会田誠の息子の話を読んで学校の機能を考える

2017/4/5

だいぶ前に,会田誠の個展(六本木ヒルズ)に行ったついでに『カリコリせんとや生まれけん』(幻冬舎文庫)を買って読んだのを,少し前に読み返した.いろいろと書きたいことはあるのだが,彼の息子の話(彼の妻による)が大変に印象的だった.

彼には寅次郎という名前の息子がいる(今はもう大学生くらいかな,都美で作品を撤去させるさせないでもめたが,この本の当時は小学1年生).学校では完全な逸脱者で,先生の言うことは聞かない,席に座っていない,(小1のくせに)先生に口答えする,恐ろしく大人びたことを言う(校長に直談判、学校粉砕等々),教室で全裸になるなどで、学校からは専門家に見てもらって、特別支援学級に行くことを勧められている.しかし、家では確かに聞かん坊であり,変わったことをするが,別段特殊というわけでもないという(会田夫妻談).母親は学校の教師とのやり取りに疲れ果て,ノイローゼになり,それから皮膚炎にもなり(夫談)、『死にたい』(たぶん冗談)と何度も口にする.なにやらこの奇行は父親譲りなんだそうだ.

さてこれを読んでいると,大学院時代にMichael Coleが書いていた論文を思い出す.グループ生活では全く問題ない、逆にリーダー的な存在である子どもが、学校の中では問題児とされ,(名前は忘れたけど)「なんとか障害」とされているというやつだ.覚えている限りでColeたちはこれが学校とは別の有能さを示すものであるというような、ある意味ヒューマニスティックな結論を出していたように思う.

しかし、問題はそういうことではないように思える.それは学校というものが持つ機能の話だ.教育社会学者の竹内洋(元京大教授)は,学校の持つ社会的機能は2つである(2つしかない!)と述べている.1つは社会化で,もう1つは選別である.二つ目の方はいろいろとあると思うが,1つめは多くの人が納得することだと思う.社会でちゃんと生きられる人間を育てるというのは,教育という分野に税金を山ほど使うことの根拠となる大事なものだ.でも簡単に言うと,「黙って言うことを聞け」という話だ.教員採用試験という,この常識の度合いを測るテストによって選ばれた先生たちは(別に悪い意味ではなく)きわめて常識的であると思う.よってこの人たちが思うような社会化が教室でなされれば,(大きな変革がない限り)生徒たちはうまく社会適応できるであろう.

当然のことだが,そこでいう社会化とは,支配者の思惑の中での社会化に過ぎないということも頭に入れておく必要があるだろう.この思惑とは,自分たち支配者が決めた規律に従え、反抗するな,その根拠を問うな,というものだ.教師は一人ひとりのことなんかかまってられないし,そんなことをいちいちするよりも、まず自分を見習えみたいな感じで進むのが効率的だ.まことに情けない,と歯ぎしりする方もいるだろうが,少なくとも日本で社会生活を送るというのはそういうことだ.それにしたがわなければ特別な場所に送られるということだ.

そういうところからはじき出されたのが寅次郎くんだと思う.正直,どうしようもない気もします.いろんな病名が増えて,その判定をする資格保持者が増えて,「ちょっと変わった子」では許されなくなってきたわけですね.これについては,親が逞しくなる以外の方法はないかな.


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ポランニーから見るプロジェクション:棲み込み

2017/4/5

さて近位項として捉えたものを遠位項に投射するということは,遠位項の世界の中に自分の感覚を飛ばすこと=プロジェクション(投射)すること,となる.ということは,遠位項の中に自分の感覚が存在することになる.世界の中の対象である遠位項の中に自分の感覚があるということは,言い方を変えれば,遠位項のある世界に自分が「棲み込む(dwell in)」ということだ.

このように考えると,棲み込みは身体化(embodiment)とも密接に絡むことになる.対象世界の中に自分の感覚,認識を投射することで,世界を内在化=身体化するということだ.これによって対象世界の動きが自分の身体の動きのように自然なものとなり,なぜそう動くのかを直感として理解できるようになる.ここでは近位項=感覚はもう意識されない,暗黙化,私秘化されている(ここらへんは,佐伯さんの擬人化なので,これもまた別エントリーで書きますけど,佐伯さんの90年代くらいに顕著に表れていた主張とポランニーはとても似ている).

このように言うと大変に神秘的なもののように聞こえるかもしれないが,ごくごく当たり前のことではないだろうか.例えば前のエントリーで書いたような杖のことを考えてみよう.杖を使っている人はそれが何か障害物に当たった時には,その障害物を感知するのであり,自分の手のひらの感覚はよほど極端なもの,あるいはありえないもの(電気ショックとか)でない限り,意識の外にあるのではないだろうか.

視覚もそうだが,これは別エントリーで書くので,聴覚を取り上げてみる.ここでも杖と同じことが起きる.実際には鼓膜の振動,耳小骨,蝸牛の振動,活動が近位項となる.しかしこれを感じる人はいない.音の発生源=遠位項が直接に感じられる(杖同様,あまりに異常な刺激,極端に大きな音などの場合は,耳が痛くなる,つまり近位項を感じる).

このように極端な場合を除けば,ある程度慣れ親しんだ近位項=感覚は私秘化,暗黙化される.つまり意識の外に出てしまうのである(暗黙知というのはこのことを指すわけではないことに注意).すると感覚を与えていた遠位項が自分の目前にある,あるいは自分が遠位項のなかに入り込んでいる,つまり棲み込みという感覚が生み出される.

こうした現象の脳内機序については,「脳の中の身体地図―ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ」でさまざまな例が見られるボディマップの更新,またこの本の中で紹介されている入来らの研究が参考になると思う.


ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項

2017/4/4

マイケル・ポランニーといえば「暗黙知の次元(The Tacit dimension)」という連想がすぐになされる.それで暗黙知=言葉では語れない知識があるということになり,それを明らかにしよう,明示化・公共化しようということを言う人もいる.これについてはいろいろと議論があるのだけど,今回はそういう話ではなく,プロジェクション・サイエンスとの関係を考えてみたい.

実はプロジェクション・サイエンスを真面目に考えられそうかかなと思った,幾つかのきっかけの1つはポランニーの上記の本なのだ.彼はその中で近位(近接)項と遠位項(遠隔項)という概念を持ち出す.これらは心理学者には珍しい話ではないのだけど,他ではあまり聞かないかもしれない.彼はメルロー=ポンティも使った盲人の杖を例に出す.杖の先に何かの障害物,例えば壁にあたり,その振動が杖を持つ手のひらに伝わる.この時,手に感じるものが近位項であり,その近位項を生み出した壁が遠位項となる.プロジェクション・サイエンスの言葉で言えば,近位項=ソース(感覚,その表象),遠位項=ターゲットとなる.

近位項=手のひらの感覚自体は,遠位項=壁とはどういう意味においても類似していない.だから近位項をどんなに詳しく解説しても,壁は現れてこない.しかしこれの間のつながりを人は生み出している.これをポランニーは,投射,プロジェクションと呼んだ.そして投射は西欧哲学の中でまともに取り上げられたことはないが,確実に存在する重要なものであると述べている.そして理解の背後には必ず投射が存在していると指摘した.

(この「投射」の下りなんだけど,20年以上前にこの本を読んだ時に,赤線でしっかりとマークしてある.そのとき大事だろうなと直感的に思ったのだけど,数年前に読み返すまで全く記憶に残っていなかった.でもプロジェクション・サイエンスのことを考え始めたときに,「なんかポランニーは読まないといけない」とか,そういう形で思い出した.面白い.)

この考え方は人の認識の様々な局面に応用することができる.文章理解で考えてみよう.私たちが文を読むときに直接感じ取れるのは,その文の単語,文法そういったことである.これらは近位項となる.一方,文はある状況,状態を記述している.これが遠位項となる.近位項として触れるもの自体は,それが記述する状況とは何の関係もない.例えば,「太郎は眠くなったのでベッドに向かった」という文を構成するいかなるものも,現実の太郎,ベッド,眠さ,向かうこととは類似していない.しかし私たちは受け取った近位項から,それが記述しようとする状況という遠位項へとプロジェクションを行うのである.そしてこの時に初めて文が理解されたと言える.

さてこのように考えると,遠位項が意味であり,近位項はその構成要素であるかのように考える人がいるかもしれない.しかしそれは間違いだと思う.近位項は遠位項を前にした時の身体感覚なのであり,これを抜きに遠位項だけを理解することはできない.例えば盲人は杖から伝わる手のひらの感覚抜きに,壁を感じる事,理解する事ができるだろうか.それは無理な話だろう.だとすると二つのつながり,包括的理解が意味なのであり,どちらか一方が意味的な優先性を帯びているわけではない事がわかる.

近位項としての身体感覚と遠位項としての対象,状況,世界との間の関係は,視覚を例にとるとさらに面白くなるけど,これもまた長くなると思うのでまずここで一回区切っておこう.


「下へ倣え」でうまく行きますか?

2017/4/4

以下のものだいぶ前に書いて途中にしていたものです.

民間よりも退職金が多い,ということで国家公務員,そして地方公務員のそれが削減された.そういうことで早期退職者が増えた.生活保護をもらっている人の方がリッチとか言うことで,生活保護の受給水準も引き下げらた.国立大学勤務の友人たちは,しばらく前には何も悪いこともしていないのに10%以内(大学によっていろいろ)の給料(ボーナスだけとか、収入全体とか,これも大学によるらしい)を削減された.公務員以外,生活保護受給者以外の人は喝采しますか.また早期退職した教師や警察官は『決して許されざる』(下村文科大臣)人たちで、バッシングでもしますか.
上記に同意する人は自分の不明を恥じ,心底考えを改めるべきです.
こういうことを続けていくと,人の生活のレベルがどんどん下がっていくことは明白でしょう.教員の退職について考えてみれば,3月まで働き続けて150万程度の減少となる.これはその年齢の教員の3ヶ月分程度となるのではないでしょうか.子どもがかわいければ,3ヶ月程度の給料は我慢しろと言えるのでしょうか.生活保護受給者よりも少ない給料で働かす会社はどういう経営をしているのでしょうか.
こうやって生活のレベルがどんどん引き下げられる.定職に就けなくて,家庭を営むことが困難な人たちが増えている.こういう人たちにならって、みんながそのレベルに行くことが公平なんでしょうか.公務員が下がったのだから,民間のうちも下げる.すると公務員だけ高いとなり,また公務員の給与がまた下がる.そういう負のスパイラルが始まります.

etc ]

プロジェクション・サイエンスとは何か?

2017/3/31

前のエントリーのようなことで十数年来のテーマに一応カタをつけたので,2016年から2つの関連する研究テーマに現在邁進中です.1つはプロジェクション・サイエンスの設立に関わるものです.

認知科学は物理世界の刺激,情報から,なぜ主観的な経験が生まれるのかをなんとか研究しようとしてきました.そしてその野望は脳科学との協働により,素晴らしい形で実現されてきました.50年前と比べてください,誰にとっても,そこには心の探求という道筋での飛躍的な進歩がはっきりと見えると思います.

しかしながら,ここに大きな問題が潜んでいます.入力から構成される表象は,脳内,あるいは情報処理システム内の出来事です.知覚,記憶,学習の成果は脳内に出来上がります.しかし,それらは外界に存在するものなのです.別の言い方をすれば,誰かの顔を認識するとは,脳内の出来事であると同時に外界への参照でもあるのです.

この投射を「表象」について探求するのがプロジェクション・サイエンスです.例えば触覚は分かりやすい例です.皮膚表面の刺激は,体性感覚野で表象されますが,体性感覚野が冷たかったり,痛かったりするわけではなく,当該の刺激の部位にそれを感じるわけです.これはプロジェクションです.このプロジェクションの過程には求心性,遠心性の神経が関わるので理解しやすい例となっています.視覚における対象の定位にもプロジェクションが含まれます.視覚機能の働きにより対象の表象が脳内(情報処理システム内)に出来上がります.しかし私たちは脳の中に対象を見るのではなく,世界の中に対象を見ます.つまりここでは視覚表象のプロジェクションが起きているわけです.しかし触覚とは異なり,表象から対象に至る物理的経路は存在しません.聴覚も同様です.

これらの知覚は情報の発信源(以降ソース)とその定位先(以降ターゲット)が同一ですが,異なる場合もあります.例えば聴覚研究における腹話術効果はその例です.聴覚情報のソースは人形を操る人間ですが,ターゲットは人形となっています.また多くの研究者の興味を引いてやまないラバーハンド錯覚も同じタイプの投射(異投射)と言えます.さらに自己にも投射が深く関わります.ここには自己受容感覚と自分の身体との投射が存在します.これも当たり前のことと言えますが,フルボディー錯覚に見られるように,それがずれてしまう場合もあるわけです.

これらはいわゆる心理ネタですが,フェティシズムのようなもの,何かに対する深い愛着(オタク)などもプロジェクションの観点から考察できるのではないかと思っています.

私が虚投射と呼ぶプロジェクションもあります.これは表象を生み出すのに関わる明確な外的な対象物がない,あるいは認識されていないのに,何らかの理由で表象が生み出され,それが環境中の何らかのものと見なされる場合です.幽霊,神,幻覚などがこれに該当します.

こうした現象をさらに興味深くするのは情報技術です.First Person Shooting Gameなどでは向こうから飛んでくる弾に反応して体がかなり揺れます.さらにCGと組み合わせたHMDなどを用いることで,簡単に実世界とは異なる世界に没入が可能になります.つまりここでは現実に存在しない世界への投射が起きているということです.またエージェント研究などが示唆することは,ある程度の応答関係(視線の一致など)があると,私たちはそのエージェントに人性を付与します.また脳科学の進展によって,脳内のある部位を刺激することにより,幽体離脱(自分の身体感覚(自己受容)を誤った場所に投射する)とか,いもしない人の幻覚が生み出されるなどが報告されています.

こうした様々な現代的なテクノロジーを用いて,心,社会,臨床に見られる人の様々なプロジェクションのメカニズムとプロセスを知ろうというのが,プロジェクション・サイエンスです.興味があったらご連絡ください.また本年は今の所,
人工知能学会
認知科学会
の2つでセッションを持ちます.是非ご参加ください.特に後者はまだ発表受付中ですので,ふるってご応募ください.


「教養としての認知科学」の刊行とその後

2017/3/31

このblogはほとんど休眠状態になっているので,これは自分の備忘録という色彩が強いけど,色々とあった2016年度もそろそろ終わりということで,いろいろと書きます.

2016年度の自分の研究にとっての最も大事なイベントは教養としての認知科学という本を東大出版会から出したことです(年度で言えば2015年度ですが).これは青山,駒場,ほかいろいろな場所の非常勤講師で語ったことをまとめたものです.そういう意味で教科書なのですが,いわゆる教科書ではありません.人の認知が,生成的であり,冗長であり,ゆえに揺らぎ,だから発達,熟達,学習が起きるのだということをまとめました.これはほぼ「事実」です.

ただこれだけを語ることはできないので,それの基本となる実験や理論などを各章に配置しました.そういう意味で,教科書的な部分,思想に関わる部分の2つの側面を持った本という,素敵な感じがする一方,どっちつかずみたいな感じもある本になったと思います.

ただ当初思っていた以上に好評で,幾つかの取材や,その後の出版のオファーがありました.さらに自分で驚いているのですが,1年程度で5刷まで行くような気配です(2017年3月で6刷り目).安くもないのに,この本を買ってくださった方には心より御礼を申し上げます.

この本の基本的なアイディアは,ダイナミカル宣言を行ってから2003年くらいに輪郭が出来上がり,その後のいろいろな知見で増強してできたものです.そういう意味で「ダイナミカル宣言」はこれで打ち止めにします.

さて増強は随分とできたのですが,その一方でこの本では全くカバーできなかった新しい潮流(プロセスとしての概念,プロジェクション,拡張した身体)も生まれています.これは7章に少しずつ書いていますが,むろん十分ではありません.今後は,これらの問題を自分の研究テーマにしたいと考えています.


国立大で国旗国歌?

2015/4/9

参院予算委員会でこのタイトルに関わる質疑があったとか.ちゃんと議事録を見たわけではないけど,「正しく実施」,「当然」など,また始まった.

安倍さん,「正しい」かどうかわからないから議論するのでしょう.あなたの言っていることが正しいと思っている人ばかりではないのですよ.こういう「正しい」とか「適切な」とか,馬鹿げた言葉で修飾することで人をだますことができると思っている.「正し」くないですよ.そういう詐欺論法はやめましょう.

松沢さん,この人の劣化の度合いは激しいものがあるけど,「当然」が議論で使えれば,もう議論をする必要自体がなくなることはわかっていらっしゃるのでしょうか.大学で何でも「当然」などと言い始めれば,大学の使命放棄ということはわかっていると思うのだけど.

税金云々の話があるが,国旗ばんざい,国家大声斉唱という人だけが税金を払っているわけではないのですよ.逆に,税金を払っている人間に対してこんなことを言えるんですかと言いたいですね.

こういう白痴発言をする人に投票した人はちゃんと覚えておいて欲しいですね.

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etc ]

おめでとうとごめんなさい

2014/1/3

おめでとう:
まず明けましておめでとうございます.本年もどうぞよろしく.昨年から私が所属することを誇りに思う日本認知科学会の会長という重責を担うことになりました.大変でしょうが頑張ってくださいとよくいわれますが,実は大変ではありません.理由は2つあります.1つは会議のメンバーたちが私と同じ思い(認知科学会に対するとてもポジティブな思い入れ)を抱いていること,そして建設的であること,論理的、合理的に思考が出来ること,ということです.ですので妙な気遣いなく,真剣勝負で議論できます.これは楽しいです.いろいろな会議に出ていますけどこういう条件を満たす会議はこれまで1つも経験したことがありません.もう1つは事務局長の清河さんがいろいろと私が気づかないレベルのことまで考えて動かしてくれているためです.おんぶにだっこにならないように私もいろいろと気を使うようにしていますが,なかなかすべてというわけにはいきません.でもそうした部分は信頼できる清河さんがやってくれるので,相当に助かっています.という次第ですので,もう1年ですが楽しませていただきます.

本年は学会が名古屋大学で,斉藤洋典委員長,三輪和久運営委員長,川合伸幸プログラム委員長を中心として開かれます.久しぶりの名古屋の学会です.また植田一博さん,今井むつみさんを中心として学会としての新しい出版の企画が動き始める予定です(「認知科学の探究」以来10年度だと思います).さらに岡田浩之さん,小野哲雄さんを中心にして学会のホームページもリニューアルされる予定です.お楽しみに.

ごめんなさい:
このBlogはあまり更新もしておらず,管理もしていません.一応昨年の後半、おそらく11月にはspamコメントを全部削除したのですが,今見たら2500件を超えるコメントがありました.もしかしたら私の書いたものに真面目なコメントくださった方もいるかもしれませんが,チェックの限界を超えているのですべて削除しました.本当にすみません.匿名をよいことにメールを送るスキルだけがあるクズ野郎,クズ女郎どもによって,このコミュニティや私が大事にしてきた機能がなくなることが残念ですが、これまでの投稿をTB,コメントが出来ないものに変えていきます.


リアルと現実

2013/12/17

タイトルにあるような難しい問題を言うのではないのだが、今日講義を行って、「『リアル』への接近が必ずしもリアルを保証するわけではない」というようなことを述べた.授業終了後、アメリカからの留学生から「なぜリアルという言葉を用いて、現実という言葉を用いないのか」と言われた.

あまり考えたこともなかったけど、ただリアルという言葉を用いたわけではないことに気づいた.「『現実』への接近が必ずしも現実を保証するわけではない」というのとは意味が違うわけだ.つまり日本語の語用から考えて、リアル=現実というわけではない.

現実的というのはどういうときに使うのか.

計画
 △リアルな計画
 ○現実的な計画
描写
 ○リアルな描写
 △現実的な描写
人間
 ○現実的な人間
 △リアルな人間
危険
 △リアルな危険
 ○現実的な危険

などいろいろ場合がある(こういうときはどんなサンプルをとるのだろうか).ちなみにrealisticとrealというのはともに形容詞だけど、どんな違いがあるんだろうか.


その他 ]

おもしろい研究をする

2013/9/24

9月は忙しかった.さて認知科学会で「30年後の認知科学を考える」というようなワークショップがあり,話題提供をした.その時に提出したものをここに載せます.これはfacebook上で公開されていて,発達心理学者の無藤隆さんからはおもしろいと言われ,哲学者の土屋俊さんからはつまらないと言われています.

自分で書いている時には佐伯さんの「タテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸」で書かれていないことを書けたのではとも思ったけど,結局ナナメ糸、ヨコ糸について別の言い方をしただけのような気もしてきた.

30年後もおもしろい研究を続けるために

認知科学の重要な問題の多くは認識論哲学から生じている.これらの問題について,人類史上に残る最高の知性を持った人間が議論を重ねてきた.しかしながら,何かが解決され尽くし,もう答えが確定したという問題は(多くは?)ない(ちなみに確定することはないことが確定したことは若干ある).

このような歴史上の経緯から推測するに,30年後に視覚,注意,記憶,推論,言語,学習などの知性の根幹に関わる問題が解決されている可能性はほぼ0だろう.そういう意味において認知科学が現在扱っているテーマは,その洗練の度合い,証拠の量,問題の形式,参照すべき範囲は変わるにしても,30年後にも存在していることはほぼ確実と言える.そういう意味で30年後はどうなっているということについて,扱う問題から見る限り心配はない.

おもしろい研究を続ける

我が師の佐伯胖は認知科学の厳密な定義をすることを拒絶し,「おもしろいものはすべて認知科学」というめちゃくちゃな定義(?)を提出した(出所不明).私はこうした姿勢が日本の認知科学を支える大事な柱の一つになっていると信じているし,これが続く限りは認知科学は時代をリードする学問であり続けると思う.

おもしろい研究とは何だろうか.人間の認知に関わることは,何でもおもしろいと思えばおもしろい.解けない問題が解けること,こともが言葉を話し出すこと,何かを思い出したり思い出せなかったりすること,数え上げればきりがない.

それで自分でおもしろがって研究を続けていけばいいかと言えばそうではないだろう.というのは,上記のいずれもおもしろくない当たり前だ,という見方も存在するからである.解けない問題が解けたのは解き方を思い出したから,こどもが言葉を話し出すのはそういう風に設計されているから,想起の可否は努力によるなど,なんともつまらない答えもたくさん用意されているからである.つまり主観的なおもしろさはおもしろさを保証しない.

佐伯はそこで有名なタテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸を持ち出す.つまりその分野の知見を押さえ,時代精神に合致し,対立する相手との対話精神が,研究のおもしろさを構成するという.私はこの説に反対する気は毛頭ないが,別の観点を導入して,おもしろい研究の具体像を描いてみたい.

私はおもしろさには

  • 何らかの参照系が存在すること,
  • その参照系から見ると説明が出来ないこと,

が必要ではないかと思う.ここで参照系とは一般常識であってもよいし,過去の知見でもよいし,何らかの理論でもよい.

たとえば Magical Number 7±2 はなぜ注目を集めたのだろうか.このおもしろさの背後には当時注目を集めていた情報理論,情報量の考え方がある.もしこれがなければ,この研究は大事かもしれないけど,単にいろいろ調べてご苦労
様という研究にとどまっていたのではないだろうか.語意の獲得に関して制約を持ち込んだMarkmanの研究も,その背後にQuineの提出した問題がなければ本当のおもしろさは生じない.協力などの利他行動はそれ自体でもおもしろいが,
それは進化を参照枠とすることでさらにおもしろくなる.

つまりプロとして研究を進めるためには,何らかの参照枠を熟知することが必要になる.そしてその参照枠からある種のパラドックスを生み出すことが,おもしろい研究につながる.

開放系であり続けるための異分野間対話

真にイノベーティブな研究を行うには,他者が参照してこなかった枠を見つけ出すことが必要になるだろう.これによって今までさしておもしろくないとされてきた研究もおもしろい研究に変貌する可能性もある.

ではどうやってそれを見つけるのだろうか.これには異分野間対話が欠かせないと断言したい.そもそも認知科学は学際科学であり,哲学,心理学,人工知能,言語学など多様な分野の研究者が作り上げてきたものである.これらの学問の持つ参照枠は半ば古典となっている.また近年はこれらの古典的な参照枠を乗り越え,認知科学は新たな対話の相手を見いだし,その参照枠を内部化させてきた.たとえば,脳の可塑性,学習能力についての知見を提供する認知神経科学,身体,環境というパートナーの性質及びそれとの相互作用のあり方についての知見を提供する生態心理学,相互作用による知性の創発についての知見を提供する談話研究,エスノグラフィー,生体,環境の相互作用を時間軸の中で統合する力学系,ある認知能力が存在するための条件を明らかにする進化アプローチ,これらとの対話を通して認知科学は不断の展開を遂げてきたと言えるだろう。

今後どのようなパートナー見つけるか,どんな参照枠を持ち込むかは重要な問題であるが,これは各研究者が見つけるべきことだろう.個人的には,考古学,人類史,農業経済学,地理学などは興味深い.

蛇足かもしれないが最後に1つ付け加えたいことがある.それは異分野対話だけで終わってはならないということである.これを認知科学のこれまでの知見と組み合わせ,内部化し,境界を作り出すことが重要である.これを怠れば認知
科学は単なる拡散の道を進むだけになる.内部化し,境界を作り出すことで新たな他者(異分野)が形成され,それによってまた新しい異分野対話,参照枠が生み出される.学会はこのサイクルがうまく回ることに目を配ることが重要な責務となる


Facebookを(今ごろ・・・)始めました

2013/1/18

Facebookを始めた.何ゆえか.

先日、Windows8を搭載したPCを購入した.正直,全くついていけない.趣味が合わないとか,そうういこと以前に操作がまともにできない.数ヶ月前に購入したiphone5もほとんどその機能をまともに使えない(これは本当に後悔して,娘にこれをあげて、自分は携帯に戻ろうかと思った).

自分は以前機械音痴の研究をしていて,そういうこともありほどほどこの種の情報機器には強かった.TCP/IPを勉強して学部のLANの管理もやっていたこともある.しかし,使いやすくなったと言われる機械を前にして呆然している自分がいる.

これは機械だけではない.ソフト系もそうだ.ワープロを使い始めたのも人より早いし,Webもとても早いうちから接して,おそらく(井田先生,近藤先生を除けば)もっとも早くから青山キャンパスでホームページを立ち上げた.しかしblogはその意義,意味を知るまでよくわからなかった.幸いなことにこれについては舘野を始めとするゼミ生たちの刺激を受けて使い始めた(その延長がこのページ).しかしtwitterはあほだ,facebook知らないね、という世界にいたような気がする.

このままでも悪いわけではない.しかし(でたらめな生活を送っているので,いつ死ぬかはわからないのだが)仮に平均寿命まで生きるとするとあと4半世紀くらい生きる可能性がある.この時間を新しいメディアと断絶して生きていくのかと思うとかなり嫌な気分になった.25年間成長を止めるというのは,自分の世代で言えば,メールを使わない,音楽もカセットテープのウォークマンでしか聴かないくらいのものになる.これはつまらない人生になるというのは明白だ.

そういうことでfacebookをやるしかないと思って登録した.幸いなことにいろいろと友だちができて,なるほど楽しい世界なのだということを実感し始めている.そういうことでみなさまよろしく.そのうちつぶやきも始めます(これはもっとハードルが高そう).


diary ]

目黒さんま祭り

2012/9/16

今日(9月16日)は目黒さんま祭りが行われた.会場が家から数分なので出かけてきました.

例年さんまの無料配布が行われるので,大勢の人が来ることで有名です.1時半くらいに行った時は絶望的な行列になっており,あきらめて屋台のジャマイカ料理の店でジャークチキンとかいうものを食べました.けっこうおいしかったです.ほどほど満足して帰ろうと思ったところ,あれほど絶望的な長さだった行列がなくなっていました.終了したのだと思ったところ,「まだやってるよ」との係の方の声で、ラッキーということで娘と一緒に並んでさんまをゲットしました.うまかったです.香ばしさが半端なく、脂はのっているが、身はしまっていると言う感じです.
焼いている方達は気仙沼から昨晩バスで出発し,そのまま目黒で10時からサンマを焼いているとのこと、本当にごくろうさまです.その方とお話をしていたら,隣りではNHKの「ガッテン」でも有名な、立川志の輔師匠,さらにいくつかおいて糸井重里さんがサンマを焼く係として参加されていました.当然ボランティアでしょう,この本当に暑い中ごくろうさまでした.うちで頂いた2匹は志の輔さんの「作品(とご本人はおっしゃっていました」でした。


etc ]

Representationは表現か,表象か

2012/9/7

認知科学会のサマースクールに参加した.これは日本の認知科学のパイオニアの一人で,慶應の塾長を経て,現在学術振興会の理事長を務めている安西祐一郎先生の発案で,認知科学会の主催で昨年から行われてきている.基本は,若手の研究者とほどほど年をとった研究者の対話から,認知科学の源流と最先端の成果を結びつけ,今後の認知科学の活性化を図る目的で行われている.昨年は安西先生が3日間,連続で講義するという信じられないプログラムで、もちろん参加した.得ることはたくさんあり、このBlogでも報告しようと思ったが整理しきれず、下書きとして眠っている.

さて初日の安西先生のレクチャーはやはりそうとう刺激的だった.いろいろと得るものがあるのだが,representationの捉え方について,きわめてすっきりしたのでここに報告したい.

representationというのは表象と訳すのがふつうだと思うのだが,認知科学では『表現』と訳すことも多い.工学系の人は表現という言葉を多用し,認知や心理の人は表象という言葉を多用する.たとえば,コンピュータ上で知識を何らかの形で表す場合には『表現』が用いられ,『表象』という言葉は使われないわけではないがあまり用いられない.

なんとなくこの語感はわかっているつもりだったのだが,この根源がMarrの著作に由来する思想と関連づいていることが,安西先生のレクチャーの中でわかった.Marrによれば,representationとは情報(そのタイプ)とその組み合わせの仕方を明示するformal systemということになる.そしてこれを用いて表現された具体的なものはdescriptionと呼ばれる.つまりMarrによれば,表現形式,表現のための型とルールがrepresentationということである.Marrの考え方は,形式論理における理論とモデルとおそらく同じだと思う.世界を記述するための理論とそれによって記述されたモデルということである.

このように考えると,日本語での『表現』というのはMarr的な意味でのrepresentationであり,『表象』というのはdescriptionということになる.たとえばスキーマ表現とか、脳内表現とか,分散表現とか,representationがそういう使われ方をする場合には表現のための系を指す.一方,表象という場合には特定の表現の下で記述されたもの(すなわちdescription)を指すということになる.

工学者がなぜ表現という言葉を多用し,心理学者が表象という言葉を多用するのはこうした事情によるということになる.工学者はさまざまな事物をコンピュータの中で記述するためのシステムに力点があり,心理学者はそうして記述されたもの自体に関心があるということなのだ.

こういう観点から見ると,representationという単一の単語に,我々が異なる訳語を当てることがとても妥当であることがわかってくる.


わざ言語を読みながら(3)

2012/7/7

さて本日のゼミはなかなか衝撃的だった.

今日はゼミ生の須藤君が、「わざ言語」の本の中での、わざ、技能、技術などの用語が未定義で用いられることに業を煮やし(?)、ライルの原本(邦訳)にあたって検討してきた.ライルはまずintellectとintelligenceの区別を明確にする.そして主知主義者たちは、intellectの探求のみを行ってきたことを徹底的に批判する.こういうとintellectはknowing thatで、intelligenceはknowing howのことだということになる.ここらへんはある意味で常識化していることだと思う.ちなみにintellectは知性、intelligenceは理知と訳されているが、別の語感があるように思うので、ここでは原語をそのまま使うことにする.

驚きはそこでライルが挙げる例である.行為の中で誤りを見つけ、それを修正したり、反復試行の中でそれを改良し、教訓を得ることがintelligenceである、というのもかなり驚きなのだが、自ら真理を見いだす能力を、さらに真理を見いだした後にそれを組織的に利用する能力、という例もある.思慮深さとか、鋭敏さとか、そういういわゆる身体領域とは別の事柄の中にもintelligenceすなわちknowing howが存在するというのである.そしてこうしたknowing howそれ自体には真理かどうかという判定基準は使えないと述べる.

つまりknowing howに確かに身体知は含まれるかもしれないが、身体知や自動化された行為だからといってknowing howというわけではないし、knowing howは身体知や自動化された行為を指しているというわけでもないということだ.またこれは佐伯先生が以前からいっていたことであるが、knowing howと手続き的知識、knowing thatと宣言的知識という対応も全くの的外れということになる.手続き的に書き下した手順のようなものは

つまり何か生み出されたもの=intellect、生み出す原動力、プロセス=intelligenceということなのだ.

こうしたことから考えると、(これはさらに驚きだったのだが)以前に書いた記事で熟達は状況を感じ取る力とそこから調整する力と書いたが、ライルの定義はまさにそれそのものではないのだろうか.

きちんと読まずに人の言ったことの上に乗って議論することの怖さを強く感じた次第だ.なお以上述べてきたことは,私の憶測をたぶんに含んでおり,Ryleや須藤くんの意見とは異なっているかもしれないことをお断りしておく.


etc ]

「わざ言語」(生田・北村編)を読みながら(2)

2012/7/4

わざ言語についての第二稿.

言語の利用については,現在のところ自分は次のように考えている.わざの指導における通常の(比喩を含まない)言語表現というのは,特徴記述的にならざるを得ないのではないかと思う.手を強く振るとか,重心を前に移すなど等々.こうした記述は現象全体を特徴に分解して,その特徴次元の値をおおざっぱにでも特定しているという意味で初心者にも伝わりやすい性質を持っている.しかしながら,技の体得というのは身体全体の協調関係を学習するということであり,こうした記述的、分析的言語では語り尽くせない,語り尽くそうと思うと膨大な記述語彙が必要になり,結果として伝わらないという宿命を帯びているのではないだろうか.またこの種の言語利用は一定の域に達した学び手の持つ全体性を崩壊というのは言い過ぎだが,劣化させる危険性も含んでいると思う.

一方,比喩的(figurative)な表現と言うのは,分析的でなく,厳密性に欠けるのだが,総合的、直示的性質を持っていると思う.リンゴを知らない人に、「赤くて,丸くて,甘くて,・・・・」という代わりに,リンゴそのものを持ってきて「これ」というのが直示的な指示の仕方だ.直示的な指示においては,言語化の難しい,各特徴次元の関連性や曖昧性を一発で伝えることができる.わざ言語は比喩的であるので,直示とは異なるのだが,簡単な言語化を阻む,熟達者の動作の全体性,統一性を一発で伝えると言う意味においては同じような働きを持つのではないだろうか.

こうした観点から興味深いのは,スケートのコーチをしている結城さんのインタビューだ.いろいろなことを言っているのだが,彼が大事にするのは体験の豊富さと、それを感じる感性だ.なぜそれが大事かは上のことを考えるとよくわかるような気がする.わざ言語は直示なのだから、それの指示する対象、動作を知らなければ何の効果も持たない.その対象、動作を体験しておくこと,これがまずわざ言語が有効に働くための第一条件となる.もう一つの条件は,その体験をした時の自らの体の感覚に鋭敏になるということ、つまり感性を磨くということだ.自らの体の状態がわざ言語で指示された動作と一致するのか否かを判断する感性が必要になる.


etc ]

「わざ言語」(生田・北村編)を読みながら(1)

2012/6/24

生田・北村(編)「わざ言語」(慶応大学出版会)を、大学院のゼミで読んでいる.研究室のゼミ生6人とその他いろいろな人が来て,毎回白熱した議論が続いている.こういうゼミの光景はもう長らく見たことがない.大変に素敵な時間だ.

この本はプロのわざに関心を持つ教育哲学,スポーツ科学,看護学などの様々な分野の研究者が,歌舞伎,和太鼓,スポーツ(陸上,スケート),看護など分野の本当のプロとして活躍し,指導をしている人たちのインタビューをベースにしながら,わざ,熟達,指導とは何かを論じるものである.そもそも生田久美子さんは以前の記事にも書いたように,わざについての卓越した著書を20年以上前に書かれている.今回の本では,同志と一緒にこの路線をさらに洗練,拡大させたものと言えよう.またこういう本当のプロの世界というのはそもそも一般の研究者には手の出せない領域であり,そういうところに大胆に踏み込んでいったという意味でも,すばらしい試みであると思う.

さてその上でどうもいろいろとこの本には気になることがあるので書き留めておく.この本の素敵なところであるが,本当のプロのインタビューが掲載されている.各章の著者はこれらを随時参照し,自らのこれまでの研究と組み合わせて論を展開している.ただこの参照がずいぶんと乱暴な気がする.前に書いたように,このプロたちの分野や指導の対象となる人たちはずいぶんと異なっている.本当にその世界でプロとして生きていく人,そうでもない人,元々非常に高い水準の力量を持った人,初心者など,様々である.またそれぞれの専門で身体の使い方,気持ちの持ち方など、いろいろな違いがある.よって,各プロの熟達や指導についての考え方には共通項もあるが,差異も大きい.こういう多様なわざの(指導の)世界から,わざとその指導についての一般論を作り出すのは現段階ではちょっと無謀なのではないかと思う.

わざ,熟達と言語の関係は大変におもしろい問題だ.言語的記述や言語を介する指導はあまり熟達にネガティブな影響を与えるという報告がいくつかある.その一方,一流の選手や芸術家たちは丹念な創作ノート,練習ノートをつけている場合も少なくない.またうまい言葉を用いた指導により,弟子が飛躍的上達するという可能性も指摘されている.こうしたわざの熟達過程における言語の使用に関して矛盾した2つの見解を統合していくのが「わざ言語」という概念であるはずだ.実際,この本でも様々なわざ言語が紹介されている.しかし,わざ言語と言っても,そこでの言語のあり方が問題となるのだが,これについての十分な論考が行われているとは言えない.特にリテラルな記述的言語と比喩的言語との違いはもう少しページを使って論じてほしい.この問題については、生田さんの前の著書の方がより詳しく論じていたように思う.

そういう意味でわざ言語がどんな特徴を持つのか,それらを分野や弟子の熟達段階とともに記述したりするととてもおもしろいと思うのだが(難しいのででしょうね).なんだか、blogの調子がおかしいので、まず一度ここで公開しておくことにする.


etc ]

弁護士を市長にするのはやめよう、というのはどうですか

2012/6/5

大阪で,何やらいうことを聞かない子ども相手に市の職員が刺青をちらつかせ,脅かしたとかいう投書があったそうだ.こうした投書に基づき,橋下大阪市長が,市の職員全員に刺青の生むに関する調査を行い,刺青をしている職員は市役所を辞めるべきであるとの発言を行っている.またこの調査に基づき,配置転換などをおこなっているようである.

私の感覚ではこれは信じ難い.自分の体をどういじろうと基本的に勝手な話だろう.豊胸手術を受けたらどうなるのかなどいろいろと疑問がわく.こうしたことに対して,市職員にあるまじきか否かは,選挙で選ばれたにせよ,口出しすべきではないことなのではと思う.

まあこれに関しては異論もあるだろう.ただ許し難いのは,ここで行われる過剰一般化だ.投書に関していえば,それが事実であるならば,それなりの処分をその人に対してすればいいことだ.刺青をしている人、全体を処分するというのはあり得ない.

どうも極端な例を持ち出し,そこからの過剰一般化を行う.これは愚かな人に共通したことであるが,市長などになるとたちが悪い.この極端例がたまたま持っていた性質を持っている職員をクビにする,採用しないなどの、人権に対する重大な侵害を行ってしまう.

「弁護士資格を持った人間を市長にすると人権無視が多発するので,これからは立候補禁止にせよ」

こういう発言と同じレベルだと思います.


etc ]

虐待は負の連鎖なのですか

2012/6/5

日本心理学会の公開シンポジウムで、以下のようなものが行われる.


負の連鎖を断ち切ることはできるか――児童虐待からの再生――
http://www.psych.or.jp/event/index.html#20120624_1
・東京会場:6月24日(日) 14:00―17:00
・京都会場:11月18日(日) 14:00―17:00

虐待とそれによる影響,そしてその克服、基本はそういう話であると思う。また企画者のお二人,仁平先生,内田先生は心理学、教育界に大きな影響を与える立派な仕事をしてきた方たちだ.

しかしこのタイトルは強い違和感を覚える.特に「連鎖」という言葉だ.これはまるで虐待に連鎖がある,因果関係があるということを人々に容易に推論させる.こうした分野の研究はよく知らないが,本当にそういう関係があるのだろうか.巨大なサンプルをとって,χ2乗検定などを行えば有意差は出るのだろう.でもそれが因果であることを本当に立証するような研究があるのだろうか.こういう科学レベルの疑問がすぐに沸き上がる.

科学の世界だけならば学会で議論していけばいいわけだが,こういうタイトルは社会的インパクトも大きい.虐待を受けた経験のある人たちが不当に差別される,あるいは自己嫌悪的感情を喚起させる、というような事態は生じないだろうか.

またこのシンポジウムでは脳科学も登場する.虐待は脳に深刻なダメージを与えるとのことだ.当然そうだと思う.しかし,これが「神経神話」のようなものと結びつくと,回復不可能なダメージというものを連想させる.シンポジウムでは、回復不可能ではないということを主張したいのだろうが,上記ページにたくさん出てくる「回復する場合もある」などの表現は、企画者たちの意図とは全く別のメッセージを伝えるのではないだろうか.


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我欲とオリンピック開催

2012/5/27

ロンドンオリンピックが近づき,各種競技での最終選考が行われている.今日はバレーボール女子が出場権を得た.こういう話は嬉しいのだが,東京でのオリンピック開催についてはどうなんだろうか.日本は開催についての支持率が他と比べてきわめて低い、賛成は半数以下,ということが特徴的だ.こういう数値は実感と近い.

こうした中で,特に気になるのは都知事の発言だ.この人の見解によれば,東京オリンピックを望まない人たちは我欲にまみれているらしい.どういうロジックで我欲が多いとオリンピックを開催へ反対となるのかを説明してもらいたいものだ.小説家という感性だけでいろいろなことを直感的に判断するのはけっこうだが,それは自分の書くさして意味のない小説の中だけにしてもらいたい.行政の長としてその発言をするからには確たる根拠が必要であることも,これから勉強して実践していただきたい.

我欲と言う言葉は東日本大震災の時にも発せられ,地震が我欲にまみれた日本人への天罰という,被災者への冒涜発言の中でも行われた.都知事は震災地のがれきの受け入れを実行している数少ない自治体の長であり,その意味では評価できる部分もあるが,我欲云々,これはいかさま新興宗教の教祖じみた発言だろう。オリンピック共々,もう少しまともな理性で語ってもらいたいものだ.

大阪もひどい状態になっていると思うが,私の住むこの街も特に変わりはないのかなと思う.大変に残念だ.


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不思議な名前が増えているそうだ

2012/2/29

大分前だけど,ある両親が息子に「悪魔」という名前を付けたというので,メディアで取り上げられ、話題になったことがある.

こういう児童福祉上問題のある名前ではないが,最近は人とまず被ることのない、かなり変わった名前=きらきらネームを付けることがはやっているらしい(2012年3月3日発行の週刊現代より)。

  1. 光宇宙
  2. 三二一
  3. 一一
  4. 黄熊
  5. 泡姫
  6. 走太
  7. 今鹿
  8. 宝冠
  9. 美音楽
  10. 朗礼

読めますでしょうか.(答えは下です)

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心の先史時代(ミズン)から見た農業

2012/2/23

人類の変化、進化について最近興味があるので,大分前に部分的に読んだ標記の本を読み直した.

この本はチンパンジーや600万年前くらいからの人類の進化を認知科学の知見をもとにして考察するというものだ.つまり知性というもの事態についての学問的な考察を抜きに,知性の進化を語ることはできないというまことにまともであるが,考古学者たちはあまりやったことのない(?)試みを展開した本ということだ.

日本での出版は前世紀で、その当時発達絡みの研究を行っていたこともあり,人類学の本なのだが、何か関係あるかなと思って買っておいた本だ.数年くらいの間に何かのきっかけで読み始めたのだが,発達心理学や進化心理学の話がしょっぱなからでてきて,たまげてずいぶんと読んだ記憶がある(ただし途中まで).何かの論文の参考文献としても入れた覚えがある. Read the rest of this entry »


人類史 ]

NHK「ヒューマン」における農業

2012/2/20

最近人類史等についての投稿が何件か続いたけど,ちょうどNHKの「ヒューマン」という番組で農業の発達の話が人類史の文脈で語られていた.

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サンデル教授の番組、類推,オープンエンドの授業の意義

2012/2/19

マイケル・サンデルと言えば,もう説明の必要もないだろう.ハーバードで最も人気のある授業を担当する倫理学の教授で,日本でもNHKで放送されたり、著書がベストセラーになったりする有名人だ.

今日,彼が日本の有名人(斉藤慶子,シェリー,猪瀬直樹,ジャパネット高田の社長,野球の古田)と、日本,中国,アメリカの学生たちを相手にした番組を見た.大雪の時に雪かきスコップを突然値上げした店の話から始まり、年会費を払わなかったので火事の時に消火を拒まれた人の話(アメリカでの実話),成績の良い子にはボーナスを払う学校の話、代理母出産の話等,金と道徳に関わることについての議論が行われていた.

ここではいくつものおもしろい類推が行われていた。 Read the rest of this entry »


松井冬子展

2012/2/17

今日,横浜美術館に行って,松井冬子展というのを見てきた.ここに紹介のページがある.

朝日新聞に紹介されていたり,その前もどこかで評判を聞いていたり,そういうことで出かけた.美術について専門的なことは何も言えない.でも、おもしろい(?)ことに気づいたので2つだけメモしておきたい.

一つ目は,表現というのは何かのあり方を見せるものなのであり,その表現を通して、そう見えた作者の視点を頭の中に作り出し、再体験することなのだ.再体験というと,作者と同一化するかのように思えるかもしれないが,むろんそうではない.描かれていることはあくまで素材であり,そこから視点を「作り出し」、それらを一貫した形の経験として作り上げることがポイントだ.もっとも一貫性はそんなに簡単には確立されないので,結果としてできる視点,そこからの見え,経験は、作者と同一のものになることも多いのかもしれない.むろん作り上げられるものが常套句,clicheのようなものであれば,作品が悪いか,見る人が悪いかわからないが,大した経験にはならない.ポイントは、容易な言語化を断じて拒む再体験だろう.そうした再体験は言語化を拒むが故に,しかし深く自らに根ざすゆえに,身体的、情動的な反応として、体験されることになるのではないだろうか.

今回の展覧会では、今まで見たものとは異なり,「すごい」とか「上手」とかそういうものではなく、込み上げる、ため息をつく等の身体反応が出てきた.評論家であれば、こういうのを言葉にしなければならないのだろうが,幸い(残念ながら?)自分はそうではないので,言葉にする必要はない(できない?).

今回は作者の下書きとか,これの元になる写生とか,そうしたものも一緒に展示されていた.そのなかで、上のリンクページにある「世界中の子となか友達になれる」の下絵が6枚ほど並べてあったのには強く興味を惹かれた.少女の位置,右端にあるゆりかごの位置、などについての様々なバリエーションが並べられていた.またその中の一枚には、よくわからないけど言葉によるメモ等が残されている.こういうのは、作る側からすれば当たり前ということなのだと思うが,何かが「爆発」して、それを一挙に描き上げるというのとは全く違った芸術家の姿を示している.創造的表現というものは、何か一瞬のこと、いわゆるひらめきのようなものとしてイメージされることが多いと思うが,そうではないということだ.

以前にも俵万智さんの短歌について同じことを書いた覚えがあるが,創造というのは決して一瞬で終了するわけではなく,ある時のひらめきを何度も練り直し、部分的に表現し,そこからまたイメージを膨らませ,また練り直し,表現すると言うサイクリックな営みということなのだ.こうしたことは,自分が行ってきた洞察問題解決における「ひらめき」の姿とよく似ている.

横浜美術館の常設展というのもついでに見た.はじめの方は横浜開港辺りの時代の西洋人の油絵,写真などが展示されていて,郷土資料館みたいな感じだった.しかしだんだん,すごいのが出てきて,ピカソ、ブラック、マグリット、ダリ、エルンスト、タンギー、レジェ、カンディンスキー、ブラマンクなどのすごいのががんがん出ている.また行ってみようと思います.


農業,アリ、キノコ、ゾンビ

2012/2/17

農業と人間の文明ということが気になってきた.いくつかの歴史の本を読むと1万年から5000年くらいにかけて世界の各地で農業が始まったという記述がある.特にユーラシア大陸、肥沃な三日月地帯(fertile crescent)で始まった農業はヨーロッパに伝わり,今のヨーロッパ文明の基礎となったという話が多い.

そのままでも食べられるものをわざわざ土の上に蒔いて、ずっと待って収穫するというのは,生物の本能、狩猟採集の精神からはかなりかけ離れたものだろう.他の人,動物が食べてしまうかもしれないし,腐敗して食べられなくなるかもしれないし,気候の影響で育たないかもしれないし,忘れてしまいどこかに移動するかもしれないし,山火事や洪水で収穫できないかもしれない.これらのリスクはずいぶんと高いと思う.しかし、人類はこうしたことを行ったのだ.なんでこんなことが出来たのだろうか.

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人類史 ]

「銃・病原菌・鉄」(J. ダイアモンド)

2012/2/15

この本は20世紀を代表する1冊とか言われて大変に有名な本である.200年の出版当初から非常に話題になった本であるり、直後の購入したが本棚の奥の方に鎮座したままであった.しかし、前の本(一万年の進化爆発)に触発されて、ようやく読んでみることにした.

なぜユーラシア文明が世界を席巻したか、逆を言えばなぜ人類発祥の地のアフリカの民が世界を支配することが(一度も)なかったのか,スペイン人たちはなぜ100名程度の軍隊でインカ帝国を征服できたのか、また逆に言えばどうしてアボリジニは世界を征服することはなかったのか,こういう問題設定のもとで探究を進める. Read the rest of this entry »


人類史 ]

一万年の進化爆発ー文明が進化を加速したー(コクラン,ハーペンディング)

2012/2/10

標記の本を読んだ.なかなか魅力的だが,ずいぶんとprovocativeな本である.

一般にほとんどの教科書には現世人類の祖先は6万年くらい前にアフリカを出発し,世界中に広がった.そして4万年くらい前にはヨーロッパに到達し,ネアンデルタール人を駆逐し,人間の時代が始まったとされている.それ以降は人間は進化を停止し,あるいはどこの地域の人も同様の進化を経て,今に至るというのが基本的な考え方だと思う.

この本は題名からしてそうなのだが,そういうのは嘘で進化は続いているし,それは文明の発達に伴って加速しているという立場を取る.そしてネアンデルタール人との混血(!),農耕の発達による(自然?)淘汰,白人による新大陸の支配,中世におけるユダヤ人の進化(?)などというきわめて危ない(?)テーマをデータをもとに語っている.

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人類史 ]

成人式の祝典は?

2012/1/10

成人式について近年様々な報道がなされている.今年は「荒れる」成人式はない,あるいは少なかったのか,ふつうのが報道されていた.これについてBEという朝日新聞の土曜特別版がアンケート調査をしていた.やった方がいいか,やらない方がいいか,これについてほぼ半々、やや「やった方がよい」が多いという程度だったと思う.

この結果はどうでもいいのだが,回答者の中の一人の話として「公費(税金)を使って、中学の同窓会みたいなものをやるのはいかがなものか」という60代男性意見が載っており,記者はそういう観点も大事だという文を添えていた.

そうなんですかねぇ、と言いたくなります.敬老の日のイベントはどうなんでしょうか.だいたいどんな自治体だって青少年に使う金の数倍のお金を老人に対して使用しているのに,こういう話が出てくるのはなんとも恥知らずという気がしてならない.そもそも自分の時だってそういうイベントはあったはずなのにねぇ.

他者に対する何かこういうおかしな意識というのは、悪意に根ざしているわけではないだけに余計に気になる.


etc ]

美しい言葉

2011/6/4

だいぶ遅れましたが,今回の大震災で被害を受けた方々に心よりのお見舞いを申し上げます.

私は両親が仙台出身で仙台生まれなので,親戚のほとんどは宮城県在住である.お見舞いを送ったり,連絡をしたりはしたが,現地を訪れることはなかった.今回人工知能学会が盛岡で開催されたこともあり,帰りに2時間ほど親戚の家にお見舞いに行った.その家は家族も全員無事で,建物ものも大丈夫だった.ただし奥さんの実家のある地域(山元町)は壊滅的な被害を受け,親戚10名あまりがお亡くなりになったとのことだった.

彼らはひとしきり自分たちの話をした後で,「最近になってこういうことを東京の人に話していていて,本当におしょしくなった.東京だって被害にあって,いろいろと苦労している人がたくさんいるのに,自分たちの苦労ばっかり話して,本当におしょしい.」と言うではないか.「おしょしい」という言葉はご存知だろうか.仙台弁で「恥ずかしい」という意味である.

自分がひどい状況にある中でも,人のことを心配していなかった自分を反省し,そういう自分を恥ずかしいという,こういう美しい心はどうやったら生み出されるのだろうか.胸がいっぱいになった.


etc ]

一人飯

2011/4/15

しばらく前に「便所飯」というのが話題になった.大学などで,昼食をとる際に一人で食べるのは恥ずかしい,惨めなどの理由から,トイレの個室で昼食をとるというものだ.どうも世間で騒いだほど一般的ではないらしい.

ただ、一人で食堂で食事をするのが苦痛と考える人は多いらしい.高校生の娘に話を聞いたところ,入学式の日に最も気になることは,明日だれかと昼食をとれるかということだそうだ.だから初日誰かを確保するために必死になるらしい.そういう人を確保できるまではかなり不安定な状態になるらしい。

こういうのは今の若い世代だけの話なのかと思い,知り合いの30代、50代の女性に聞いたところ,むろん便所では食べないが,そうしたプレッシャーは昔からあったとのこと.男性に聞いたところ,わざわざ一人で食事したいとは思わないが,それほど気にはならないとのこと.

ここらへんには性差というのがあるのだろうか.


etc ]

問題の見つけ方(1)

2011/4/15

下書きのまま放っておいたのを忘れていました.大分前,2010年の12月頃に書いたものですが,一応載せます.

今日,年末かつ祝日にもかかわらず,私の所属しているヒューマンイノベーションコースの大学院入試説明会があった.昨日夜遅くに渋谷の街を歩いていたら,そこら中忘年会で山のように人がいた.こんな日の翌日に説明会に来る人なんかいるのだろうかと心配したのだが,10名以上の参加者があり,コース教員一同胸をなでおろした.

今回は,修士論文の書き方について入学希望者の方達へ話す役になった.前日に準備をしていたのだが,大変に忙しい中の合間を縫って書いたこともあるのか,今朝これを読み返したら全然面白くない,こんな話したくない,(おそらく聞きたくもない)と,かなりめげてきた.ということで急遽,方針大変更し,話を作り上げた.話の大半が表題にある「問題の見つけ方」となってしまい,大変に不完全で結局修論がなんなのかは具体的に説明しなかったのだが,同席した何人かの先生から褒めていただき,Blogにアップせよということだったので,簡単にまとめる.

修論とは「プロである(あるいはプロになりたい)自分が,他のプロたちに対して自信を持って主張できることをまとめること」となる.別の言葉で言えば,学会あるいは学問のコミュニティーに対して知的貢献をせよ,となる.

修論は問題を発見することと,それをある方法で分析していくことになる.つまり,問題発見,方法のこの2つが必要だ.さて問題発見だが,こいつがことのほか難しい.これがわかれば,もうしめたものであり,研究の6割くらいは終わったと言ってもいいのではないだろうか.初心者や研究の初期段階でよくあるパターンは2つである.

1つめは,漠然とした,抽象的な関心だけがある,というケースでだ.「身体がキーワードじゃないか」,「人間と環境の関わりに興味がある」,「共感が大事だ」みたいなレベルである.自分を振り返ってもそうだった.自分も経験と知識の関係に興味があったのだが,そんな抽象的なことで修論を書けるはずはない.修士の頃の周りの人間もこんな感じの人が多かった.しかしながらむろんこれでは論文には全くならない.自分の関心の中から,白黒の決着がつく問題を作り上げて行かなければならない.「白だ」,「少なくとも黒じゃない」などの形で結論が出る形まで,問題を洗練するということが必要になる.むろん,興味がいけないわけではない.それは問題探求の原動力になるものであり,決して捨ててはならないものである.しかし原動力だけで何かが動くわけではないのと同様に,興味だけでは論文は書けない.

2つめは,個別的な問題だけがあるというケースだ.「会社で自分の言っていることが伝わらない」,「クラスのこどもの成績が伸びない」,「自分は年号が憶えられない」とか,そういう個人の経験の中で生じる具体的な問題だけがある,という場合だ.これを解決して,「会社で自分の言っていることが伝わるようになった」とか「こどもの成績が伸びた」という結果が得られても,それをただ書くだけならば日記にしかならない.こういう場合は,この問題をより大きな問題,理論的な問題,学問コミュニティーが取り上げてきた問題とリンクさせることが必要になる.

自分の研究の中でもそうしたケースがあった.17,8年くらい前に大学でコンピュータのアプリケーションの使い方を教えていた時に,高い知性を持った人間たちなのになんでこんな簡単なことがわからないのか,と悩んだことがあった.そしてゼミ生たちと,これを解決する方法を考えたのだが,ただこれを書き連ねただけであればやはり一教師の実践日誌としかならない.また12,3年くらい前にはあるパズルと格闘していたのに,ある時ぱっとひらめいて解けてしまった.これは面白いと思った.しかしこのことをただ書くだけでは,「そのパズル」の解き方を「自分」が発見しただけの日記になってしまう.これらを認知科学が取り上げてきた問題と関連づけるためにほどほどの時間がかかった.幸いなことに,はじめの方の問題は認知科学の基本となる課題分析の考え方,そしてその当時から活発な展開を見せた文化と心理の問題に関連づけることで,いくつもの論文を書くことができた.後の方の問題は,洞察問題解決,そして多重制約充足,表象変化の問題と関連づけることで,いろいろな研究に展開した.

そういうことで個別から抽象,抽象から具体という往復運動が問題発見にはきわめて重要ということがわかる.

この話まだ続くのだが,あまり長いのもなんなので,ここで一応切っておくことにする.


ネットで離婚

2011/4/15

大分前の朝の番組を見ていたら,『主婦たちのネット依存』という特集が組まれていた.途中からであったが,みてみたらかなり驚く内容があったので以下にまとめてみる.

  1. 2人の若い夫婦がいた.
  2. 夫がオンラインゲーム(仮想世界みたいなやつ)にはまっていた.
  3. 妻と同じ趣味を持とうと一緒にやり始めた.
  4. 2人とものめり込み,ネット上でも結婚をし,2人で家を買い,畑を耕す(?)などをやりはじめた.
  5. 夫が配置転換で急に忙しくなり,帰りが遅くなり,一緒にゲームをやることも全くできなくなった.
  6. ある日,家に帰って妻のゲームをみると,妻はネット上で夫とは離婚していた.
  7. さらに,他の人と再婚もしてしまった.
  8. 夫が怒り,ネットワークを切断すると妻は狂乱状態になる.
  9. そしてネット上の夫から妻宛にプレゼントまで届くようになった.

どういうことでしょうか.

一見ひどく滑稽というか,異常というか,そういう気にもなる。しかし、そうやってネットはおかしいと言っていられるのだろうか。そうではないだろう.もしバーチャルを徹底排除すれば,電話で愛を確認するのも異常、ラブレターを書くのも異常,そもそも言葉を使うこと自体が異常となりかねない.だとすると残されるのは直接抱きつくだけだ。これはふつう犯罪。じゃあどうするの?ここらへんを考えないとね.人間は記号を使い始めてから、そもそもオタク化しているわけなので、記号がネットになったと言うことはどっちかというとマイナーチェンジですよね.


etc ]

The New Unconscious (2): 意識は何のためにあるのか by Bargh

2010/5/31

この本の第2章はこの分野をリードする研究をしてきたことを私でも知っているという、John A. Barghによるもの.行為が意識とは独立に行われるという知見が彼の研究分野である社会心理学だけではなく,神経科学や,認知心理学でも得られているということを数多くの研究から明らかにしている.これらの知見がわかりやすくまとめられている.

Barghらの研究の驚くべき点は、被験者が意識しないような刺激,あるいはそもそも意識できない刺激(サブリミナル)を提示することで,その後の行為が無意識的に、そして顕著に変化するという点である.たとえば「協力」(あるいは「敵対」)という単語を事前の課題(たとえば語彙判断課題とか)で提示される.その「後に他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施する.すると、「協力」に関連する「仲間」とか「援助」などの単語を事前課題で見た人たちは協力的な行動が増加し,敵対的な単語を見た人たちは敵対的な行動が増加するという.老人関連の言葉(白髪とか杖)を提示すれば、その後に行われる記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりする.

下條信輔さんの本で詳しく紹介されていたはずなので例はこの程度とするが、これはかなり驚くべきことである.これと類似したものに,プライミングを用いた潜在記憶研究がある.ただしこれは事前課題で提示した単語に意味的に関連した言葉の認知スピードが速くなるとか,想起しやすくなるというものであり,意味ネットワーク、活性拡散のようなものを考えれば、それほど不思議という感じもしない.一方Barghらの研究では、行為自体が変化してしまうというところが謎なのだ.「協力」と言われただけで実際に協力的になるとか、「白髪」と聞いただけで行為のスピードが落ちるいうのは単なる意味ネットワークと活性拡散では到底説明できないだろう.

これについてBarghは、そもそも言葉というのは個体発生の初期においては行為と結びついたものであり、そうしたことが上記の実験の結果の一員であると述べている.この解釈はちょっと無理があるように思う.この解釈に従えば「協力」が協力行動を促すのはまだわかるとしても,白髪が記憶力の低下や行為のスピードの低下をもたらすことの説明は難しいのではないだろうか.他の本に出ていた「スーパーモデル」がクイズ課題の成績を劣化させたり,シューマッハが読解スピードを上げるなんて言うのも無理だと思う.

もう一つ大変に面白い問題提起と仮説が述べられている.これは意識の役割に関してである.意識を通さないでたいていのことが行われるとすると(第1章のものそうだけど),そもそも何のために意識なんてものがあるのかという疑問が当然のことながら湧いてくる.

Barghはこれについて、意識はさまざまな心的状態や活動を抽象的なレベルで統合するという役割を持っているという.(これは自分が考えた例なのだが)「男」という漢字を初めて覚えるとき、字のパターンをなぞるという、感覚と運動にのみ依存した覚え方もあるのだが,「田」と「力」だと意識的に分析し,これらをあるパターン(上下)で統合する覚え方もあるだろう.つまり最初のものはある環境刺激から部分的な行為が誘発され,その行為の結果に次の行為が誘発されという形,つまりパケツリレーというか,ドミノ倒しというか,そういう方法でしか物事は達成されない.しかし,意識的な把握があれば環境や行為の結果の時間的順序に依存せずに,一挙に物事を達成することが可能になるということだ.さらに、これらをチャンク化して、意識への負担なしに即時実行可能にする.そうすると「勇」という時を覚えるときには「マ」と「男」(間男?)として覚えてしまうこともできる.Donald(2001)は

Whereas most other species depend on their built-in demons to do their mental work for them, we can build our own demons

という形でこのことを述べているという(demonというのはチャンクと読み替えてもよい).つまり上の例で言えば「田」と「力」というdemonから、「男」というdemonを生み出すということになるだろう.

さてこうして考えると、とても逆説的な結論が出てくるという.それは「意識は無意識的に実行できることがらを集め,まとめあげ,これら全体を無意識的に実行可能にするために存在する」というものだ.別の言い方をすると,現状の(意識的?)分析から既存のチャンクを呼び出し、このチャンクと現在の情報を組み合わせたチャンクを作り,これを一発で(つまり無意識のうちに)実行可能な形に変化させる、ということになるのかもしれない.

なかなか面白いアイディアではあるが,いくつか疑問もわいてくる.

  1. なぜ新しいチャンクの生成には意識(特にawareness)が必要になるのだろうか.無意識のうちにこうしたことが出来る可能性はないのだろうか.
  2. 動物もこうしたことを日常的に行っているような気がするが,動物にも意識は存在しているのだろうか.

1も2も難しい問題だと思う.


潜在 ]

The New Unconscious (1):意図なんか要らない by Wegner

2010/5/17

第1章のWegner, D. M.によるWho is the controller of controlled processes?を読んだ.ポイントは何かというと,意図が行為を引き起こしたというのはそういう知覚を行ったということであり,実際にそうであるというわけではない、ということになる.つまり、意図を行為の原因とするのは,習慣化された因果知覚に過ぎないという、驚くべき主張である.

因果知覚は

  • 直前性(priority)
  • 一貫性(consistency)
  • 他の可能性の不在(exclusivity)

によって影響を受けるという.つまりある出来事Xが別の出来事Yの原因となるためには,「XがYよりも前に起き(prior)、XがYと意味的に関係しており(consistent)、他にそれらしい原因がない(exclusve)」場合ということになる.昼近くになって急な腹痛に教われたとする.するとその原因は「朝に食べたものではないか」と考える.これは朝食が腹痛よりも前におき,食べたもので腹痛が起こるという意味で一貫している.その間に何かを食べるチャンスはなかったとすればこの可能性はさらに高まる.一方,朝食と腹痛の間に何かを口にしていた場合には朝食ー腹痛間の因果関係は弱まる.

こうしたことは意図と行為の因果の間にも成り立つという.たとえば実際にはまったく自分の意志は介在していない現象(動かしていたマウスが止まる)に対して,その直前にそれらしい情報を与える(特定のポイントをさす単語を与える)と自分が止めようと思って止めたと誤解してしまう.二人羽織のような状況で、特定の場所に手を動かすような指示を聞き,その後に他者の手がその場所に移動すると、自分が動かしたような気がする.つまりいずれも自分が行った行為ではないにもかかわらず,その行為の直前に関連することがらが意識されると、そのことについての意識が行為の意図(=原因)とされてしまう(constructされる)のである.

もう少し別の観点からそれを述べると,以下のようになる.実際には以下で示すように,行為の原因は意図とは別のところに存在する.しかしこの行為に時間的に近接し,かつ意味的に関連した思考が発現する.このようなとき,ここの思考は行為の原因,つまり意図とされてしまうというわけである.

思考の原因ー>思考の発現

↓ 見かけの因果

行為の原因ー>行為の発現

具体例を出して考えてみる.煙草を吸うという行為が行われる.実は煙草を吸う行為というのは,身体のさまざまな物理的状態(血中のニコチン濃度が減ったとか)、環境の状態(そばにタバコがあるとか)などから、機械論的に決定されている.これが真の因果関係である.しかしここでタバコが視野に入るとか、飽きてきたとか、眠くなったとか、そういう心理状態があり,それが「煙草を吸いたい」という思考を生み出す.すると、そうした思考は煙草を吸うという行為とほぼ同時に発生し,意味的に関連しているので、(また他のそれらしき要因もないとすれば)その思考が行為の意図とされるというわけである.

それでは意図や思考の役割とは何かというと、それはある行為とその結果のpreviewを提供することにあるという.人間は経験を通して行為とその結果についてのさまざまなエピソードを貯えている.こうしたエピソード記憶が喚起され,その結末までを見通すことが出来るという.

で、彼の言葉でまとめると,

(mental causation) is a construction nonetheless and must be understood as an experience of agency derived from the perception of thoughts and actions, not as a direct perception of an agent.

となる.

まあ、これほど大胆な話はあまり聞いたことがない.行為の原因が意図ではないとすれば、あらゆる犯罪は過失によるものであることになる.どこか変だと思う.しかしこうした枠組みを使えば,物質と精神をつなぐという難問の一部を避けることが出来るはずだ.

その他、この章を読んでいて気に入ったのは

Volition is an emotion indicative of physical change, not a cause of such changes (Huxley, 1910).

Conscious will can be understood as part of an intuitive accounting system that allows us to deserve things (p.31)


潜在 ]

The New Unconscious (0)

2010/4/21

思考を前頭葉から解放する、という言葉はここのページで使った記憶がある.しかし、思考はそうしたものではないということが徐々に明らかになってきている.思考は

  • 感情
  • 身体
  • 環境

の生み出す情報に強く影響を受けながら営まれていることがいろいろな研究から明らかになってきた.つまりきわめてダイナミカルということだ.

特に私が注目してきたのは、思考と無意識との相互作用だ.思考は理性の現れであり,プランやモニタリングなどの意識の作用によって注意深く制御されたプロセスであるというのが常識だと思う.しかし思考以外の大半の認知機能は、無意識的、潜在的な処理の産物である.そうしたことからすれば,思考だけが無意識とは無関連に営まれているとは到底考えられないわけだ.

こうした次第でだいぶ前から、洞察のプロセスが潜在的学習のプロセスであると主張してきた.簡単に言うと以下のようになる.人は失敗を通して徐々に学習し洞察に近づく.しかしこれはほとんど無意識的なプロセスであり,意識はその学習のプロセスにはほとんどアクセスできないどころか、潜在学習の成果とは全く正反対の評価を行ったりする.そして潜在学習が進みいよいよもう洞察目前となった頃に、このとても鈍い意識的な、顕在プロセスが「わかった」などと叫ぶ.

こうした考え方を洞察においてしたのは自分たちが初めてだと思うが,意識と無意識の関係について同様の主張をしている人たちは他にもたくさんいる.たとえば慶応の前野さんは「受動意識仮説」を3冊の著作を通じて(たとえばここ)提案し,この問題に切り込んでいる.また下條信輔さんは「サブリミナルマインド」などを通して、認知と無意識との関わりについて包括的な議論を展開している.

こうしたものを読んでいく中で,実験社会心理学の分野では古くから意識ー無意識の問題を扱ってきたこと,そしてここ20年くらいはBarghやオランダのグループが高次認知活動における無意識の役割についての研究を展開してきていることを知った.この一部は「無意識と社会心理学」という訳書にもなっている.

こうしたことから,この分野の研究をもう少し体系的に知りたいという願望が強くなってきた.今年,非常勤をしている大学院で十数名ほどの参加者があったということもあり,

R. R. Hassin,,  J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) (2005) The New Unconscious (Oxford)

を読むことにした.この本は、

  1. Fundamental question
  2. Basic mechanism
  3. Intention and theory of mind
  4. Perceiving and engaging others
  5. Self-regulation

の4つのパート、全19章からなる本である.読み始めてみたがなかなか楽しい.機会があるごとにメモ代わりにここに気づいたことを残しておこうと思う.


どうしてこんなに注意されるのか

2010/3/8

だいぶ前に似たような記事を書いたことがあると思うが、少し違う展開になるので一応書いておく.

私たちはどうしてこんなに注意されなければならないのだろうか.

工事の時の(なんというの)監視員、警備員(?)はまさしくそれだ.今,構内で街路樹の作業をしているが,警備員だけでもほどほどの数がいる.ちゃんと柵を設けて,はっきりと工事しているスペースが分かるにもかかわらずだ.通るたびに、「気をつけてください」などと言われる.小学生も通ったりするので必要などという人いるのかもしれないが,どう考えても無意味だろう.旧東急文化会館後の工事のところにもきわめて多数の警備員が配置され,右を歩けとか,段差があるとか,滑るとか,いろいろと注意する.

しかしなんと言っても一番すごいのは,電車だろう.電車に乗るとひっきりなしにいろいろな注意がある.

  • 携帯(電話,プレーヤー)にかかわること(切れ,マナーモードにせよ、音漏れに注意せよ等)
  • 荷物にかかわること(デイパックは前に持て)
  • 姿勢にかかわること(足を前に投げ出すな、詰めて座れ)
  • 乗車、下車に関わること(発車ベルがなったら乗るな、続いて降りろ)

毎日のように乗る電車で、乗るたびにこんなことを聞かされるのはばからしいを通り越して,怒りを感じる.というのも、この注意の対象者となる人たちは、こういう放送に注意を払うことは全くないので,有効性がゼロだからだ.

にもかかわらず、こんなことがずっと続いているのは,むろん鉄道会社の人間が費用対効果とか,副作用とか,そうしたことに無頓着だというのもある.

しかし、別の側面もある.それは当事者間のコミュニケーションが基本的に欠けているということも一つの理由にだろう。つまり嫌なことをされたときに,嫌なことをした人間と直接交渉するという姿勢がないのだ.自分が経験したことの中で思い出せるのは,

  • マンションで持ち回りの理事をしていた年に,ある部屋の人がうるさいので理事会で注意しろという苦情があった、
  • 小テストを実施していたときに,カンニングをしている学生がいたのに、(教員である私が)気づかなかったという投書が大学事務になされた,

などだ.こういうのは基本的に当事者でやるべきでしょう。それでもめたら、理事会なり,教員なり,大学当局なりに言うというのが,普通じゃないのかな.電車である人のキャリーバッグが邪魔ならば,「邪魔です」と言えばいい.音漏れのひどい人には「ボリューム下げて」と言えばいい.しかし言わない(自分もまず言わない).

こういうコミュニケーション力というか,交渉力というものが基本的に欠けている人が多くなったので、鉄道各社はいろいろな苦情をたくさん受けるようになったのでは.そしてこういうクレームを避けたいので、効果は全く期待していないがとりあえず注意しておくということで、毎日のようにアホな車内放送を流すということではないか.

馬鹿な話だと思う.


戯れ言 ]

霊と金

2010/3/8

櫻井義秀「霊と金:スピリチュアルビジネスの構造」(新潮社新書)を読んだ.たいへんにおもしろい本であった.神奈川県警の警視が関与していた神世界,霊感商法で悪名高い統一教会,スピコン(これは知らなかった)がどんなふうにして金を稼ぐのかが,被害者の話とともに解説される.またこうしたものだけでなく,神社,寺,教会などの一般の宗教がどうやって経営されているかについて解説されている.お寺も,教会も特別なところをのぞけば経営はかなり大変なようだ.幼稚園とか,保育園が付属する宗教施設は多いが,というか青学もそうか,これは信者からの寄付だけではとてもやっていけないためであるとか.

第4章ではスピコンの話を取り上げながら,なぜ現代人がこれにはまるのかについて論じられている.現代では,内在的な自己というものを発見し,それを実現することが奨励されているという.むろん,これは自己責任においてやらねばならない.一方,バブル崩壊後,安定した生活基盤を持てない人たちが増加してきている.こういう不安定な状態にある人たちは,この状態は「本来の自分ではない」と考え,実現すべき自己とは何かをスピリチュアルビジネスに答えてもらおうとする.しかしながら,実現すべき自己とは決して内在的なものではなく,他者との関係,社会との関係において決まるものである.よって,いつまでたっても実現すべき自己は見つからず,スピコンなどにあるお手軽なヒーリング,占いなどをはしごするということになる.自己についてこれと同じ趣旨の話は,以前に書いた覚えがある.最近読んだ内田樹さんの本にも砂粒化と言うような言葉で語られていたように思う.

5章はけっこう圧巻で正直驚いた.認知科学の成果がきちんとした形で述べられている。それに基づいて,人がどうしてカルトなどのインチキな宗教にはまるのか,また連中はどうしてうまく人をはめているのかがプロスペクト理論から解説される.

こういうのを読むと,認知科学が大学基礎教育場面でいろいろと利用できることに気づく.


被害者意識:その2

2010/1/26

前の記事から考えが少し広まった.というか,いつも考えてきたことにつながった気がするので,少しこちらで展開する.

近年,被害者が特権的な地位を持つべきであるというような風潮が強くなってきたように思う.司法の場においても被害者救済とか,修復的司法とか、そういう考え方が現れ,単に法律違反を行ったから規定に従った罰を下すというのではなく,被害者の心情を考慮した判断が必要との考えが広まっている.

これは基本的に,刑罰というのが被害者というものを念頭に置いたものではなかったことに起因する.犯罪者が処罰されるのは、法律に触れたからであって,被害者に迷惑をかけたからではない,というのが基本的な法律の考え方だろう.これでは被害者は到底納得できない.そういうことで被害者の立場を取り入れた、あるいは被害者の関係者の意見を重視するような動きが出てきたというわけだろう.

被害にあった人に対して可哀想だとか,同情するとか,そういう気持ちは社会生活を営む上できわめて重要だ.これがない人とはおつきあいが難しいと思う.

ただし,被害者、あるいは被害者の関係者の言うことが正しいとか,彼らの発言が最も尊重されるべきだというのは話が別だ.たとえば身内を殺された人が「加害者をぜひ死刑にして欲しい」という発言をした時に,そういう気持ちが湧き出る理由を理解することと、その発言通りにすべきであるということは全く次元の異なる話だ.

一部マスメディアはこうしたとても短絡なロジックで報道を行って,一般市民の情念,怨念みたいなものに訴えかけようとする.これはとても危険な話だ.

裁判員制度が施行されてこうした危険な傾向がどんどん進むのかと心配したが,それは杞憂であったと思う.人はずっと賢い。


etc ]

被害者意識

2010/1/25

今日,国谷さんがキャスターをしている番組を見ていたら「ほめる」ということが今注目されているという話しが出ていた.誰にもほめられず、黙々と子育てをする母親、仕事に追いまくられている若い男性などが出ていて,「ほめ言葉」をもらうこと,そうした本を読むことにより,生活のエネルギーを得られる,というような話しだった.

面白かったのはゲストとして出ていた春風亭小朝の発言だ.正確ではないが要約すると,

このごろの人たちは怒られたがっている.なぜならば怒られたとたん被害者となり,被害者は保護されるべきという論理がみんなに働くからだ.

となる.

けっこう当たっているような気がする.私がつい最近出た会合でも、自分はどれほどいろいろなことの迷惑を被っているか,被害に遭っているかということをひたすら強調する人たちがいて閉口した.自分の迷惑や加害はほっかむりで、人のことだけあげつらう,そして自分が被害者なのであるから,その意見が最も尊重されねばならないみたいな,まことに馬鹿げた発言をする.

こういう人間には「ふざけろ!」と一喝したいという気持ちが沸き上がってくるが,それをやめて「そんなに耐えてがんばったんですね」とほめてみるといいのだろうか.そうは思えないな.


etc ]

体調不良その2

2010/1/15

以前「体調不良」というエントリーで、偏頭痛、肩こり,目の疲れは風邪のせいであるという話しを書いた.今回は10月くらいからの風邪に始まり,その後の胃もたれ,頭痛と続き、12月末当たりに上記と同じ症状が現れ,また耳鼻科に行った.これで一発で直るだろうという思いだったが,実は全然よくならない.暮れから正月に書けて頭痛に悩まされながら暮らした.

そんな話し床屋でしていたら、マッサージという話しになり,いいところがあるとのことで出かけた(というか同じビルの上の階).さてそこで頭、肩,目がひどく凝る,疲れるという話しをして,少し揉んでもらったら、なんと「お客さんは歯が片方おかしくないですか」と来た.実は右の奥歯が二本ない.この状態はけっこう長いのだが、どうもそのせいで左側をやたら使ってかんでいたらしい.その結果,左側のほお,あごの筋肉が固くなり,さらにそれが首、肩まで広がり,それで頭痛を引き起こしているのではないかというのだ.それでそこらへんを集中的に指圧してもらった.

だいぶ楽になったような気がしたが,もう何回かは通えというので,通院した.すると2回目あたりからはほぼ数ヶ月に渡る頭痛も肩こりもとれてしまった.

意外な結末というか,本当に体は不思議ですねぇ.早く歯医者に行かねばならない・・・


etc ]

本を売る時の礼儀

2009/10/7

古本屋で古い本を集めるのが好きな友人がいる.昨日その人がにやにやしながら,一冊の本を私に渡した.よく知っている人の書いた専門性の高い本で、定価は1万円近くするのが5000円で手に入ったとか.しかし問題はそこではなく、その本の最初のページには献本のしおり(「著者謹呈」などと書いてあるやつ)が挟んであったということだ。つまり著者から送られてきた本をそのまま古本屋に売ってしまったわけですね.これはちょっと失礼だよね.少なくとも,献本のしおりは外すべきでしょうねぇ.彼はさらにすごい本も持っていて,それの表紙の裏には「謹呈・・・先生、xxxxより」などというサインの入ったものもあった(このかたの名前も知っている).これはさすがにしゃれにならない.


etc ]

水着の寿命

2009/9/25

一昨日,泳ぎ終わって水着を洗っていたら,尻の一部分が変色し,(黒だったのが)茶色っぽくなっている.いくらなんでも「あれ」ではないだろうということでよく見てみたら,その部分の繊維が変質して薄くなって,裏側がみえるために変色したように見えたということが分かった.

まだこの水着にして100回程度しか泳いでないのにこんなふうになるとは不良品なのかと思ったが,仕方ないので新しいのを買いに行った.そこで店の人に「水着の寿命って一年くらいですか」と聞いたところ,「はく回数にも拠りますが,毎日泳いだら数ヶ月が寿命です」とのお答えをいただいた.

そんなに短いんだ.ちなみに自分は100回程度は泳いでいるからちょうど寿命と言うことだ.なるほど筋が通っている.ということで,安めのものを買うことにした(といっても7000円くらい).

それにしても繊維がこれほど傷むくらいの水に毎日浸かっていてもよいものなのだろうかね.肌が傷むからやめようと思うか,人間って強いんだって思うか,そこらへんは考え方の問題だね.


etc ]

床屋における,教育と脳科学にかんする類推的談話

2009/9/24

今日,床屋に行った.そこで教育心理学会に行ってきたという話をしたら,「教育心理学では何歳の子供にはどんな教え方をすればいいみたいな話をするんですか」という質問を受けた.確かにそういうこともあるのだけど,基本は分からないよみたいな話をした.そのときにこんなたとえ話をした.

床屋に来た人間の歳や干支や星座が分かったからと行って,そいつにどんなカットをするか,どんな髪型にするかは分からないでしょう.同様に,年齢が分かったってどんな教え方をすればよいかは分からないんだよね.

という感じだ.むろん,年齢と髪型には一定の相関はあるだろうが,だからといってそんな単純な変数一発でカットが終わりなはずないでしょう,と言ったらしきりにうなずいていた.

さてさらにその博識の理髪師から「最近は脳科学がずいぶんと発展したので,どうやれば脳に一番いいなんてことも分かったんですか」という質問をいただいた.そこでこんなたとえ話が続いた.

毛髪に関する完全な知識が科学によって得られたとしましょう.そういうことが理髪師全体に広がったとしても,今いる客にどんなカットと髪型をすればよいかは導けないでしょ.

ということです.使ってはいけない整髪料があるとか,そういうことはたしかにこの科学の知見によって分かるだろうけど,どんな髪型にするとか,どの程度切るとかそういうことは次元の違う問題だということだ.

けっこういい比喩かなと自画自賛している.


etc ]

教育心理学会2009に参加

2009/9/24

昨日から教育心理学会で静岡に来ている.この町は小学校6年生から高校1年生まで暮らしたということで,大変に懐かしい.小学生,中学生をみると,昔の自分をみているようで,切ないというのか,微笑ましいというのか,励ましたくなるというか,何ともいえない気持ちになる.

さて午前中は批判的思考のシンポジウムに出た.批判的思考は自分が現在行っているプロジェクトである大学生のレポートライティング教育に密接に関わるものであり,大変に興味を持って出かけた.発表者の方々は,いずれもその分野でしっかりとした研究を行っている人たちばかりであり,大変に実り多いものであった.みなさんは,批判的思考万歳みたいな感じではなく,それが用いられる文脈,状況などを込みにしたより複雑で包括的なモデルを目指しているように見えた.また教育的な重要性だけでなく,認知モデルとしての展開もかなり期待できるんじゃないかなと感じた.個人的には,批判的思考とはどのような思考のアマルガムであるか,その本体は文脈や内容とどの程度関係しているのかが気になった.

午後は,自分のポスター発表を行ってきた.批判的読みを直観的で感情的な思考により促進するという,なんとも聞くからに違和感を感じるネタで発表を行った.簡単に言うと以下の通り.

  • レポートライティングには資料に対する批判的読みが必須である.
  • しかし批判的読みを論理学や批判的思考をベースに行うことは1年生には難しい.
  • 一方,感情や直観というのは得てしてまともなことが多い.感情は認知のパートナーである,という知見がある(Damasio, Dijksterhuis, Thagardなど).
  • そこで批判的読みを行うときに,「ムカッ」とか,「へぇ」などの表現しやすい直観的なタグを用いてコメントを書かせると,批判的思考が可能になるのではないか.
  • そもそも我々プロだって,厳密に論理で論文を分析することは少ないし,仮にやってもそれは2,3回目に読むときの話だ.はじめは「おっ,これいいじゃん」,「なにこれ」などの直観的,感情的な反応が先行するのがふつうだ.

ということで,EMU(Emotional and Motivational Underliner)というWebベースのマーキングシステムを作り,これで資料に感情的なタグ,コメントをつけさせるとどうなるかを検討した.紙で行うときに比べて,このシステムを使うと少数のいいコメントがなされることが分かった.で,それがいいレポートにつながるかと言えば,そうではなかった(紙でやったときと違いがない)。しかしタグを上手に使った人たちのレポートはそうでない人に比べて,優れたレポートを書くことがわかった.

小林さん,荷方さん,福田さん,清河さん,白水さん,河崎さん,小沢さん,あと数名の方からたいへんに有益なコメントをいただき,今後の研究の展開の方向が見えてきた.この場を借りてお礼申し上げます.

その後,本学の寺尾くんと一緒に少し話した.その中で,認知的な教育心理学研究(昔はinstructional psychologyと言いました)は,スキーマと素朴概念で大きな展開は終わったのではないかというような話が出てきた.私としては学習科学研究,分散,協調認知研究も変えた可能性が高いという話をした.ただ実際には教授心理学的なものにはあまり関心を持てなくなってきた(教材研究の心理学とか言うものには関心がなくなったと言うこと).どうしてなんだろうかといろいろと考えていたが,たぶん「認知のコア」に関わるような話が少なく,個別教科,単元の学習指導みたいな話がメインになったためではないかと思う.

スキーマの話は元々が知識表現,知識ってどんな感じになっているのというきわめて認識論的な関心から始まった.これがはじめは言語理解,次には問題解決などの分野で取り上げられ,各々の領域での知識の特性を加えながら発展をしていった.素朴概念はいわゆる教育的な文脈でととらえることもできるのだが,実際には「学習って何よ」みたいな,これまたきわめて認識論的な課題を我々に突きつけたのだ.どんなに教えても,ほとんど効果がない,どういうことよ,という話だ.

自分は,こうした認知の根源的な問題を探求するために教授心理学をやっていたことに気づいたということでよいディスカッションがなされたと思う.

翌日は,最終日にお話をされる東洋先生や,益川さん,白水さん,村山さんたちと一緒に食事をした.


etc ]

民主党政権下の教員養成

2009/9/19

教育に関わる民主党のマニフェストに、免許更新制の廃止といううれしい話があるとともに,教員養成を6年制にするというのがある。民主党の案では6年制にしてそのうちの1年を実習に充てるなどの方針が打ち出されている.

教育実習をやったにせよ大学を3月に卒業して、4月から担任というのはずいぶんと大胆な話だと昔から思っていた.ただ6年制にしたら本当に現場ですぐに活躍できる人材が育成されるかというとそういうわけではなかろうとも思う.また

6年もかかかるとなれば、当然入学者も減る危険性もある.勤めていたら2年間で500−700万程度の収入が得られるのに,逆に(私学の場合)200万程度の支出が生じるのだ.さらに6年もかけて先生になれない危険性も相当高い。小学校の教員採用は東京都の場合は数倍程度の倍率だが,中、高の場合は数十倍にもなる。医者だって,薬剤師だって学部を卒業すれば必ずなれるというわけではないが,ここまで厳しいものではないだろう.

などなどを考えていたのだが,昨日の朝日の投書欄を読んで,もっと大きな問題があることに気づいた.投書の主は,以前,アナロジーに関わるワークショップを日本心理学会で一緒にやった荷方(金沢美工大)さんだ。6年制にすると、いわゆる教育学部以外のところで教員養成をすることが著しく困難になるということだ。言われてみればその通りだが,考えていなかった.我が大学でも教育学科以外の学科,学部から、かなりの数の教職履修者がいる.こういう学部、学科はむろん4年制のままでいるわけで,後の2年はどうするのかという問題が出るわけですね.また教育学部を持たないが教員養成をやっている大学ではこれの担当者というのも多数いる.こうした人たちはどうなるのだろうか.

もう少し考えると教育学部などの教員養成をやる学部でも大きな問題になることは確実だと思う.というのも教育学部は教員養成だけをやっているわけではないからだ.また入学者の中にも教員は目指さないという人たちも一定数いる.こういう人たちはどうなるのだろうか.

いずれにせよ、ものすごい大きな変革が必要になる.ちょっと無理じゃないかなぁ.


etc ]

目黒区民センタープールで泳ぎつつ,諏訪理論を考える

2009/9/7
昨年同様,今年も目黒区民センタープール(屋外)に出かけていた.7月中旬から40回程度泳いだと思う.ここは家から歩いて数分,料金は2時間で200円という大変にありがたいところだ.もう一つ付け加えたいのは,監視員の皆さんの接客(?)のすばらしさだ.本当に感じがいい人が多い.ホテルのプールではないので,いろいろと規制があるのだが,違反した人に対して大変に丁寧に対応している(自分は違反しませんけどね).目黒区の職員ではなく,ミズノに委託しているそうだ。どういう教育をしているのだろうか,一度訊ねてみたい.

さて泳ぎの方はおよそ10ヶ月ぶりということもあり,昨年始めたときとほぼ同様のレベルに落ちていた.1日めの終わりにはそのレベル低下の激しさと,著しい疲労で,それ以降行きたくなくなるのだが,がんばってあと2日くらい行くとすこしずつ楽しくなる.課題が見えてくるということだ.どうすれば楽に泳げるのか,どうすればかっこよく泳げるのか,どうすれば速く泳げるのか,そういうことが気になりはじめる。幸いなことに,恐ろしく上手な人たちがほどほどいる。そういう人たちの泳ぎを見て,どう改善すべきかを考え,実行する.
こうやればでうまく行くんじゃないかと前日の夜に考えて,期待にあふれて翌日プールに行く.ところが,世の中そう甘くはない.やってみてもさっぱり以前と変わらない.あるいはさらに悪くなる.または,そういう動作自体が全くできないなどなど。課題は山積みだ.今,1つの改善方法を考えているのだが,これは本当にうまく行きそうな気がしている.などなど,けっこう楽しい(完全に諏訪さんの世界だな).
こういう体験をしてみると,諏訪さんの言っているメタ認知的言語化というのがよくわかってくる.残念ながら,諏訪さんの言っている意味ではないのだが(諏訪さんが間違っているという意味ではなく,他の意味もあるということ),要するにこの活動が「楽しい」のだ.
  • 改善のために,現状を分析する,
  • 分析の結果,問題点をあげる
  • これを克服するための手段を考える
  • 上手な人の泳ぎを見る
  • 実践する
  • そこからまた考える
というサイクルが回り始めると,何か楽しくて仕方なくなる.簡単な言い方をすると,まともな人間として生きているということが実感できるというわけだ.今51歳なのでこれを10年続けて,目黒区の水泳大会60歳の部に参加し,優勝するというのが夢だ(参加者はさほど多くないと聞いた).
さてこういうのとは別なのだが,プールの別の楽しみもある.昨年はあまりなかったのだが,今年は5時過ぎからのプールが多い.暗くなるとライトがついて,プール内のさざ波と微妙に影響しあって,なんとも例えようのない幻想的な,美しい光景が広がる.特に気温の低いの夜は日などは人も少ないので(50メートル9レーンに数人とか),この光景をほとんど独り占めできる.泳ぎ疲れた後,こういう状況の中にまさに身を浸す,これはいいですよぉ,本当に。
9月10日が屋外最終ということなのだが,9,10日は仕事で行けない.よってあと2日。きちんと泳ごう.その後は屋内25メートルで泳ぐしかなくなるが,目標達成のため,今年はやめずにがんばりましょう.

etc ]

京都で気づいたつまらないこと

2009/9/1
京都で気づいた本当につまらないこといろいろ.
  • 交差点で右折する際に,青信号の後に右折専用のランプがつく.これはまあどこでもある話だけど,それがものすごい短い.2台程度の車しか右折できない.何でこんなに短いの?
  • 立命館大学は他の大学同様いろいろと建物があるのだが,どれもちゃんと名前がついている.たとえば,敬学館とか,以学館とか.そういえば,昨年行った同志社の京田辺キャンパスの建物もきちんと名前がついていた.東京ではほとんど聞かないのだが,関西の文化なのだろうか,たまたま2つの大学がそうだということなのだろうか.
  • 京都の大きな通りの歩道は幅もずいぶんと広いのだが,そこをかなりのスピードでけっこうな数の自転車が走る.東京も場所によっていろいろあると思うが,自転車の量もスピードも京都の方がすごい気がする.
  • 関西ではエスカレータは左側が歩く人と聞いていたが,京都では右側がそうだったけど.もともとなのか,それとも関東化してきたのか.
  • これは今回というわけではない.京都大学のある建物(吉田南一号館)には洗面所というのがあるのだが,本当に洗面所であり,トイレではない.手を洗う専用の場所だ.どうして必要なのだろうか.

etc ]

洞察ワークショップ

2009/8/31

日本心理学会で阿部慶賀さんが洞察に関するワークショップを開き,そのスピーカの1人として参加した.

東京電気大の寺井さんは仮説空間,データ空間という理論的なバックグラウンドから洞察を検討した.言語報告をさせるといわゆる「はまった」状態から突発的に「ひらめく」状態への変化が見られる.しかし詳細な眼球運動の分析を行うと,この飛躍のはるかに前から,人間は洞察をする方向へとシフトしていることが分かるというもの.だいぶ前に聞いた研究なのだが,やはりその意義は大きい.

中部大学の清河さんは共同で洞察課題を行わせたときの結果を発表した.共同というよりは人のものを見ることがどんな意義があるのかを検討した研究だ.二人で20秒ずつ交替でパズルを解く.この際,一切のインタラクションは禁止されている.このような条件で行うと,1人でやったときよりも成績がよくなるという.さらにおもしろいのは,20秒でいったん中止して,人のを見るかわりに自分のやったことを見るという条件は,1人でやったときよりもさらに悪くなるということだ.メタ認知を導入して説明をしようとしていた.この研究も結構前のものだけど,やはりおもしろい.人の失敗が成功を生みだすのだろうか,それとも人の(部分的な)成功が成功を導くのだろうか.いろいろと研究課題がわき出てくる.

青山学院大学の阿部さんは,社会的交渉における裏切り者検知という進化的に作り出されたバイアスが,ある種の洞察問題解決を阻害するという話をした.扱った問題は次のようなものだ(細部は違う).

太郎,次郎,三郎は土産物屋で1万円ずつ出し合って,3万円の品物を購入した.このお金を受け取った店員が店主にこのお金を渡しに行くと,5000円まけてあげなさいといった.この時店員はこの5000円の中から2000円をねこばばして,3000円を三人に返した.三人はこれを1000円ずつに分けて受け取った.さて,三人の出したお金は9000円×3で27000円,猫ばばした店員の2000円と会わせると29000円にしかならない.1000円はどこに行ったのでしょうか.

というものだ.この問題はかなり難しくて,自発的に解ける人はそれほど多くはない.阿部さんはこの原因が猫ばばという裏切り者がいるため,そこに執着してしまうことと考えた.そこで猫ばばではないような問題にこの話を変えたところ,成績がかなり向上したという.進化と洞察を結びつけようということらしい.

私は,洞察の突発性,驚きは,失敗からの潜在学習の成果を,それを意識が後から観察することに拠るものだ,という発表を行った.潜在学習や意識のコントロールを離れた認知は数多く存在する(偶発学習,潜在記憶,潜在学習などなど).だとすれば思考だけは潜在とは無縁だと考えるのはおかしい.実際,洞察が意識的なコントロールとは相性が悪いという報告は数多くある.ということで,潜在成分を含めたモデルを提案し,これを実証するために行ったサブリミナル刺激を用いた実験を報告した.これも古い.

コメンテータの三輪さん(名古屋大)はご自身の最新のデータも呈示しながらだったが,時間切れできちんと聞けなかった.こんどしっかり聞くことにしよう.

初日に午前中のワークショップと言うことで,開始15分前に行ったら,発表者以外の人は一人だけという状況で,これはどうなるんだろうと思ったが,最終的には20人くらいの方が聞きに来てくれた.このコミュニティが広がることを祈りたい.また阿部さんの努力に感謝したい.

その後,推論のシンポジウムのディスカッサントとして午後のセッションに出る.ここでは理研の入来さんや,霊長研の友永さんなど,本当にお久しぶりという方たちと合い,生産的なディスカッションをすることができた.もう1人のディスカッサントのSteven Slomanさんとも10年ぶりくらいでお会いした.ただこれらはほとんどシンポジウム前の話.シンポジウム自体は,企画者の坂本さんが「何でも推論なんだ」ということでいろんな推論を集めたとかいう程度なので,全体としてはあまり意味のないものであったと思う.


オノマトペ

2009/8/31

オノマトペ(onomatopoeia)という言葉はご存じだろうか.あまり一般的ではないらしいが,擬音語や擬態語を指す.擬音語というのは,ある状態に伴う音を言葉にしたもので,「どたばた」とか,「わんわん」とか,そんな言葉を指す.こうした言葉を聞くと,聴覚的なイメージが活性化し,印象的になる.擬態語というのは,音ではなく主にその状態の視覚的なさまを指す言葉で,「もじゃもじゃ」とか,「きらきら」なんていうのが典型的なものだ.こちらは視覚的なイメージを喚起し,通常の言葉にないインパクトが出る.つまりオノマトペはいわゆる言葉の意味という認知的な側面に留まらない,感性的な情報を伝えているようである.こうしたことを反映して,擬音語や擬態語で表現した文章はそうでないものに比べて記憶成績が向上するとかそんなことが知られている.

さてこれらは本当に聴覚的,視覚的なイメージを喚起するのだろうか.このことが気になった昨年のゼミ生の山崎陽子さんが実験を行った.さてワーキングメモリには,音声的な情報を保持するという音韻ループというものと,視覚的な情報を保持する視空間スケッチパッドと呼ばれるものがある.もし擬音語が聴覚的なイメージを喚起するとすれば,そればそれは音韻ループ内に展開されるし,擬態語に関しては視空間スケッチパッド内に視覚表象が展開されるはずである.よって,擬音語を記憶させるときに他の音声へも注目させたり,擬態語を記憶させるときに他の視覚情報へも注目させたりすれば,各々に負荷がかかり,記憶の成績は低下することが予測できる.こうした実験方法は二重課題(dual task)法と呼ばれ,古くから用いられてきた.

こうしたことで実験を行うと,擬音語を記憶させるときに他の妨害的な音声刺激を入れると視覚的な妨害刺激を入れたときよりも成績が悪くなる.一方,擬態語を記憶させるときに視覚的な妨害刺激を入れると,音声的なそれよりも成績が低下するが統計的にはその間に違いは見られなかった.

問題は擬音語の方ではなく,擬態語の方にある.どうして擬態語では視覚刺激が妨害にならないのだろうか.1つ考えられるのは,記憶リストとして用いた擬態語には視覚性の強い「きらきら」とか,「もじゃもじゃ」などのようなものもあったが,「すべすべ」とか触覚性の単語も含まれていた.触覚性の単語は視覚的な妨害は受けないはずだから,それらの単語の成績がよいために,視覚妨害の効果が出なかったという可能性がある.そこで視覚的な擬態語とそうでない擬態語に分けて分析を行ったが,いずれのタイプの擬態語でも再生成績に違いはなかった.

もう1つの可能性は視覚的な妨害刺激についてである.この実験ではパワーポイントのアニメーションを用いた運動的な視覚刺激が用いられた.こうした刺激の特性が妨害を生じさせなかった可能性もある.具体的にいうと,擬態語では運動的なイメージを伴う単語も用いられたが,そうでない単語が多数存在した.こうしたことから,運動系の擬態語はこの妨害刺激の干渉を受ける可能性があるが,そうでない単語は受けないということも考えられる.そこで運動系の擬態語とそうでない擬態語に分けて再生率を見てみたが,やはり差はなかった.

ということで,擬態語は

  • いわゆる視覚的な表象を活性化するとは言えない,
  • 視覚表象も活性化するがその他のモダリティの表象も活性化する
  • あるいは視覚妨害刺激が適当でない(この可能性はむろんつまらない)

いずれかの可能性ある.こんなことを8月26日から3日間行われた日本心理学会で発表してきた.鳥取大学の田中さん,名古屋大学の鈴木さん,法政大学の矢口さん,東京大学の針生さん,京都大学の楠見さん,青山学院大学の重野さんから示唆に富むコメントをいただいた.このおかげで今後の展開の糸口が見えてきた.具体的には,以下のような可能性を検討する必要があると思われる.

  • (少なくとも視覚的な)WMへの干渉課題は保持時に行うのが普通(<ー田中さんのコメント)
  • もう少し標準的な二重課題の妨害刺激を用いた方がよい
  • 擬態語は被験者ごとに,視覚,聴覚,触覚性の度合いを各単語について聞いて,それをもとに分類をした方がよいのでは?(<ー針生さんのコメント)

やはり学会は楽しい.

現在は,ゼミの根岸くんが記銘語を視覚呈示した場合(上記の実験は聴覚呈示)に同様の効果が得られるかを検討している(どうもちがうようだ・・・).


研究業績更新

2009/7/7

先週,長らくBlogを書いていたサイトを閉じた。その影響で,研究業績のページ中の論文のダウンロードなどがまったくできなくなった.ということで,このサイト内にすべて関連のファイルを移行した.けっこう時間がかかった.

興味があったらのぞいてみてください.


etc ]

体調不良

2009/6/5

ここ数年?くらい,1年に一回あるいは二回くらい,ひどく体調が悪くなっていた。典型的には,頭の片側が痛くなり(片頭痛?),そちら側の肩が凝り,またそちら側の目がひどく疲れる。肩が凝ったからか,ということでアンメルツを塗ったり,めがねが合わなくなったからかと眼鏡屋に行ったり,そうこうしているうちに何となく良くなって,それで終わりみたいな時期を過ごしてきた。

今週の初めから,また同じ症状が出てきて,眼鏡屋に行ったりしたのだが,なかなか直らない。昨日はかなりひどくなった。特にその痛みが広がって,耳とか,あごの下とかまで痛くなってきた。これはなんかへんなのではと思い,今日医者に行った。

で,なんと医者が言うには「風邪です」。え,風邪なんですか,と聞くと,のどが腫れている,おそらく鼻も炎症を起こしているという。で,治療をすると,なんとその場で肩こりがなくなった。なんのこっちゃ。風邪だったんかい。

鼻水が出て,熱が出て,のどが痛くてみたいなのが風邪だと思っていたのだが,そうではないらしい。こんなに軽く片がつくのだったら,さっさと医者に行けば良かった。


etc ]

PDFファイルをWordファイルに

2009/6/3

長い原稿を書くときには,未だにemacsとlatexを用いている。こうやって作ったものをPDFにして印刷する。通常はこれでいいのだが,出版社によってWordのファイルが必要になるときもある。また少なくともコメント機能に関して言えば,AdobeのReaderやAppleのPreviewよりも,Wordの方が楽ちんだと思う。ということで,Wordファイルが必要になるときがある。

Acrobatを購入すれば,Word形式に落とすことができるのだが,さすがにずいぶんと高い。たまにあるかないかの話だけのために,そんな大金は払いたくない。

こういう方のためのサイトがここです。pdfファイルをアップロードして,ボタンを押して,ダウンロードして終わり。フォントが落語(相撲?)みたいになって笑えるし,行末などの処理がおかしいのだが,1ページの文字,行などは正確に再現する。ただ図はあまりに細かいのはだめみたい。簡単なフローチャート系だったら大丈夫みたいですね。

このサイトでは他にpdfをテキストにしたり,htmlにしたり,イメージにしたり,逆にテキストをpdfにするサービスもしている。便利です。


etc, latex ]

世界の10代

2009/5/29

NHKーBSで「世界の10代」というのをやっていた。1回めがアフリカ、2回めがパレスチナ、3回めがイラン、4回めがデンマーク(?)だった。4回めはきちんと見ていないのだけど、なかなか面白い。

1回めは、ウガンダの高校。男尊女卑がすごくて、リーダは男以外はあり得ないというところ。ここで挑戦する女子が前半の主役。後半は、セックスに関する教育を取り上げている。あまりに貧しいせいか、ノートや鉛筆を買うお金欲しさに真面目な子供が売春に走り、妊娠の結果、学校を去ることが多い地域を取り上げていた。なんとかしようと立ち上がった校長先生は正直言って、人権無視とも言えるくらい強烈に性の教育を進める。全校生徒が集まる朝礼で、「胸の大きな子は手を上げなさい」とか、そういう子供が妊娠していないかどうか医師に半ば強制的にチェックさせるとか、妊娠したら退学とか、ものすごいことをやっている。この先生が子供に言う言葉がすごい。「もし君たちが結婚したときふつうは相手は結納で牛一匹くれる。しかし君たちが処女だということを知ったら、だまっていても十匹差し出すだろう@_@;」などという。間違っている部分も多いと思うのだが、その校長はそのくらい若い女の子たちが貧困故に性犯罪の被害者になっていることをなんとかしようとしているのだ。

2回めはパレスチナ。これは打ちのめされた。ふつうに幸せを願って生きていこうとする女子高生のドキュメントだ。我が国でもおそらく多くの少女が抱くものと同じ少女らしいさまざまな夢を抱いて生活する。しかしそうした生活を根源から否定するのがイスラエルからの入植者、そしてそれを保護するために派遣されるイスラエル軍兵士たちだ。この連中のやることはものすごい。兵士がパレスチナ人を弾圧するのは予想できるのだが、さらにたちが悪いのが入植者と呼ばれる連中だ。自分たちがナチスドイツにやられた腹いせなのだろうか。幼稚園に行くかいかないかのレベルのがガキから、おばちゃんあたりまで、まあ信じがたい。

さてなんと、イスラエル兵士たちはこうした入植者たちを守るとともに、彼らがあまりに過剰なことをやらないように派遣されているという。呆れ果てた国家だと認識した次第だ。しかしこうしたことに強く抗議するイスラエル人も出演していた。ということだから、イスラエルの国家政策と、イスラエル人を同一視しないということは大事なことだ。

日本はアメリカのお友達というか、属国というか、一つの州というか、奴隷であるので、アメリカが応援するイスラエル側の情報がバランスがとれないほどたくさん入ってくる。よって自爆テロなどを行う狂気のパレスチナ人というイメージを強く持つ。またオレくらいの年の人間でもパレスチナ、連合赤軍、重信房子という連想で、やはりあそこはイカレタ人間がたちが多くいると考えがちだ。その少女も「パレスチナ人と言っただけでテロリストのように思われる」と述べているが,現実は全く違うと違うということを深く認識した次第。

3回めはイランの女子受験生の話し。これは正直,別の意味で驚いた。受験生の傲慢さというのは日本だけの話しではないという次第。確かに優秀なんだろうけど,何でもやり放題。受験のためには一家総犠牲もやむなし。へぇ,かの国でもそうなんですね。って,日本では噂くらいしか聞かないけど。ちなみにかなりびっくりしたのはイランでは女子の大学進学者がとても多いという事実だ。受験生の6割は女子だとか。女性差別で有名なサウジアラビアとか,タリバンの狂気の女子への弾圧とか,イスラムと女性の進学とは相性が悪いと思っていたけど,そうとは言い切れないわけですね。ただ,イランはシーア派であるけど,サウジはスンニー派,ここら辺も関係するのかな。


etc ]

Rational animals, irrational humans

2009/5/26

標記のような題名の本に1章を書いたが出版された。これは昨年2008年の2月に慶応大学のGlobal COE(代表:渡辺茂先生(表紙の左の人は渡辺先生に少し似ている))で国際シンポジウムを行ったときの発表者が1章ずつ書いたものをまとめたものだ。

ここで私は,洞察研究を通して,創発の4条件を検討した。複数の内的資源が中央制御を離れて,ある状況下で同時活性し,環境と相互作用することを通して,新しいパターンを作り出す,これが創発だ。

4条件とは次の通り。

  1. 生成性:人間はプログラムされたこと以上のことができる。あるいはプログラム自体を作り出すプログラムを持っている。
  2. 冗長性:人間は一つのことを行うのに複数の手段を持っている。そしてそれらは同時に活性化する。
  3. 局所相互作用:人間の行動は意識によってコントロールされているわけではない。意識は潜在的な活動の一部をモニターするだけ(これはちょっと言い過ぎか)。
  4. 開放性:人間は環境と絶えず相互作用する。その相互作用こそが創発を支えている。
ほとんどこのことを言いたいだけで(というか,こんな大変なことを言うために),ここ10年くらい生きている。よかったら読んでください。ちなみに青山の図書館には寄贈しておきます。

報道が気になる

2009/5/19

報道を見ていると本当に情けないというか,恐ろしいというか,なんとも言えない不快感がこみ上げる。先日も書いたがまた気になることがいくつか出たのでメモ代わりに書いておく。

新型インフルエンザ

これもまた前回に書いたことがそのまま当てはまり,ひたすら恐怖をあおる。煽っておいて,パニックになるなとか,おかしなことを書いている。

それにもまして気になるのが,学校の休校だ。大阪,兵庫で中,高校が全面休校になっているとか。これで先生も生徒も,困っているとか,不平がなどという報道がよくなされている。修学旅行が中止されたとか,保育園が休園で働く親が困ったとか,哀れなケースもあるが,生徒のレベルに話を限れば,喜んでいる方がはるかに多いのではないだろうか。学校が休みというのはそんなにつらいものなのだろうか。

小学生の頃おたふく風邪がはやりクラスで10人以上も休んだことがあった(当時1学級45名)。無事に学校に来ていた同級生たちの話題はいつ学級閉鎖が起きるかということだった。むろん目を輝かせて話していた。結果的に学級閉鎖にはならず,さらに(罰か)自分もおたふくにかかり,学校は行かなくて済んだのだけど・・・

まあ40年前の話なので今もそうだとは断言できないが,この間に学校がすごく楽しくなったとか(じゃあ何で不登校が激増したわけ),子供がとてもまじめになったとか(ゲームに夢中になっているんでしょ),そんな話は聞いたことがない。

あまりに一面的というか,紋切り型というか,嘘八百というか,そうした報道姿勢に強い疑問を感じる。学校は楽しくて,すばらしいところであり,みんなが毎日ニコニコしながら登校するというような,「二十四の瞳」みたいな世界であると,我々を洗脳しようとしているのだろうか。

草薙くん

これもまことに馬鹿げた大騒ぎで呆れ果てた。「そんなことしちゃだめだろう」と笑ってすませる話が,なにやら大犯罪のような扱いになる。芸能誌ならばともかく,大新聞,テレビまで大騒ぎだ。NHKでは速報のテロップまで流れた。鳩山大臣は(後に謝罪したが)「最低の人間」ときたもんだ。これを最低と呼ぶとすれば,あまりに世間知らずだ。あなたの党はもっとすごいのを生みだし続けてきたじゃないですか,と言いたくなる。

個人的には草薙くんの公然わいせつより,記者たちの軽薄さの方がよほど犯罪的だと思う。もっともこれについては,いわゆるネットで有名な「正論」以外の意見もかなり出ていたので,そこらへんはちょっと安心ですけどね。


これは聴かねばならない

2009/4/20

新聞やテレビでも話題になっている,youtbueでアクセスナンバーワンを誇るスーザン・ボイルさんが出ているこのページは訪れるべきだと思う.侮りが笑いへ,そして感動が待っている.


etc ]

講義,テレビ,経済,進化とかけて

2009/4/14

非常勤でここ4,5年くらい教えている大学がある.50-100名くらいの受講者がふつうで,一番多いときでも150名くらいだったと思う.ところが先日今期初めての講義に出かけたら,160名ほどはいる教室が満杯どころか,立ち見どころか,廊下に学生があふれていた.

こういうのはむろん大変なのだが,私としてはそれほど悪い気はしない.100名入る教室に10人未満とか,250名の巨大教室に40-50人ほどちらほらみたいなケースが,私の場合はとても多く,なんともやりづらい.人気がないんだろうなぁとため息をつく.こうしたことが多い私にとって,今回は未だかつてない入り方で,ついに私の講義の真価が伝わり始めたのか,と思うわけだ.

しかし今まで5年くらいやって,こんなことがなかったのに,昨年の講義の噂が突然広まるなんてことがあるのだろうか.まあないだろうねぇ.考えてみればいろいろと理由はある.まず曜日と時限が変わった.前は金曜5限などという,およそ人気のない時間にやっていたが,今年は木曜日4限だ.これは大きい.バイトは夕方からとすれば,4限は十分に可能な範囲だ.またその時間にやっている講義がどのようなものかも関係するだろう.つまり同じ時間に必修科目が少ないとか,おもしろい講義が少ないとか,ということも考えられるし,昨年までの時間帯は超人気のある講義が行われていた可能性もある.

こういうのはテレビ番組と同じだ.ふつうの人がまず見ない時間帯に放映すればどんなに立派なものを作っても視聴率は低い.また視聴率をとるには番組自体をおもしろくするというのもそうなのだが,他の局でおもしろい番組をやっていない時間帯にやるというのもあるわけだ.番組の価値(視聴率)は番組に内在する訳ではなく,その他の番組との関係によって決まる.

もっと言えば、ものの値段自体もそうだ,というのは経済の常識.だいぶ前になるけど,新聞に「ワケあり商品が大人気」とかいう記事が出ていた.ワケありは、半端もの、傷ものなどで、通常店頭に並ばない種類のものをさす.割れたせんべい,大きさが不揃いのイチゴ、足の折れたカニ、ちょっと裂けたタラコなどいろいろある.味などはまったく変わらないのに,出荷できないために今までは産地で消費していたとか,捨てていた代物だ.しかしこれをネットなどで通常商品の半額程度販売したところ、バカ売れだと言う.それはそれでいいのだが、あまりに人気になってしまい,その結果訳なしの商品が大量に残ってしまい,結果的にそれを値引き販売をせざるを得なくなり,訳ありも訳なしもほぼ同じ値段になったものもあるとか.

進化もそうだ.昔訳した「アナロジーの力」という本によれば、パンダは摂食面でも,生殖面でも決して優れているとは言えないそうだ.たとえば生殖ー>受胎可能期間は数日、餌は基本的に笹しか食べない.道徳的かもしれないが,生物として決してよい特徴とは言えないだろう.じゃあ、なんでこんな生き物が数百万年も生きているのか.それは彼らの生息する環境に競争相手がいないからだ.捕食者がいない,同じ餌を食べるたの生物がいない,こうしたことがパンダの生存を支えている.要するに、行き残るかどうかは、その個体自身の性質で決まるのではなく,他の生物を含めた環境に関係しているわけだ.これまた進化の常識.

こういう考え方は,構造主義とか,関係論とかいう見方と言える.つまり意味とか価値はそのもの自体に内在するわけではなく,他のものとの関係によって決まるというわけだ.下世話なネタでひんしゅく買うかも.


学びあいが生み出す書く力

2009/4/12

標記のようなタイトルの本が出版されました.これは私が代表をしていた青山学院大学総合研究所のプロジェクトの成果をまとめたものです.このプロジェクトは,高等教育,教育社会学を専門としている杉谷祐美子先生,図書館情報学を専門としている小田光宏先生,学習科学が専門の長田尚子さんとの共同により進めてきました.目的は,大学生のレポートライティングの力を協調学習を用いて向上させようというものでした.

なぜライティングかというと,むろん大学ではレポートライティングが随所で必要とされるからですが,それだけではありません.ライティングには論理性,創造性,メディアリテラシー,対話力という,これから社会に出て行く人に欠かせない大事な力が統合的に用いられる必要があるからです.よって,ライティングをきちんと学習することにより,こうした力も育つのではないかという期待があります.

こだわりは2つあります.1つはレポートライティングの教育を書き方の教育にとどまらせないと言うことです.論理的に文章を構成することはライティングにおいてきわめて重要なことです.しかしそれだけではない,「何を書くか」,つまり書くべき問題を見つけ出すこと=問題設定も同様に重要と言うことです.これもターゲットにしようというのが1つめのこだわりです.

もう1つのこだわりは,仲間との相互作用を通して何を書くか,どう書くかを学びあうことを重視するという点にあります.レポートの書き方を教えるというと,何度も書かせて先生が添削して,ということがイメージに浮かんできます.しかし,正解を先生から教えてもらうというのは,学習のあり方の1つに過ぎないし,おそらく学校を出たらあまり重要でなくなる可能性が高いものです.こうしたことから,完全な知識を持たない学習者同士が相互作用を繰り返すことを通して,大事なことを自分たちが発見していく経験が必要と考えています.

というようなこだわりからこの本ができあがっています.よろしかったらどうぞご購入ください.値段は2500円と安くはないですが,決して高いという範疇にも入らないと思います.


mediaは恐怖をあおるのか

2009/4/11

つい数ヶ月前に猛烈な円安が始まり,一時は90円を切るほどになった.しかし最近はもうちょいで100円ということになっている.さて円安が始まったときメディアはどのような報道をしたのだろうか.多くの輸出産業のトップにインタビューをして,「もうだめ」,「限界を超えている」など,人を強い不安に落として入れる報道をもっぱらしていた.韓国旅行が増えたなどの記事も確かにあったが,それは例外でだろう.

それではこんどは円高が止まったときは何を報道しているかと言えば,ほとんど何もしていないのではないだろうか.持ち直したとか,危機を脱したなど,人を安心させる報道は何もない.

同じようなことはガソリンの値段に関しても言える.上がって生活を苦しめるときにはみんなの悲鳴を報道する.一方,値段が下がったり,円高でさらに得するときには,何もではないだろうが,前者の時のようには報道しない.

こうやって人を不安な状態に陥れるのはなぜなのだろうか.単純に考えれば,その方が売れるからなのだろう.もう少し言えば,人は警戒すべき情報に対してより敏感である,あるいはそれを重要視するということなのだろう.人は,幸福になる情報よりも,不幸になる情報の方が価値が高いと判断することなのかもしれない.これはTversky & Kahnemanのプロスペクト理論にもう少し何かを付け加えると説明がつくことかもしれない.そうした意味においては,メディアの情報選択,情報操作は誠に理論に合致したものと言えるのかもしれない.

しかし,こういう姿勢は,扇情的であり,危険である.こういう不安定な心理状態に置かれた人は,情報の確実性に留意しなくなり,流言,デマ,政治的宣伝にきわめて反応しやすい状態になってしまう.以上のことから,メディアは市民を危険な状態に意図せずして陥れる,恐ろしい側面を持っていることがわかるのではないだろうか.


言語の遺伝子

2009/4/7

今朝の朝日新聞に「拝啓ダーウィン様」とかいう記事があった.そこでは人間の言語を司る遺伝子(FOXP2)とほぼ同等のものがチンパンジーはおろか,マウスにもあったという話が出ていた.それでマウスに言語を話させる実験をするとかいう,研究者の談話が載っていた.

そんな話があったのかと驚いたので,以前特定言語障害というので有名になったイギリスの家族の話を思い出した.確かこの家系の人はこの遺伝子に異常を持つ割合が高く,そうした人たちはかなりの確率で言語障害を起こすようになるというのである.それで調べてみたら,まさにこの家系についてのお話に基づいて,記事に掲載された研究者がお話ししていることがわかった.

しかしこの話というのはその後の研究では,それほど単純ではないことがわかっているはずだ.たしか,この家系で障害を持つ人は,一般的な知能遅滞とか,他の確か身体的障害も伴っているということがわかったはずだ.こうしたことから,この遺伝子が言語の遺伝子というほど単純ではないというのは,ずいぶん当たり前の話になっていたのではないだろうか.それとも何か別の大事な発見がその後になされたと言うことだろうか.

それにしてもこの記事に見られる推論には,ずいぶんと大きな問題がある.ふつう人間において言語の機能を司る遺伝子がマウスにもあったという話を聞けば,その遺伝子は言語には関係ない,あるいはその遺伝子だけで言語が作り出されるわけではない,という推論をするのではないだろうか.この事実から,マウスも言語を話す潜在能力があるというのは,むろん可能性としては存在するが,あまり妥当性の高いものとは言えないだろう.

また言語という言葉で何を意味するのかが全く問題にされていないというのも気になる.言語は古典的には,音韻,文法,意味,状況,近年は身体,運動も関連するとされている.これら多くの能力の総合的な構築物として言語を考えるというのが,ふつうではないだろうか.文法だけを特権化して,これを言語というのはなんとも不思議な感覚だ.


繁桝先生の退官記念パーティー

2009/3/29

昨日(28日)に,東大の繁桝先生の退官記念パーティーに出席した.参加者100名超の盛大なパーティーだった.場所は日比谷公園内の松本楼というところ.ここは年末(?)あたりに安いカレーを出すというイメージしかなかったのだが,むろんそれは私の無知のせいであり,立派なところであった.

繁桝先生は日本におけるベイズ統計学の権威であり,心理学,教育心理学,統計学,意思決定などさまざまな分野の一線で活躍されてきた方だ.初めての出会いは,私が東北大学院受験の時に,受験者対面接官という形のものだ.何か質問された記憶はあるのだが,むろん覚えていない.その後,東京工業大学の助手時代に再会し,数年間くらいはほぼ毎日のように顔を合わせた.その後先生が東大に移られた後は,非常勤を頼まれて,それ以来半年に一度はお話しをするという形でおつきあいをしてきた.

先生の特徴はネガティブな,あるいは後ろ向きな発言,態度がないということではないかな.悪い面ではなく,よい面を見つける,悪い面しかない場合はそれを忘れる,あるいは無視する,というのが,私の印象だ.だから,人を貶さないし,だめなことを延々と議論することがない.また自分の正しさを人に押しつけないというのも,印象的だ.

当日配布された文集の中に,先生についての優れた観察や,おもしろいエピソードが満載されていた.その中でも繁桝先生をよく表す言葉が書かれていた.「桃李もの言わざれど下自ずと蹊をなす」というものだ.これはなんとも,私の繁桝先生に対する印象をよく表す言葉だと思う.


etc ]

E-learningについての反省

2009/3/29

E-learningという分野について完璧に誤解していた,ようなので,ここに反省を込めて書く.

「E-learningが・・・だ」という言い方はやめた方がよい.これはE-learningが完全に一つの領域として確立している,あるいはまもなく確立するからだと思う.

正直言って,E-learningについてあまりいいイメージを持ったことがなかった.何となくコンセプト自体が陳腐だとか,いわゆる工学手法により教育を画一化するとか,そういうイメージを持っていた.それはそういうE-learningを多数見てきたからだ.

しかし27日に私が代表をしている科研費の研究会で,電通大の植野真臣さんの研究を聞いて,正直打ちのめされた.Vygotkyan,協調などの学習科学のコアコンセプトが,LMSとともに見事な形でまとめ上げられていた.植野さんは確率のプロ中のプロであり,特にBayes統計学の先端的利用と理論の拡張で国内外ですばらしい業績を持っている理論家であることは知っていた.しかし,こうした知見をさらに教育のために展開し,見事なE-laerningのシステム,SAMURAIを構築されている.これはもうかれこれ10年前からやっているそうなのだ.これを知らなずに彼の話を聞いた参加者は打ちのめされ,自分の不明を恥じた.知っている人に聞くと,植野さんがこれだけやったので,LMSはみんな手を出さなくなるくらいになっているとのこと.よくわかる.

確立した分野というのは,それ自体がいいとか,悪いとか言うことはほとんど無意味だ.たとえば,哲学はだめだとか,認知科学は未来があるとか,そういう言明は基本的に意味がない.このような言明は「悪い哲学研究を見たことがある」とか,「よい認知科学の研究に触れた」程度のことに過ぎない.

私たちのやることは,その分野自体がどう思われているのかではなく,そこでBestな仕事を目指すことだけなのだ.そういう,ある意味当たり前のことに気づいた次第.


etc, 教育 ]

侍ジャパン

2009/3/16

WBCの二次予選がいよいよ始まる.ほとんど興味はない.侍ジャパンという名前になっているそうだ.なんだ,それは,単に「日本」でよいじゃないかと思っていた.

しかし実はこれについて原監督のおもしろい話しがある.これまでの恒例では監督の名前をつけた「監督名ジャパン」というのが一般的だった.しかし,「原ジャパン」というのはなんともおこがましい,自分はそんな人物ではないと固辞し,それで周りの人が考えたのが「侍ジャパン」というらしい.

いつのころからか,日本代表のチーム(サッカー,野球,バレーボール)を監督名+ジャパンとするようになってしまった.これはどうも変な話だと思う.監督も含めて上に立つ人が組織にとって重要なのはもちろんだ.しかしチーム全体の功績や失策が一人の人間に集約されて語られるように感じられ,どうも違和感が強い.なんか底の浅いトップダウン,リーダーシップ待望論みたいなのが背後に見える.指導者さえよければなんとでもなる,というような,そういう感覚だ.


etc ]

今年度のいろいろ

2009/3/12

今年度(2008/4−2009/3)前半はあまりたいしたことをしなかった.そのおかげで,特に夏休みはオリンピックもしっかり見たし,水泳もほぼ毎日出来た.しかし後半はそのつけというか,けっこういろいろな仕事をしたように思う.

10月くらいまで慶應の渡辺先生の編集する英語の本に載せる,創発認知の原稿を書いていた.英語は日本語で書くのに比べて5−10倍程度の時間がかかる.そして書いたものを読み返すと,これまた5−10倍程度落ち込む.ふぅぅ.その後,ある本の解説を頼まれてその原稿を1,2週間で書いた.

それから,「対称性」に関わる認知科学の論文を書いていた.対称性というのは,簡単に説明しがたいけど,主に子供の言語獲得や,動物の認知,学習に関わる現象だ.このページに,この特集の企画者の説明がある.ここらへん何も知らないので,10,11月と一所懸命勉強しながら原稿を書いていた.途中から大変に楽しくなり,かなり満足のいく原稿が書けた.

これが終わると,昨年度まで青学の総合研究所のプロジェクトとして行っていた「大学生のレポートライティング力向上」の最終報告書を仕上げていた.これはまもなく本として出版される.また別の機会に記事を書くと思うけど,「学びあいが生み出す書く力」(丸善プラネット)というものだ.これのために2ヶ月ほど,レポートライティング漬けになって,原稿を書いた.

これが何とか目鼻がついてきたのが1月中旬,その後放心状態1,2週間くらいで,学期末試験採点,入試と続き,2月中旬あたりから,今度は科学研究費の報告書作成となる.この研究は,対称性でもないし,レポートライティングでもなく,サブリミナル刺激を用いた洞察問題解決研究というものだ.これがやっと今日完了.印刷屋に渡す.それにしても,我が研究室の卒業生の努力には頭が下がる.彼らの努力と知性がなければ,この報告書は書けなかった.

こういうふうに相互にあまり関係のない仕事をしていると,切り替えというのが大事になる.仕事Xは終わり,モードチェンジして,仕事Yという感じだ.だいぶこういうことも上手に出来るようになってきたと思う.

ただ弊害というのもある.切り替えをしすぎて,前の仕事をほとんど忘れてしまうというのがそれだ.自分が何をそこで書いたのかを忘れてしまうことが多くなった.そもそも書いたこと自身忘れていることもある.対称性の論文はまさにそれで,数日前に学会誌「認知科学」が来て,ぱらぱらめくっていたら,自分の名前があって一瞬だけ驚いた.


diary, etc ]

黒板はなぜ教室に入って右にある?

2009/3/9

ふと気づいたんだけど,学校というのは廊下のドアを開けて教室にはいると,黒板が右側にあることが多いと思うのだが,どうだろうか.薄れる記憶をたどってみると,自分が通った学校は小,中,高とすべて廊下から見て右側に黒板があった.ちなみに学校は特定の一地域というのではなく,札幌,福島,静岡,富山といろいろな地方のものです.

なんで廊下から見て左側に黒板のある教室はない(あるいは極端に少ない)のだろうか?


etc ]

久しぶりのLaTeX

2009/2/26

数本の論文をまとめた100ページ超の報告書を書かねばならなくて,久しぶりにlatexを使っている.これとemacsのペだと大変に気持ちよく書ける.ちなみに一月ほど前は諸般の事情からマイクロソフトという会社のワープロソフトを使わざるをえなかったのだが,これはかなりストレスだった.

今回はMacintoshの上でTeXShopという補助的なソフトを用いてlatexのコンパイルを行っている.いくつかの発見をしたので書いておく.

jpeg画像をincludegraphicsで取り込もうとすると,サイズを決めるbounding boxというのがないのでだめと言われる.本センター助手の鈴木聡さんからebbというコマンドの存在を教えてもらう.これは

ebb xxx.jpg

とやると,xxx.bbというのを吐き出す.この中身は,

%%BoundingBox: 0 0 426 266

というような記述を含む数行のテキストファイルだ.これを画像ファイルと同じところにおいてlatexでコンパイルすると,しっかり通る,という話しだ.

しかしながらやっても通らない.そこで調べてみると,graphicxパッケージのオプションが違っていることがわかった.

¥usepackage[dvips]{graphicx}

となっていたのを

¥usepackage[dvipdfm]{graphicx}

としないとだめなようだ(ここの情報による).

次の発見はlabel-refの問題.これはTeXShopでのみ起こるとかいうのだが,1つのセクションに複数のlabelをつけると,refで引いたときにみんな同じになってしまう(そのセクションの番号と一緒!).これは正直驚きだった.こういう手間がいらないのでtexを使っているのに,こんなことが生じるとはとあきれていた.これもネットで検索すると驚きの解決法が載っていた.図表のcaptionの中にlabelを書くというものだ.嘘でしょ,と思いながらもやってみると,きれいに番号が振られる.うーん,どうなっているんだろうか.またどうやってこんなことを発見できるのだろうか.ちなみに情報源はここです

500件超の文献リストファイルがあるので,BIBCompanionというものを使ってみた.とても感じよく使えていたのだが,ある日からこれが起動しなくなった.というか,自分のbibファイルを読み込もうとすると,異常終了してしまう.これは理由がわからず.


latex ]

Muscle Musical “Treasure”を観て

2009/2/25

今日,マッスル・ミュージカルというのを始めて見に行った.何となくは知っていて,おもしろそうだなとは思っていたけど,今まで行ったことはなかった.知り合いの人のご好意で今日は招待客オンリーという公演に行ってきました.

いやぁ,すごいですよ.観たことない,といっても他のタイプのものも観たことないから,あまり意味がないけど,

  • 身体技術:いったいどうやったらあんなふうに体が動くわけ,
  • スピード:曲芸的なものも多く一瞬サーカスかと思うがこのスピードはサーカスにはないと思う,
  • 舞台装置:あまり他を知らないけど,かなり印象的だと思う,
  • ノリ:会場とすごい一体感があるんだよね(自分も手が痛くなるほど手拍手していた),

などなどだ.

しかし何にもまして,もっともグッと来るのはやはり出演者一人一人が持つ強烈な情熱だ.笑顔の中に強烈な集中力と情熱が感じられる.ああいう笑顔は日常ではまず見たことがない.すごい鍛錬から作り上げられた自信と,舞台人としての観客に対する思いとが一緒になった,すばらしい表情を出演者全員がしていた.これは正直打たれます.

ぜひ見に行くことを勧めます.場所は公園通りをずっと上がっていったところ.


etc ]

秋本治さん

2009/2/23

TBSの情熱大陸という番組で,こち亀の作者の秋本治さんが出ていた.こち亀はものすごいマニアというわけではないが,中学時代とかは連載で読んでいたような気がするし,数年前までは娘と共同で主に100巻以降の単行本を数十冊はそろえていた.

単行本(といってもなんていうの特別に出るようなやつ)の最後に知り合いの人たちが秋本さんについてのエピソードなどを紹介するのがある部分があるのだが,これを読むと,「秋本先生はまじめ,やさしい」と誰でも語っている.両津勘吉というキャラクタの生みの親が,まじめで,優しいというのはなかなか考えがたい.

しかしテレビを見て,本当にその通りの人で驚いた.まじめさというのは,まさにサラリーマン的にそうだ.朝の8時55分にスタジオに入って,アシスタントのみんなに丁寧に挨拶をし,9時から全員で仕事に取りかかる.12時になると一斉に「はい昼食」という感じで休みに入り,夜の7時まで仕事をして終わる.優しさというのは,アシスタントたちへの話しかけ方からわかる.威圧的な感じが全くしない.おそらくみんな年下だろうけど,とても丁寧な言い方をしている.あと,おしゃれだね.

とにかく,両津勘吉のイメージは秋本さんにはかけらもない.正直驚いた.

でも,番組自体はもう少しつっこんでほしかったと思う.両津のあのものすごいマニアックな習性(特にフィギュア,兵器を含む軍事一般,賭け事,乗り物(特に電車)),出てくる女性のセクシーさ,そこらあたりはどういう精神から生み出されているのかを是非聞いてほしかったなぁ.


etc ]

内省はゴルファーを下手にする

2009/2/20

わけあってネットで言語隠蔽効果の論文を探していたら,おもしろい記事を見つけた.これはエキスパートレベルのゴルファーに5分程度自分のショットについての述べてもらうと,その後成績ががた落ちになるという話しだ.これはエキスパートのレベルで顕著であり,ノービスでは別に悪くなるわけでもないという(むろん良くなるわけでもない).

この研究を行ったのは,スコットランドにあるSt Andrews UniversityのMichael Anderson教授とのこと.記事の中では,この影響を言語隠蔽効果によって説明していた.さて,諏訪さんはなんていうのかな.

ちなみにSt Andrews と言えば,全英オープンが開かれるゴルフ場がある場所ですよね.


洞察 ]

自分酒

2009/2/14

東急百貨店東横店(いわゆる渋谷駅)の地下の酒屋は品揃えがよいと思う。俺が好きな系統の日本酒が数多く置いてある。よって近辺を夕方に通るときにはここによって1本買っていくことになっている。前の記事で書いたように、今日はタワーレコードに行ったので、この酒屋に行った。

さて、今日は込みかたが半端ではない。レジのかなり後方に「ここが最後尾」というプラカードを持った人までいる。歳末に来たときはこんな感じだったのだけど、なんで?ということで、店の人間に聞いたところ「バレンタインだから」という。はあ、なるほどチョコじゃなくて、酒をあげるわけね。確かにレジの前に並んでいる10人以上の中で男はオレともう一人しかない。これは確かにふつうの日の酒屋の光景ではない。

お酒をあげるというのは、本当に好きな人になんだろうなと思った。そう思ってみると、なんとなく幸せそうな顔をした女性が多いような気がする。酒は高いから義理というわけにはいかんよね。店もなんとか入とか言う数千円のものを売って、「残り何本」とか言っていた。お幸せに。

こういう状況なので惨めな気持ちがしてきた。しかし女性も自分チョコ(っていうんだっっけ)といって、自分が食べるチョコをバレンタインに買うそうな。ということで、オレも自分酒買いました。ちなみに【開運無濾過純米】、【鶴齢】を買った。これらはほんとうまいよ。


Tower Recordでクラシックを買う

2009/2/14

1週間前くらいに採点の合間にボーとしていたら、突然頭の中で音楽がなり始めた.とても好きだった曲なのだが、なぜか思い出せず、しばらく考えていたら「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だった.それ以来、どうしても聞きたくなっていた.とうことで本日、試験監督終了後に渋谷のタワーレコードに行ってきた.あるわ、あるわ、ベーム、クライバー、バレンボイム、サバリッシュ、フルトベングラー・・・などなど.安いのは3000円台前半、高いのは7000円台.ニルソンが好きなのだが、ベームのは高すぎるということで、サバリッシュにした。

それから、妻がのだめのファンでのだめのCDをずっと買っている。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲がこのCDの3に入っているのだが、なぜか第1楽章しか入っていない。残りも聞きたいという話しを聞いていたので、チャイコフスキーコーナーに行く。これは「あるわ、あるわ」ではすまないくらいある。数えていないけど優に30以上のアルバムが並ぶ。最近テレビで聞いて、とてもいい印象を持った庄司さやかさんのもあった。またズッカーマン(確かのだめのCDはこれ)とか、パールマンとか、いわゆるというのもあった。まよっていろいろと手に取っていると、なんとなんとハイフェッツのがある。信じられない。もう聞けないと思っていた。

実は小学校6年のときにクラッシック音楽を聴くのが好きになった。最初は母親が若い頃買っていたレコードを聴いていた。当然、いわゆる名曲から入ったわけで、バイオリン協奏曲といえばベートーベンとか、メンデルスゾーンとか、そしてチャイコフスキーとなる。そのとき聞いたのがハイフェッツ。むろん他の演奏家のを聞くこともなかったので、これだけおそらく数百回は聞いたと思う。

どこかのブログに書いたような気もするが、こういう初体験は抜きがたい思いを残す。それ以来、いろいろな人のを聞いたけど、やはりハイフェッツが原型にあるので、どれを聞いても違和感が強い。とにかくスピードが全然違う。加えてめちゃめちゃに正確で丁寧。またリズミックというのか、跳ねるような感じで音が出てくる。独特なのかもしれないけど、やはりこれじゃないとだめ。なんか、何かに似ている。

というわけで今晩は幸せだ。


diary, etc ]

答案の採点からわかったこと

2009/2/12

答案の採点を終えた.提出もした.これで今期はすべて完了.

さてこれをやっていると自分の講義のまずい点も見えてくる.今回は講義タイトルは正確ではないが、認知科学入門みたいな講義の採点をやっていてまずい点に気がついた。

講義の前半あたりでは表象の生成について、知覚、記憶分野で、人間の情報処理がどれだけ偏っているか、不完全か、そしてそれを補うために何をしているかということを、

  • change blindness、選択的注意、
  • 構成的記憶、目撃者証言、協同想起、
  • 類推での仮説的ベースの生成、

をを題材として話している.

答案を見ていると個々のことがらについての理解はかなりのレベルに達していると思うが、これを生成という観点からまとめあげることがうまくできていない人が多いことに気づいた.

次回からは、

  • 情報の取得時におけるゆがみ、生成、
  • 情報の保持時におけるゆがみ、生成、
  • 情報の利用時におけるゆがみ、生成、

という形でしっかりと伝える必要があることを認識した次第だ.

こういうことを繰り返しながら、かれこれこの講義を5年くらいやっている.自分で言うのもなんだが、恐ろしくよくなってきていると思う.逆を言えば、5年前の学生たちにはごめんなさいと言わねばならない.


教育 ]

ビデオカメラの値段

2009/2/12

緊急な用事で、ビデオカメラを久しぶりに買った.結局買ったのはビクターのgzhd320という機種だ。驚くこといろいろ.

  • 安い.10万円くらいだ.以前、自分が買っていたのはなんだかんだで25万くらいしたのにくらべると、40%程度となっており、正直驚き.
  • 軽い.正直、こんなに軽いとかえってブレたりしないだろうかと不安になるくらいに軽い.320gとか.グラム単価で言うともしかして昔から一定なのかもしれない.
  • きれい.フルハイビジョンということで、ものすごくきれいだ.顔のアップなどをすると、ちょっとヤバいです.毛穴は見えないけど、普通に鏡で見ているときには気づかないシミとかが見えてしまう.

こういうのを見ると、技術革新というのは本当に恐ろしいくらいのレベルだと思う.技術者というのはやはり尊敬だよね.


etc ]

答案の採点

2009/2/11

答案の採点も大詰めを迎えた.今まで、レポート、試験答案を含めて、約300くらいを終えた。あと50くらい。辛いけど、一所懸命書いてくれた答案なので、こちらもがんばるしかない.

毎年思うのだが、ある程度の分量を書いてもらう論述形式の試験を行うと、書いた量と成績はかなり相関が高い.取り上げた問題自体についての論述だけだとほどほどの点になる.これにその問題の背景や展開、インプリケーションなどを書くと当然長くなる.で、そうしたことまで書いた答案は当然点数が良くなる.そういう意味で分量と成績の相関は当たり前ということになるのかもしれない.

これが終わると入試の試験監督が待っている.


etc, 教育 ]

ニューオリンズ・トライアルを見て裁判員制度を考える

2009/2/10

日本でも裁判員制度がいよいよ始まる.詳しいことはよく知らないが,全体としてみれば裁判官が一人で決定を下すよりもよい決定が出来ると思う.日本の刑事裁判では一度起訴されたら無罪になる確率は1%以下である.これはむろん警察や検察がしっかりとした証拠を集めて起訴していることを示すのだろうが,検察、警察,裁判所が一体化している危険性をも示唆する.一般の人が裁判に加わることにより,こうした危険性を減ずる可能性が拡大すると思う.

と考えてきたのだが,昨日「ニューオーリンズ・トライアル」という映画を見て,恐ろしい可能性に気づかされた.この映画は危険性が極めて高い銃により殺害された人の家族が、その銃の製造メーカを訴えることから始まる.銃メーカーはこれが有罪とされてはたまらない.そこで特別な会社と契約し,自分たちに有利な判断をしてくれる陪審員を集めるとともに、不利な判断をしそうな陪審員を排除,あるいは恫喝させる.こういう恐ろしい話だ.映画自体はハッピーエンドなんだけどね.

アメリカに本当にこういう陪審員ビジネスがあるのかどうかは知らない.所詮映画ということになるのかもしれない.ただ、O. J. シンプソンの事件などでも知られているように,誰を陪審員にするかで壮絶な戦いが、検察と弁護側で行われているのは事実だ.

日本の司法制度はよく知らないが,こうしたことが起こる危険性はどれほど考慮に入れられているのだろうか.おかしな陪審員ビジネスがはびこる可能性はないのだろうか.

こうやって考えると他にもいろいろと気になることがある.たとえば、裁判員として参加した人が有罪とされた人に逆恨みされ、危害を加えられるなどという可能性はないのだろうか.特に、暴力団など組織的な犯罪を行う集団の裁判ではかなり危ないことが生じるかもしれない.


Wordでの半角と全角の変換

2009/2/9

MS-Wordはよほど短いもの以外は使わないようにしているが、これで書かれた文書の数字とアルファベットのみを半角に変換しなければならなくなった.メニューの【書式】ー>【文字種の変換】をやると、全角を半角にするというものがあるので喜んでやったところ、カタカナもすべて半角になってしまった.これは困る.

 

オプションのようなものは存在せず、わからないので結局ネットで検索した.で簡単な方法をここで発見した.これを見ればわかるのだが、要するに、

  1. 検索で【ワイルドカードを使う】にチェックを入れる
  2. [0-9A-z]とする(むろん文字は全角).
  3. 【検索結果をすべてハイライト表示する】にチェックを入れる
  4. 【すべて検索】をクリックする
  5. その後に【書式】ー>【文字種の変換】で【半角に変換】を選ぶ

これで終了.なるほどね.


diary, etc ]

今年の卒論

2009/2/8

今年もついに卒論の最終版がでてきた.

  1. 擬音語、擬態語の処理様式;擬音語は音声処理で、擬態語は視覚処理か?
  2. バナー広告の好感度と再認に与える接触回数の効果:ナチュラルな環境下でバナーを提示した場合、接触の回数により好感度はどのように変化するか.またそれはそもそもの高感度とどのように関係するか。
  3. 批判的思考(特に前後論法克服)のための介入:批判的思考を事例、原則、原理などの各レベルで教えてみると、その後の成績は向上するか。
  4. 大学生のレポート観:大学生はレポートに対してどんな知識を持っているのだろうか.それは学年があがるにつれて向上するものなのだろうか.また明示的な教育を施す故で変化するのだろうか.
  5. 空間課題の解決におけるジェスチャーと視点:空間的な課題を行うときに視点を明示的に提示することにより、パフォーマンスにどのような違いがあるのか、また解決中のジェスチャーにどれほどの違いがでるのか.

なかなか面白い展開があった.いくつかはまとめてみようと思っている.

4の研究だけちょっと述べると、書き方の作法、レポートの構造、取り上げる問題、データの扱い、この4つの分野について20−30程度の質問を行い、得点化した.その結果、レポートの構造についての知識の欠落が顕著であること、普通に1年間を送ってもこれは改善されないこと、レポートのための特別な受容を半期受ければ大幅に向上すること、専攻によって違いがでてくること(心理学はデータの部分の成績が向上した)、などがわかった.これは今後の研究でもいろいろと使えるものになると思う.


はじめまして

2009/2/7

青山学院大学ヒューマンイノベーション研究センターの鈴木宏昭と申します.センターのブログが開設されたので、これから研究や教育についてはこちらをメインにして使っていこうと思います.

研究領域は認知科学で、特に人間の思考や学習の問題を取り上げてきました.ここ10年くらいは、創発システムとして人間を捉えることを行ってきました.創発にはいろいろな考え方がありますが,私は非常に緩く「あらかじめ用意されていないものが生み出されること」と考えています.なぜそうしたことが起こるかを解く鍵は,インタラクションにあると考えています.ここでインタラクションとは,

 

  • 取り組んでいる問題に関する知識とそれ以外の分野の知識ー>アナロジー
  • 自分が頭の中で考えていることと環境の中の情報ー>外的資源,アフォーダンス
  • 意識的な処理と無意識的な処理ー>潜在と顕在
  • 今の自分と過去の自分ー>リフレクション

 

などを指します.

現在所属している、青山学院大学大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース,および同文学部教育学科の担当授業では、上記に関わる問題を取り上げ,掘り下げる努力をしています.

なおだいぶ前からブログをやっており,それらはここにありますが、近々廃止されるかもしれません.これらをこちらに移そうかと考えています.また日々の雑念を書いているブログがvox上にあります.

どうぞよろしく.


etc ]

千葉大でライティングについて話す

2008/12/1

千葉大学の言語教育センターというところの先生からの依頼で,我々のレポートライティングプロジェクトの成果について話してきた.内容は,以下の通り.

研究の動機:レポートライティング力を高め,民主主義社会を担う人材の育成する
学生の現状:レポートと作文の区別がつかない.レポートに関する誤概念を持っている.
レポート評価の基準:Toulminの図式が有効である.
Peer Review:学生同士でレビューをしあうことにより,レポートの質が向上する.
問題発見のための批判的読み:文献に感情的なタグをつけたマーキングを行うことで批判的読みが促進され,その文献に対するまとまった意見が出やすくなる.
ジグソー学習:ジグソー法を用いる中で起こる役割交替が議論の質を高め,自分が取り上げるレポートのトピックの質が向上する.

1時間半くらい話した後,いろいろディスカッションをしていたらあっという間に3時間経過.

千葉大学では、言語教育センターが「コミュニケーションリテラシー科目」というのを用意し,
文章表現演習
口頭表現演習
対人コミュニケーション
という3つの科目を1年生向けに開講しているそうだ.ここの科目を見ると,論理だけでなく、説得,プラグマティクスなどいろいろと面白い要素が含まれていることがわかる.


受けの悪い講義で協調を使ってみる

2008/11/22

教職関連の授業である授業を行っている.パソコンのある部屋で行っているのだが,驚くほど集中しない.おそらく聴いているのは15人くらいの中の数人程度ではないだろうか.こういう学生が教職に就く可能性があるというのは驚くべきことだが,これをいちいち注意してまわるというわけにも行かない.

さて今回は趣向を変えて協調を用いた授業に構成し直してみた.テーマは学力低下.
学力低下について知っていること,その原因とされていること,それらについての自らの考えをまとめる(20分).
各々が書いたことを持ち寄りグループでディスカッションする(15分).
ディスカッションの内容を代表に報告させ,若干の解説を行う(10分).
PISA調査問題を解かせる(30分).
問題の特徴についてのディスカッション(10分).
この問題を解くための学力を育成する教育方法についてまとめてくる(宿題).
PISA調査の目的,解答の評価についての解説(30分)
グループディスカッション(30分)
報告と総括(30分)
というのが2回分のメニューだ.

1−5を授業時間中に行った段階であるが,非常にのりがよい.よく考えた答えも出てくる.今までとは全く違う学生の姿が現れてきた.うーーん.


教育 ]

名古屋大学講義

2008/10/28

名古屋大学情報学研究科の三輪さんに呼ばれて,大学院で午後講義を行ってきた.10年くらい前に集中講義を行ったことがあり,講義は二度目だ.今回は名城線の名古屋大学前という駅があり,大変に便利だった.

いつもの創発認知の話の中の,
生成性(change blindness, false memory, analogy)
冗長性(確率推論,条件文推論,発達)
を取り上げて話した.話し方があまりよくなかったのか,自分も学生もあまりテンションが上がらなかった(ように思う・・・).

その後に八事の居酒屋で,同研究科の斉藤さん,川口さん,三輪さん,川合さん,および院生の方たちと一緒に飲んだ.話しはいろいろと盛り上がり(というか一人で酔っぱらって盛り上がった可能性もあり),伝統的認知科学の意義,潜在・無意識研究,などなど,楽しい会話をすることが出来た.新しいタイプの研究の方法論を開発する必要があることを強く自覚する.いつも思っていることなのだが,平均に巻き込まれることなく,個体の揺らぎと変化をしっかりと科学的に捉えるということだ.

帰りの電車があるので飲み会は8時くらいにお開き.その後まだ飲み足りずカップ酒2つ買い込んで新幹線グリーン車に乗車.音楽を聴きながらゆったりと考え,その後眠り,無事品川着.


協調でうまくいくと言う時のための説得例

2008/10/16

教育,学習の分野では,協調学習というのがキーワードだ.つまり教え込むのではなく,学習者同士がディスカッションをしたりしながら学ばせようという話だ.

人と人のインタラクションの研究というのは,正直あまり興味が持てない.くだらないからとか,そういうのではなく,好きじゃないという嗜好の問題だ.

ただ大学教育に関係する仕事をしているので,協調学習を無視するわけにも行かず,何年も前からとある授業でこれを頻繁に取り入れている.その中の1つに,あるレポートを書かせ,それをグループの全員に渡し,相互にコメントしあうという活動がある.そしてそのコメントを元にもう1度レポートを書き直す.これで成績が伸びるだろうということが問題になる.しかしここで疑問が生じる.物事をよくわからないもの同士が,コメントしたり,ディスカッションをしたりしても,逆に有害なケースもあるのではないかということだ.

実際やってみると,2度目は1度目よりもよいレポートになる.学生同士のコメントを詳しく分析すると,なかなかよいことが書いてある.だいたい全体のコメントの3/4くらいはかなり的確なコメントになっている.本当にひどいコメントというのはほとんどない.

こういうのは何となく不思議な気になるが,考えてみればけっこう当たり前ではないかと思った.学問を例にとる.どういう分野の研究(実証学問ね)でも100年前と現在を比べれば,遙かに進歩しているはずだ.科学をやっているものならば,今の知識の状態のまま,100年前にスリップできれば,と思ったことが1度はあるはずだ.こうしてみると,100年前の学者たちは,タイムスリップした我々から見れば愚かというか,レベルが低いことになる.ところが,よく考えてみると,そうした人たちが切磋琢磨をした結果,100年後の私たちがいるわけである.つまりレベルの劣る人間同士のインタラクションにより,重要な新しいことが生み出されてきているということになるわけだ.

こう考えてみれば協調学習により成績が伸びるというのは,ある意味当たり前になるのではないかと思った次第.


精神分析を見直す

2008/5/3

精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.

確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。

こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.

その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.

もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.

よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.

ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.


学習=状況敏感性+調整

2008/4/30

先日大学院のゼミを行った.私の担当する社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース以外からも、文学研究科、経済学研究科、および他大学からの参加者などもいて、なかなかにぎやかな授業となった.さてここで三宅君@東大情報学環から面白い質問がきた.その前後の経緯から話すと、創発論者なのでとにかくきっちりと教え込むというようなことは嫌いだし、間違っていると思う、という発言を私がしたことから始まる.三宅君は教え込むということが本当に意味がないことなのかをかなりいい感じで聞いてきてくれた.

まずここで考えなければならないのは、学習がどの段階の話をやっているかということだ.本当の初期、あるいは初心者レベルの話であるのならば、ある程度の教え込みというのも効果があるのかもしれない.しかし、学習が進んだ段階で獲得すべき知識は、教えるべき先生もよくわからない、あるいはうまく表現できない、仮にしても有効ではない可能性が高いのではないだろうか.
こういう思いを強く持っていた私が言ったことは、
ある程度まで学習が進んだレベルでは、

状況(の変化)に対する敏感性、
そこからの調整
に関するスキルではないか、というものであった。つまり言葉で伝えられるようなレベル、ルール化して伝達可能な知識というのはおよそ初期レベルの話であり、そこからは外界の絶えざる変化、身体がもたらす絶えざる擾乱、こうしたものをうまく検知し、そこからの調整のための能力ではないかということだ.同じ場面は二度と現れない。いつでも少しずつ異なる.環境自体もそうだし、我々自身も絶えず進歩なり、劣化なりしているわけだ.こうした状況下で安定したパフォーマンスを残すために必要なことをルール化することはできないのではないか.事前にすべての状況を予測できないということもあるだろうし、身体に関わることは極めて個別性が高く、万人(とまではいかなくても多くの人)に共通する事柄などはほとんどないからというのがその理由だ.
こうしたことを持ち出すのは、自分が最近大西君、竹葉さんとやった研究がベースになっている.この研究では単純作業を2000回以上もやらせたときのパフォーマンスの向上、スランプの脱出などがテーマになっている.詳しいことはこの論文を読んでもらうしかないのだが、長く美しい指を持つこの被験者のスランプの原因はまさにその指にあったし、そこからの脱出はその長く美しい指に対する処置であったからだ.これはなかなか一般化できないスランプ克服法だ.加えて、長い指ならば必ず彼女が陥ったタイプのスランプに遭遇するかと言えばそうとも言えない.それは彼女なりの作業方法の中でのみ生じる問題であり、他の作業方法の中では生じない可能性が高いからだ.

さて、状況に対する敏感性、および調整というのは、聞く人が聞けば、そんなのGibson、佐々木正人らの生態心理学者がずっと言い続けてきたことだ、という反応がくると思う.その通りだ.本人もゼミの場でそれを言いながら、まさにオレはGibsonianだ、と感じた.また学習のレベルとそこでの獲得すべき知識に関して、すなわち初心者レベルはルールでもOKだけど、その先の知識は全くルール化できないというのは、認知科学批判で有名なヒューバート・ドレイファスがチェスを題材して30年ほど前に語ったことと同じである.個人的な話で言えば、こういうことがすらすら出てくるようになった自分がうれしい.以前に読んだこと、そしてそのときにはまともに頭に入らずに、どちらかと言えば反感を持っていたことに対して、今は自らの研究を通して深いレベルで理解できるようになったというのがうれしいというわけだ.

さてゼミでの三宅君はさらに、状況敏感性や調整能力自体を教えることはできないのか、またメタ化、抽象化することにより、それら熟達者の知恵を伝えることはできないのか、と突っ込んできた.すばらしい突っ込みだと思う.

さてこれに関するオレの答えは、「わからない」だ。そういう可能性がゼロなのか、多少はあるのか、今の技術ではだめなのか、ここらへんは実証的な問題になると思う.ただ簡単でないのだけは確かだ.このやり取りの中で思い出したのは、佐伯胖先生と坂元昴先生が大昔に行った対談だ.そこでは教育工学者の坂元先生がとにかく教える方法というのを考えだしたい、教えることができないなどという消極的な態度ではまずいということを主張し、もし認知研究により認知、学習のプロセスが詳細なレベルでわかるのならば、それを教えることは可能ではないかという問いを佐伯先生に投げかけた.佐伯先生の答えはこれまた面白くて、「誰かを風邪にさせようとして、熱を出す薬を飲ませ、咳が出る薬ものませ、くしゃみや鼻水を誘発する薬を飲ませたとする.そして事実そのようになったとする.しかしそれは風邪をひくということとは異なるはずだ」というものだった。つまり外見的な、行動レベルの事柄でどれほどそれらしく振る舞わせたとしても、人間の知識というのは理解や納得、その人なりの必然性というものから生み出されるものなのだということ.この議論は実はサールの中国語の部屋の論文よりも前に行われているはずだが、まさにサールが主張したかったポイントが教育と学習という文脈でなされているところが面白い.ゼミの中ではこんな話をしながら楽しく議論が進んだ.

これとうっすらと関連するのが、最近朝日新聞のBeに載った福島大学陸上部の監督の話だ.この大学はオリンピック候補が何人も出る、陸上のCOEみたいなところだ.で、この監督もはじめは根性、気合いだけでやっていたらしいが、アメリカでカール・ルイスのコーチをしていた人に師事し、何をすべきかを学んだらしい.しかしながらこれを部員たちになかなか伝えることができないまま何年も何年も苦労していたとか.ところがある年にすばらしい選手に出会い、彼女とのやり取りの中で、ついに伝えたいことを伝えられるようになったという話だ.これは野中郁次郎のSECIモデルのようにも思える.暗黙知としてこの監督が持っていた知識が優秀な選手との出会いにより共同化され、それがきっかけとなって一般化された表出が起きている.ちなみに「ポン、ピュン、ラン」という言葉(オノマトペ)に集約されるのだそうだ(このオノマトペを形式化と呼ぶのはかなり抵抗があるので、一般化された表出としておいた)。ただここでも大事なのは「ポン、ピュン、ラン」というのは、素人や初心者にはやはりうまく通じないのではないかということだ.


注意と知覚研究会at 金沢

2008/3/13

3月9日から11日まで,注意と知覚研究会が金沢の駅前のホテルで開催されたので参加してきた.この研究会は日本心理学会の分科会という位置づけになっており,東大の横澤さんが主査をしている.基本的には高次知覚分野の若手の発表が中心となる.

知り合いはこの分野にはほとんどいないのだが,斎木君,喜多君,高橋君などに会えた.皆さん一様に「なんでいるの?」という反応だっだけど.なぜ行ったかといえば,理由は簡単で,問題解決の研究を知覚や運動という観点からとらえ直してみたいという思いがあるからだ.問題解決者は様々な行為を行い,そこから得られる情報をまた知覚して,評価して,また行為を行う.いわゆるNeisserの三角形は問題解決においても十分に成り立つわけだ.しかしこうした観点,ダイナミックなサイクル,ループとして問題解決をとらえる試みはまだ十分とはいえない.

こうしたわけで知覚研究に接近せねばならないのだが,そんな研究はほとんどやったことがないのでよくわからない.またこの分野は厳密科学の色彩が非常に強く,オレのやってきたような話とはずいぶんと異なる.またこの分野の発展は,計測機器の進歩,脳科学との共同により,急激である.よって,突然その種の論文を読んでもよくわからないことも多い.

こういう場合はとにかく口頭の発表を聞くというのが一番簡単だ.わからないところは聞けばいいわけだし,研究のモチベーションをわかりやすく語ってくれる.というわけで行きました.発表20分質疑10分としっかりと話を聞けること,またレベルの高い発表があったことでかなり満足度が高い.また金沢に行く前にかなりハードな飲み方をしたこともあり,ホテルと駅の間(数分)を往復しただけで,金沢の町は全く見ることがなかった.夜もどこにも出かけず12時には寝ていたのだが,高橋君には「昨日は片町ですか」などという当然の質問があった.

気になったことを以下列挙.

  • 注意の瞬き(attentional blink): はじめの刺激から300msに刺激を提示すると後の刺激が認知されにくくなる
  • 注意の捕捉:あることに注意が向けられるメカニズム(トップダウンvs.ボトムアップ)
  • 注意資源の半球間独立と相互作用:注意資源は左右半球である程度まで独立に存在する
  • 注意対象と同じ知覚属性を持つ対象は認知されやすい(inattentional blindnessでも検知されやすくなる).
  • 注意は注意を向けた対象への処理を増進するのではなく,向けていない対象への処理を抑制する.
  • 興味の強さと眼球運動:関心の強いものについては最初の数秒の間に好きなもの(結果として選択するもの)をより長く見る傾向がある.そこから逆を見て最後は選んだものの方をよく見る.
  • 反転めがね:運動を開始するまでの時間と,運動自体の時間が乖離する.
  • Peripersonal space:手の届く範囲では身体の下方の刺激に対する反応が,またそれ以上遠くの場合には上方の刺激に対する反応が迅速になされる.
  • ideomotor:目的に応じて運動が開始される.手の動きにより曖昧な運動の方向知覚が影響されるか.手の動きが運動の方向とマッチしないと仮現運動が知覚されにくくなる.
  • 反応履歴による時間作成課題のパフォーマンスの変化:競合した反応の場合には長い時間が作成された.
  • 感情ストループ課題
  • 刺激画像(顔)視線の方向に物体が存在すると知覚が促進される.矢印ではその効果は減少する.
  • 無意識の同調:速い人の動きを見せると反応が早くなる.人でない場合はその効果はない.
  • 商品の写真はなぜ真は斜め前からとるか:斜め前からの写真はずらしたときにそのずれを検知しにくい(つまり多くの側面からの情報を提供する)
  • 視覚探索で「ない」と判断するときの時間はベイズに完全に従った形になる(事前確率と尤度を考慮する)
  • RSVP(200ms程度)では内容語のみに注意を払い,そこから文脈の形成が起こるようだ(助詞,助動詞を&に置き換えてもほとんど気づかない).
  • カテゴリカル知覚:カテゴリー境界をまたぐ事例はそうでないものの弁別より容易.言語化を抑制するとこの効果が減少する.

などなど.


etc ]

コンセンサスという雑誌

2008/3/5

NECの広報誌の「コンセンサス」という冊子に短いエッセー「認知科学者の視点」を書いていた.1000字程度という今までに書いたことのない種類,分量での原稿だったので,いろいろと考えるところがあった.読者が息抜きに読むものなので,

  • あまり堅くなく,
  • とにかくコンパクトに,
  • わかりやすく,
  • 何となく得したという気分にさせる,

ということが至上命題だ.はじめの頃は分量の2倍程度書いてしまい,どうやって削るのかを苦労していたのだが,最後の方は「まだ書けるのでもう少し付け加えてくれ」という,という要請が編集部から来るようになった.まあ進歩したということだろうか.
2ヶ月に1回,12回分書いたのだが,今回で無事終了ということになった.これはWisdomというサイト(?)にもあるのでInternet上で見られます.ここにあるので,よろしかったらどうぞ.


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PISA調査とOECD事務局長のコメント

2008/3/3

3月2日の朝日新聞の「学ぶ」という記事に,都留文科大学の福田教授の話が載っていてなるほどと思った.この中でとても強烈だったのはOECDの事務総長が日本の教育に対して「多くの国の労働市場からすでに消えつつある種類の仕事に適した人材育成」をしているというコメントをしたという.これほど強烈な批判はないだろうねぇ.

別に中国と競争しようというわけではないのだが,義務教育レベルの読み書き算ができる程度の能力であれば,中国には日本人の10−100分の1の給料で働く人たちがおおよそ8,9億人もいる.まともな企業であれば単純な労働の生産拠点は中国に移すに決まっている.こうなれば(もうなっているけど),日本国内では大量の失業者が出ることは必至だ.要するに今の教育やっていったら,日本人を食わせていくことができないと言うことだ.

脱線するけど,日本型の詰め込みのような教育は韓国ではもっとすごいらしい.オレの研究室に韓国の延世大学という超一流の大学からの留学生がなぜか来ていた.彼女(本当に優秀でした)の話によると,何しろ出身大学でその後がほぼ決まる社会らしく,80%以上の大学進学率だという(おそらく世界一だよね).韓国の高校は11時半まで(むろん夜のですよ),学校で勉強させるらしい.で大学生になった人たちに共通する悪夢というのがあるという.それは「自分はまだ高校生だ」という夢だそうだ.ものすごいいやな気分になり,うなされて,起きて「ああ,もう自分は大学生なんだ」と安心するらしい.

韓国はさておき,日本も何とかしないといけないわけだが,暗いネタだけではない.有名国立,私立あたりとか,一部の公立(京都など)では新しい時代に向けた学力の育成を始めている.やっていることは,つまり大学の卒業研究のようなことをだ.筑駒を卒業した1年生と話したら仰天するような研究を高校の卒論でやっている.卒業研究の早慶戦という記事でも結構すごい話が出ていた.またこうした教育の結果として大学への進学実績もあがるらしい(京都の話).


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ブリコラージュ

2008/2/28

少々古いのかもしれないけど、Bricolageというのはなかなかぐっとくる考え方だと思う。あり合わせのもので、それなりに創造的(というか新しい)なものを作り出してしまう、そうしたことを言う。オレが知っているのでいうと、Levi-Straussが野生の思考の中で取り上げたものだ。未開人たちが限られたりソースの中で、問題状況に対して適切なものを作り出してしまうことをいろいろと報告していた。

さて人間の認知というものを考えたときにも、そうしたことがいえる。特に進化との絡み、脳の構造との絡みで知性を考えるときにはBricolageというのは魅力的な考え方だ。進化は先読みしないので「俺らの種族(人間)はそのうち言語を使うようになるだろうから、関連する部位を進化させておこう」などということはできない。言語っぽいものが、あるいは言語の原初形式のようなものが身近でみられたときに、なんとかあり合わせの脳みそで言語らしきものを作り出したというのが実態のはずだ。これはまさにBricolageといえるでしょう。

Bricolageが生み出すもう一つの示唆は、昔のものはなくならないよ、というものだ。進化の中にはむろん退化というものあるわけで、以前使っていたものが必要なくなると、どんどん小さくなり、最後には消えてしまうようなこともある。しかし進化は不要になったものを遺伝子から消し去るわけではないらしい.3月2日の朝日の朝刊に載っていたけど,海に住むほ乳類は後ろ足,あるいはその進化の結果の腹びれが300万年前あたりで退化して全くなくなってしまったらしい.ところが,最近見つかったバンドウイルカにはこの腹びれがあるとか.ということは,遺伝子のレベルでは腹びれが今でも存在していると言うことだ.で,通常の場合はこの遺伝子の発現を抑制する何かが働いている可能性が高いという.なるほどね.

脳においては使えるものはどんどん使うというどん欲な方法でその機能を実現してきたために、同じことを行うのにいくつもの回路が存在する。発達や学習の初期に不器用な方法である課題を達成していたが、その後とてもエレガントな方法で達成できるようになったとする。こうした場合でも、元の不器用な方法は残る。なぜかと言えば、エレガントな方法がいつでも利用できるわけではないからだ。

たとえば足し算。10代くらいから30代くらいまでは2桁の足し算はほとんど即座に答えが出た(公文をやっていたわけではないけど)。しかし40代中盤くらいになるとこれが自信なくなってきた。あまりやらないから、頭の中のテーブルが壊れてきた、薄れてきたのだと思う。このとき、小学生あたりでやっていた筆算のやり方が退化してしまったら大変だ。しかし実際にはそういうことはなく、頭の中で筆算をイメージして桁ごとに足したりするようになった。

こういう冗長な処理システムというのはかっこは悪いけど、やはり頑健なのだ。進化という仕組みはこうしたbricolageを行う冗長性を持つシステムに有利に働いた可能性は高いのではないか。


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論文2つほど刊行

2008/2/28

2月も終わりになって、昨年の夏休みにもがき苦しんだ(とまではいかないけど)論文が無事刊行された。

1つはスキルの熟達に関わるものだ。これはレゴブロックを使って簡単な形を作ることをひたすら繰り返して、その過程で何が起こるのかを詳細に分析するというものだ。数秒(これは熟達の最終期あたりだけど)で終わる課題を数千回行わせると、ものすごいことが起こる。とにかく見事、何やっているのかよくわからない、そのくらいうまくなる。このもんのすごいことをなんとか、客観的に、科学的に解明できないかというのが研究の出発点だ。

これはそもそも東工大の名誉教授で、退官後に中京大学で教鞭を執られた木村泉先生の猛烈にすごい研究に触発され始めたものだ。先生はミソサザイという折り紙を15万回ほど自分が被験者となって折り、この達成時間の分析をかれこれ7,8年前くらいの認知科学会で発表された。

一般に練習による遂行時間の減少は、練習のべき法則(the power law of practice)と呼ばれるものに従うことが知られている。練習回数、遂行時間の対数を軸としたグラフを書くと、右下がりのきれいな直線で近似できるのである。しかし、木村先生のデータはこの直線の上下をうねるような形で遂行時間が変移していた。

直感的にこれはすごいと思い、我が研究室でも細々と研究を続けてきた。6年前くらいの卒業生の竹谷さん、4年前くらいの卒業生の佐々木さんと、かなりの苦労を重ねて、知見を積み上げてきた。そして3年前の竹葉さんの驚くべき努力、そして大西君の見事なデータ解析力により、ようやく論文化する道筋が見えてきた。この研究は認知科学会で3回ほど発表した。この過程でさらにいろいろなことに気づき、昨年人工知能学会でスキルサイエンス特集というまさにドンぴしゃの企画がありこれの論文募集があったので、投稿した。

取り上げたことは「スランプとそこからの脱出」ということ。主張は
・スランプは単なる統計的な誤差ではありません、
・スランプは内的スキルとその実行環境とのミスマッチにより生じることがある、
という2点です。おもしろいです、おすすめです。ここにおいてあるので是非ご覧ください。

もう1つは全然違うネタで、大学生にまともなレポートを書かせるためにはどうしたらよいかというものです。これもかれこれ5,6年くらい前から手探りの状態で進めていたものです。そもそもまともなレポートとは何なのか、というこことがこの分野の研究の大きなテーマとなります。一般的にレポートは、
・問題
・主張
・論拠
からなるとされます。しかしこれだけではいくら何でも抽象的すぎてだめですよね。問題の意義とか、主張の範囲とか、論拠の妥当性などが、この図式には欠けているからです。じゃあ、自分で考えればいいんだけど、いくら無謀なオレでも「レポートとは・・・・だ」などと断言するというのもできず、悶々としていたんだけど、Toulminというつよーーい見方を見つけることができました(実はずっと前から知ってはいたんだけどそれをこの研究に関連づけることに気づかなかった)。彼は議論についての哲学的な検討を経て、

  1. 主張:まあ主張ですよ
  2. データ:主張の証拠です
  3. 保証:データが主張と関連しているかどうか
  4. 裏づけ:データと主張との関連についての一般的な保証
  5. 反論:対立仮説の検討
  6. 限定:主張の範囲の限定

という6つの要素が正当な議論には必要であることを論じた。

これはレポートにまさに通じる話で、というか論文にも丸ごと当てはまるような話なわけです。この基準を使えば、ある程度まで客観的にレポートを評価することが可能になるのではないかと考えたわけです。で、これが第一歩。

しかしこうした抽象度の高い理屈というのは、大学1年生あたりに事例1つ交えて話したくらいでは全然通用しない。ここで2つの方法がある。1つは、この図式を徹底的に練習させて身につけさせるというものだ。で、これは当然やる気が起きないので(ああ、オレがという意味ですよ)、なんとかもう少し無理なく身につけさせることはできないかと考えたわけですね。

そこで出てくるのが協調学習、Blogというわけです。このBlogにはいろいろと書いているのでこれ以上書かないけど、Blogやディスカッションを通した他者との交流を積極的に取り込むことにより、上のToulminの6つの要素が自然に(?)身につくのではないか、というわけです。そもそもToulminの図式は、議論という、他者との相互作用の場面で求められることであるわけで、その意味では他者との交流はこの図式の獲得の必須条件(とまではいえないけど)ではないかと考えたわけです。ということで、今までやってきたBlogをを用いた授業とか、グループディスカッションとかが、Toulmin+協調学習という中にきれいに納めることができると考え、論文にしたわけです。

出した先は、京都大学高等教育研究開発推進センター(何度書いても長すぎて途中を忘れる)の紀要です。なんで他大学の紀要になんて書くのかというと、昨年の3月にこのセンターが長年に渡って行ってきている「大学教育研究フォーラム」という学会というか、研究会があり、そこでBlogの話をしたことがきっかけになっています。発表後に、このセンターの松下さんから「紀要に書いてみないか」というお誘いがあり、せっかくということでお引き受けし、書いたわけです。でも依頼論文というわけではありません。査読もありました。で、その査読結果は今までいろいろ論文を書いてきたけど、こんなにほめられたことないよ、というくらいほめられて、1週間くらいテンションがあがりましたね。まだまだ展開していかないと,いわゆるおもしろい論文にはなりませんが,とりあえずの一歩です.
ここに載っているので興味のある人はご覧ください.


動物と人間の合理性,非合理性のシンポat 慶応

2008/2/13

“Rational animal, Irrational human”というタイトルでシンポジウムが開かれた。慶應大学のGCOE(グローバル・センター・オブ・エクセレンス)という、渡辺茂先生がヘッドを務める組織の主催だ。講演者の一人として呼ばれたので出かけてきました。初日は出られなくて、2日目の午後自分の講演から3日目のほぼ最後まで出席した。初日は渡辺先生と特に関連の深い動物関係の話が多かったようだ。

自分の発表はいつもこの頃やっている創発認知の話の中の、生成性と冗長性の話の前に、人間のirrationalityについての知見(演繹、類推、転移、洞察)の話を付け加えて、そこからコンピュータメタファーの問題につなげた。正直かなり苦しんだ。スライドは、数年前の国際ファジイ学会の時のものと、入来さんのシンポジウムの講演者として話した神経科学会のものを組み合わせたのだが、なかなかすっきりと行かず、いろいろな調整を行い、英文の原稿も含めて約10日ほど費やしたと思う。未だに英語というとかなり苦労する。特に今回は1時間という、やったことのない長さだったので、かなり神経を使った。しかしまあ終わってみれば良いしかし苦い経験ということになる。良薬は口に苦し。

自分の後は、若手の女性の発表が3件あった。東大の旦さんのは開さんとの協同でメディアの理解というか、realityの理解というか、これに関しての大変に興味深い発表が行われた。どうもテレビなどの画面に映し出されるものと現実の理解との間の関係に付け方に6ヶ月から10ヶ月の間に大きな変化があるようだ。後の2件はともにstimulus equivalenceについてのもので、一件は慶應の人、もう一件は理研の山崎さんが小川さん、入来さんと一緒にやったものの発表だった。なかなかおもしろかったのだが、ちょっと眠ってしまったのもあるのと、そもそもあまり詳しくないのとで解説はやめておく。ただStimulus equivalenceというのはなかなかおもしろいもので特に対称性(A->Bを学習すると、B->Aの結合もすぐにできる)は論理的ではないが、どうも人間に固有な現象のようで興味をひく。そうだ、今度CATKATに来てもらって日本語でゆっくり話を聞こう。

最終日は午前中が長谷川真理子先生の嬰児殺人についての話から始まった。嬰児を殺すのは同部では稀で、ボスが交代したときなどに起こることがある(インドの何とかというサルとか、ライオン)がかなり珍しい。しかし人間ではよく起こる。やるのはたいがい女性で、若くて、よく考えた上でやるらしい。また日本は特にそれが多いとのこと。日本で多い理由は文化的、制度的要因が大きいようだ。他には昭和大学の寺沢先生、慶應の女性の発表があった。

最後の論理のセッションは正直つらかった。別に変なことを言っているわけではないのだが、やはりいろいろな意味でつらい。

そこでおもしろい話があった。そもそも論理学は知性のmechanizationを行い、その結果としてコンピュータが生まれた。そこではいろいろな発展もあったが、創造性については全然だめだったということが論理学者の側からなされた。これに対して、コンピュータも適切なプログラムさえあれば創造的になれるとか、人間の脳だってそもそもmechanicalなんだけど創造性を持つことができるとか、いろいろおもしろい議論がなされた。

・・・Illustratorできれいな画像が作れるのは?
・・・写真がエロティックなのはカメラがエロティックだから?
素材、道具とそのプロダクトを混同していると思う。


生物と無生物の間

2008/2/6

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)故あって最近もう一度読み返したのだが、再度感心。こういう本を書ける科学者というのは、美人なのに性格が良いとか、そういうようなものですね。

動的平衡というアイディアはもちろんグッと来るのだが、今会気がついたことが1つ。とにかくものすごい眼をしている。またビジュアルな記憶が半端ではない。過去に見たことについての情景の描写がすごいのだ。こういう人は普段どのような眼で世界を見ているのだろうか。キャンパスが違うのでなかなかお会いできないのだが、今度あったらぜひこのことを聞いてみようと思う。


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ヒアリングのメモ

2007/4/30

連休ではあるが,今日,私たちがやっている大学の研究所のプロジェクトのヒアリングがあった.そのときの質問をまとめておく.

どのスキルがどの程度伸びたのかを具体的に示せ
これについては確かにプレゼンがよくなかった.レポートの段階論

私これ好き型
基準宣言型
基準構築型
状況設定型
の4つのタイプがあるという話をしたのだが,このタイプに基づく集計を出さなかった.これは失敗.ただし、この段階は当初の予想よりも錯綜していて,きれいな形に収まらないものもあることがわかっている.さてどうしようか。
協調学習とか,問題発見とかも大事だけど,どう書くかを教えるのも大事ではないか
確かにそうなのだ.いわゆる書き方のお作法は大事だ.しかし(これはいい忘れたのだが)、問題を見つけること,書けるものに押さえ込むこと,こうしたことがないと、本当のお作法教育になってしまう.ここらへんはもう少し強調すればよかった.

スキルと能力の関係を明確にせよ
これについてはかなりいい加減に使っているような気がしてきた.レポートライティングと来れば、スキルというのが適当な気がする.レポートライティング能力というのはどうも変な気がする.しかし、このスキルを支える

問題発見、洗練
資料の批判的、複合的読み
文章構成
はいずれも能力に近いものであり,逆にスキルという言葉はなじまないとまでは言い切れないけど、やはり能力という方が適当な気がする.もう少しメンバーといっしょにじっくり考えてみることにしよう.

レポートの採点は第三者に行わせるべきだ
はい、そのとおりです.少なくとも一階目と二回目がわからないような形にして評価する必要があるだろう.
Blogを用いる意味が不明確だ
Blogである必要は必ずしもない.ポイントなるのは

他の人が参照できること
コメントなどのコミュニケーションができること
自分の作品,成果として残っていくこと
という性質を持っていれば別にBlogでなくてもよい.
あとBlog云々というより,授業の展開というか課題の出し方の問題なのだが,「プロセスが可視化される」という性質はとても大事だろう.舘野風の言い方をすれば「ふらふら系」というものを許容できることが大事だ.レポートとして提出したものだけが残るのではなく,レポートを各家庭で自分が考えたこと,他者が考えたこと,これらが残っていくということがきわめて大事なのだ.
学生たちにこれは研究が絡んでいる話なのだということを知らせるべきではないか。
確かにそうだろうねぇ.これらが学会で発表されたり(むろん個人を特定できるような情報は出さないが)することは事前に知らせておくべきだろう.

(あともう1つ大事な質問があったのだが思い出せない)


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Billyにやられた・・・

2007/3/31

忙しくて1週間ほどBillyをやっていなかった。きちんとやらないとと思って帰京したら、妻から娘の同級生の男女が自分もBillyをやりたいとの希望を持っているとの連絡を受けた。ということでそのうちの一人を呼んで応用プログラムをはじめた。すると10数分目にある特になんでもない運動の時に、突然腰がぐぐぐぐぐーーーーみたいな感じになり、その後の続行が不可能になった。それから2日経つがまだ完全には直りきっていない。よってBillyも出来ない。悲しい。

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戯れ言 ]

心脳コントロール社会

2007/3/31

小森陽一さんの「心脳コントロール社会」という本を読んだ(だいぶ前に金井君(法政)に勧められて忘れていた)。

認知科学や神経科学の知見が、消費者、有権者をコントロールするために用いられているというのがその骨子だ。物事を強引に二者択一形式にする。そしてその打ちの一方に感情的な判断、直感的な好悪判断上都合のよい(あるいは悪い)イメージを貼り付ける。こうした方法は辺縁系に由来する処理に基づくのだそうで、理性的な検討を超えた強さを持ってしまうと言う。これをCM、マーケッテイング理論、小泉前首相の行った衆院選(改革を止めるなといってやったやつ)などの具体的事例を通して明らかにしていくというものだ。

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吉野やでフカヒレスープ

2007/3/30

あなたが吉野やに行ったとする。食事を済ませ勘定書を見たらべらぼうに高い。内訳を聞くと、フカヒレスープを食べたと書かれている。そんなものは食べてないし、そもそも店に置いていないのは明らかだ。そこでじゃあフカヒレスープなんて置いているかどうか見せてみろと店に要求すると、それを見せる必要もないし、ルールに従って請求しているだけだという。

このロジック(?)で自らの権力を守ろうとするのが松岡という大臣だ。水道代、電気代がかからないところでも、水道代と電気代を請求した。それも5年間で数千万円という信じがたい額だ。しかしこの大臣が言うには、法律上求められた処理、届け出をしている。よって問題ないという。

これはあくどい論理のすり替えだろう。法律に従って経費を請求し、公開した。適切なのは届け出をしたという部分だけで、これだけのことなんだよね。で、その経費がでたらめであれば当然問題とされる。基本的にカラ出張とか、そういうのと同じ話だと思うのだが、この人が訴追されないのはなぜなのだろうか。

美しい国を作るために、国民に妙な道徳を押しつけようとしている総理大臣もこの大臣をかばう。


その他 ]

田園都市線という・・・

2007/3/22

アエラに田園都市線の混雑状況が載っていた。首都圏の混雑度はたいがいは150%以内で、多いところでも(小田急とか)170%くらいなのに、田園都市線はもうちょいで200%というレベルになっている。

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戯れ言 ]

新ネットワーク思考

2007/3/22

いまバラバシの「


ベーコン数

2007/3/22

前の記事と同じところ、つまり「ネットワーク思考」からの話なのだが、「ベーコン数」というものがある。Kevin Baconという売れっ子というのか、よく映画に出ている俳優がいる。この人との類縁度を示すのが「ベーコン数」というと、この本に書いてあった。類縁度とは何によって規定するかというと、映画での共演に基づく。たとえば彼と共演したことのある人(ティム・ロビンスとか、メリル・ストリープとか)そういう人は類縁度というか、ベーコン数が1となる。彼とは共演していないが、ティム・ロビンスとかメリル・ストリープと共演したことがある人(モーガン・フリーマンとかカレル・ライスとか)はベーコン数が2となる。そういう具合にベーコン数を計算する。こういうことができるのはIMDB(Internet Movie Database)という、恐ろしいくらいの映画データベース(利用は無料)があるからなのだ。ちなみに現在はベーコン数だけではなく、任意の人の任意の人に対するベーコン(?)数を計算できるようになっている。

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戯れ言 ]

古地図

2007/3/22

Web上をいろいろとさまよっていたら古地図サイトというのを見つけた。こいつはめちゃめちゃに楽しい。自分が住んでいるところ、お気に入りのところが江戸時代、明治時代にはどうなっていたかがバッチリ分かる(ただ東京の区内に限られると思うけど)。

たとえば青学は今の敷地そのものが伊予西条藩(三万石)松平左京大夫頼学という方の土地だったことが分かる。また自分の家の前のおかしな感じで曲がっている道は実は江戸時代のとある殿様の住んでいたところの外れにある馬小屋(?)のようなものを避ける形で作られたということが分かった。非常に狭い道なのだが、明治時代にはもうちゃんと存在していた。驚き。またオレがよく飲みに行く某所は「御先手同心」という火付け盗賊改、なんというか特別警察のような人たちの共同住宅があった地域のようだ。

なんでこんな詳しいことまで分かるかというと、現代の地図で自分の探したいところをポイントして、そこから「江戸」、「明治」とあるタブをクリックすると、そのポイントにおける各時代の地図が出てくるからなんですねぇ。はまります。意味が分からない言葉が多いのでGoogleで検索します、勉強になります。とてもよろしい。


その他 ]

一妻多夫制

2007/3/17

新聞で一妻多夫制の地域が中国にあるという記事を読んだ。これはなかなかすごい話だった。なんでも若い頃に複数人で一人の女性の家に夜這いに行き、そのままなんというのか子どもが出来て結婚するみたいな話だった。夜這いはこうやるみたいな写真まで載っていた。インタビューに答えている人は、兄弟で一人の女性と家族を形成しているとか。で、誰の子かは分からないが、家の子ということでなんの問題もないとおっしゃっていた。

ちょっと信じがたい光景だ。女は嫉妬深いと言うが、男の嫉妬はそれ以上のような気がする。こういうのはかなり根源的というか、生物学的な何かに裏打ちされた感情だと思ってた。動物でもハーレムを作るような連中は、自分のメスを奪おうとするものに対して猛烈に戦うよね。文化、文明の力はこういうのにも打ち克つと言うことなんだろうか。


戯れ言 ]