「自然に帰れ」の傲慢さ

2004/4/24

世界思想社という京都にある出版社の宣伝誌で「世界思想」というのがあります.これは年に1回送られてきます.時々面白いエッセーが載っているので,送られてくるとだいたい読みます.

今回送られてきた中に佐藤卓己さんの「メディア論者は『美しき自然』を歌わない」というエッセーがありました.著者の佐藤卓己さんは専門がメディア論で,著書の現代メディア論(岩波)はこの分野のとてもいい教科書です.私もメディア関係の講義を行った時にはよく参考にさせてもらいました.

さてこのエッセーの中身は自然礼讚,自然との共生,街並保存などの欺瞞性,いかがわしさを批判するというものでした.まさに我が意を得たり,という感じでした.気に入ったポイントを抜き書きすると,

  • 自然がそんなにいいものならなんで過疎化なんてことがおこるの?
  • 伝統文化を保存し,外国人に知らせようと言うけど,保存する側に回った 人は本当に幸せなの(民芸品を売る人とか,観光シーズンになると地域の 踊りを踊らされる人とか)?
  • 保護する自然や街並はありのままの自然だったわけ?

というあたりが挙げられます.
私も「自然に帰れ」などという主張には嫌悪感を感じ続けてきました.帰るべき「自然」ってなんですか?田舎ですか?テレビなし,電話なし,はては電気無しですか?家はあってもいいんですか,本は読んでもいいんですか,火は使ってもいいのですか,言葉は話してもいいのですか,どこまで戻ると自然になるのでしょうか.

こういう人たちの自然って要するに自分の育ったときのことですよね.そこを自然の原点と勝手に定義して,そこに戻れとというわけです.さらには「もどっておれのような人間になれ」ということですよね.自然を大切にという一見リベラルな主張の背後には,こういう傲慢な態度が潜んでいます.図式化すると以下のような感じです.

自分より前 ← 自分=原点 → 自分より後

野蛮、貧困 ←   よき時代 → 不自然,壊れている

教育の文脈だと話はますます変になって,「自然と触れ合うことで豊かな感性が育つ」などという話がよく聞こえてきます.これはアナクロ人間だけでなく,立派な科学者たちからも聞こえてきます.少年少女たちがおかす様々な非行,犯罪が自然との触れ合いの欠如の結果であるというような論調もあります.

では自然とはたっぷり触れ合ってきたはずの前世紀初頭生まれの人たちは何をやってきたんでしょうか.そういう人が自然を破壊してきたのではないですか.環境を汚染し,他国に侵略し,とんでもない数の人間を殺してきたのは,今より遥かに豊かな(?)自然の中で育ってきた人なのではないのですか?

さて,佐藤さんはそのエッセーで自然は手のつけられていない,人間に不寛容なものとしています.でも私は「自然とは今自分がいる環境のことだ」という考えです.自分がなれ親しんで,いろいろなものが「自然に」感じられる,それが自然でしょう.自然に感じられない,それゆえ感動したり,畏怖したりするようなものは不自然でしょう.

上の意味での自然は私たちの身体,認識と一体,あるいは混じりあっています.とすると,今いる自然から出るということは半ば不可能であるということになります.また我々の自然を構成する様々な要素(テレビ,携帯,PC等々)はある種のネットワークを形成していると考えられます.よって任意にどれかを抜き取ることは難しく,仮にそれを行っても他のものがその穴を埋めたり,あるいは予測不可能な歪みを生活にもたらすことになります.また文化や制度はこうした自然を前提として組み立てられているので,ここから離れるととてつもない文化的な不利益をこうむる危険性が高いと思います.

さてこのように考えると,「自然に帰れ」と叫ぶ人たちがなぜそうするのかが分かってきます.それは,環境が変化し,自分達が慣れ親しんだやり方が通用しなくなり,自然に振る舞えるような環境ではなくなってきたからである,と.これは重大な問題だから,大声で叫ばねばならない.つまり「変化への抵抗」の一種ということですね.うんうん,よくわかります.

でも,そういうときは「ちょっと俺たち生きにくいんだよね」とか,「私たちの『普通』でやるうまくいかなんだけど」とか,そういう感じでものを言ってもらいたいものです.

自然に帰れるのならばどうぞご自分の設定した勝手な自然に帰ってください.でもあなたの自然に私を連れ込まないでください.私には私の自然があるのですから.


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