZPD提唱のヴィゴツキーの本来の意図だったのだという。ここで注意したいのは、ヴィゴツキーが「発達」と呼んでいることは、子どもが「アレができる、コレができる」というスキルとか、「アレを知っている」、「コレを知っている」という個別の知識を意味するわけではなく、さまざまな精神機能が相互に関連しあった「統一体」として、その子ども全体(whole child)を構成しているものを指すとしている(つまり、大人がアレコレと助けてあげて「できるようになる」ことを意味しているわけではない)。

ところで、ヴィゴツキーが「発達」を「子ども全体(whole child)」として捉えるという考え方は、最近注目されているレイヴとウェンガーの正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation: LPP)が「学習」を個別的知識や技能の獲得として見るのではなく、全人格(whole person)の変容、つまり、アイデンティティの変容として見る、ということにも相通じる重要な観点である。

ちなみに、LPPについては、本年度のヒューマンイノベーション・コースの授業「学習学原論」で取り上げているが、前回の授業で、「LPPは“全人格”を問題にしている」と説明したところ、聴講していた学生の一人が、「教育という世界で、“全人格”を問題にされるのはたまらなくイヤだ。息がつまってしまう。むしろ、単純に“能力”だけをとりあげてくれた方がいい。」というコメントをくれた。しかし、これはあきらかにLPPにおける「全人格(whole person)」の誤解であり、ヴィゴツキー発達論における「子ども全体(whole child)」の誤解にもつながる話である。「全人格」性とか、「子ども全体」性というのは、人や子どもを「評価」する際の話ではない。まして、「全人教育」というようなある種の「教育的働きかけ」を意味しているわけでもない。その点の誤解はともかく解いておかねばならない。

ヴィゴツキーが「子ども全体」というとき(あるいは、レイヴとウェンガーが「全人格」というとき)、それはその子ども(人)が「アレができる」、「コレができる」ということを個別的に「習得すべき技能項目」をクリアしていくという話として取り上げないということである。「コレができるがアレはできない」、「コレができるからアレができる」、というように、いろいろな「デキルこと」が相互に関連しあっていて、当人にとって、当人の全体として、「しっくりいっていること」(ナルホド、そういうコトかと“納得”できること)として「統一が取れている」ことを意味している。そうでない「付け焼き刃的に」デキル話はそこには入らない。

ヴィゴツキーがZPDで問題にしているのは、このような「現時点での子どもの“統一体としての”さまざまな精神機能水準」(知的段階)が、「大人と接している中で子どもが示すその子どもの“統一体としての”一歩進んだ精神機能水準」(次の知的段階)に「接している」というのが、“発達”の最近接領域の意味だというわけである。ここには、学習(learning)とか教授(instruction)の入る余地はないのである。むしろ、LPP論で言う「アイデンティティの変容」に近い。LPP論的知見を借りていうなら、子どもは大人(や教師)と接しているとき、自分が「次になってみたい」姿の軌道(トラジェクトリー)を見るのではないか。つまり、大人の世界を見たとき、「アレができる」、「コレができる」という個別の「デキルこと」を(付け焼き刃的に)身につけようとするのではなく、「あんなコトやこんなコト」がさりげなくできてしまう、統一の取れた、全人間としての、「次になりたい自分」を見るのではないか。LPP的に言えば、ZPDは(LPPでいう「参加の軌道」ではなく)「発達の軌道」)を子どもが「かいま見る」ということではないだろうか。

以上が、Chaiklin論文を読んで最初に落ちた「一枚目のウロコ」である。

次に落ちた「二枚目のウロコ」は次回にゆずる。


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