長滝編「現象学と二十一世紀の知」について

2005/1/25

哲学者の長滝さん(中京)から「現象学と21世紀の知」(ナカニシヤ)という本をいただいた。彼とは数年前に北大で行われた進化系の学会で一緒になり、ススキノを飲み歩いたのがきっかけでした(もっとも彼は一滴も飲まなかったと思う)。

まあそんなことはどうでもいいとして、この本はおもしろい。まだ全部は読んでいなくて、非常によく分かるのは長滝さんの書いた2章なのだが、ここだけでもメモっておこう。


第二章では、身体論的転回というキーワードの下、デカルト→メルロ・ポンティという流れと、第一世代認知科学(記号主義AI)→第三世代認知科学(身体性認知科学)の流れを見事に対比させている。そしてBallardらのアクティブビジョンや、Andy Clarkらの議論を交えて表象の性質、認知における表象の役割を論じている。表象の問題については、いわゆる青写真的な静的表象ではなく、行為や探索と結びついたより動的な表象観が必要と論じられていたと思う。ただしこういう低次というか、オンラインというか、just-in-timeというか、そういう表象だけでは、人間の知性を十分にとらえているとは言えない。ということで、長滝さんは言語、他者の意図などの話を取り上げ(主にTomaselloの議論)を取り上げ、社会、認知、身体の関係について考察の重要性を示している。正直言って、最後の部分は余りよく分からなかった。これはそもそもわたしが言語や社会に無関心というか、興味がないことにも由来するのだろう(そういえば1年くらい前の発達心理学会で波多野先生から「鈴木さんに欠けているのは、言語、意識、文化だ」と言われたなぁ)。

これを読むと、認知科学の発展が約50年遅れくらいで哲学(現象学)の歴史を追いかけていることがよく分かる。哲学の最良の部分は人間の知性の最良の部分の発露であるのだから、認知科学が遅れているのはある意味当然とも言える。だいたい50年前には認知科学はなかったわけだし。で、長滝さんはそこで「よしよしだいぶましになってきたね」と傲慢な態度を取るのではなく、「身体論を基軸として認知科学と現象学の協働の可能性を探ることである」とおっしゃる。うん、じゃあいっしょにやりましょう!

この本を読みながら考えたことはいろいろあるけど、まず身体性認知科学における脳科学の位置ですね。脳科学の大半は完全な古典的表象主義になっているわけだが、これらの知見は無視できない。proper treatment of neurosience dataというのはどんなものなんだろうか。また、脳も身体ですよね。感覚器や効果器とちがってかなり特殊な扱いが必要な気がするんだけど、ここらへんはどうなんだろうか。あと時間と変化、つまり発達や学習の問題が取り上げられていない気がしたけど、ここもすごく気になるなぁ。

他の章もいろいろ勉強になる話がたくさんあります。特に1章は心理主義、基礎付け主義、自然化など、今まで分かったような分からないような気がしていたキーワードの背景がよく分かり、楽しく読めた。


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