記憶はコミュニケーション

2005/2/7

教育学科の2年生の岩本君が記憶について面白い比喩を考えている。彼は私の担当している「認知科学概論」という講義のレポートの中で、「記憶は過去から現在への内的コミュニケーションである」という比喩を用いている。この比喩は、記憶が
・やりとりを含むものである、
・固定したものではない、
などのいいイメージを与えてくれると思う。

ただし、


ちょっと私の観点すると疑問な点も残る。上の表現では、コミュニケーションの方向が「過去から現在」と明示されている。しかしそうだろか。想起の状況=現在も、また過去へと語りかけるはずである。符号化特殊性、虚偽の記憶、構成的記憶などが明らかにして来たのは、こうした現在の過去に対する影響であろう。

こうしてみると「内的」という言葉も気になってくる。どこまでがうちで、どこからが外という厳密な区分はできないが、現在の状況はいわゆる「うち」ではない。想起者とその外部とが渾然一体になったのが現在である。とすると、過去と現在とのコミュニケーションとは内的とは言い切れないということになる。

こうした疑問点にも拘らず、「記憶はコミュニケーション」ということにはもう少し執着したい。というのも、これは古典的な、記銘→保持→検索という図式とはずいぶんと違うイメージを与えてくれるからである。コミュニケーションとはいつでも双方向である。つまり内から外、外から内、過去から現在、現在から過去といった双方向のやり取りが記憶の本質であると考えているのである。

もう1つ大事な点は、コミュニケーションを行うことで、変容が生じるという点である。会話を行うことは、XがYにPという内容を話すことにより、
・YはPということを知る、
・XがPを信じていることを知る、
・Pは状況にとって関連性がある(たとえばYはPを知らない)とXが信じていることをYは知る、
・Yの中にあるPと関連する事柄についての表象が変化する、
などなどのことがおこる。またX(話し手)も、
・YはPを知った、
・XがPを知っているということをYは知った
という認識が生じることになる。むろん、Yのその時の表情、その後の応答からさらに多くの認識を得ることができる。

このようにコミュニケーションは変容を含んでいる。記憶をコミュニケーションと例えることにより、過去と現在とが不変のものではなく、相互作用を通じて変容していくものという大事な洞察を得ることができる。

こうした意味で「記憶はコミュニケーション」という比喩はこれからも使っていきたいね。ありがとう、岩本君。


2 件のコメント

  1. 小山めぐみ より:

    先生、先日は失礼しました。
    お話できてうれしかったです。

    「記憶はコミュニケーション」という表現、私もいいと思います。

    だとしたら、他者と共有する記憶はもっともっとコミュニケーションになりますか。

  2. takatsu より:

    「記憶は社会的につくられる」とした、D.Middletonの“社会的記憶(social memory)”も、「記憶はコミュニケーション」という話につながってくるのかなと思いました。たしか、佐伯先生の授業で、ワーチの本を読んでいるときに出てきた話題だったと思いますが・・・ そのとき、ある人がもっている「子どもの頃はこうだった」という記憶は、周囲の人(父母etc.)によってつくられているという話をきいて、記憶というものも、他者とのインタラクションを通じて構成されていく(あるいは再構成されていく)ものなのだなあ、なるほどと思った覚えがあります。

    そう考えると、NTTの野島先生が取り組まれている「思い出工学」もまた、「記憶はコミュニケーション」の概念に関係するのではないかと思いました。保存された思い出(写真など)を介して他者とコミュニケーションを行うということは、自分の記憶を再構成する、欠落している部分を補う働きもあるのではないかと思います。

    こんなふうにいろいろと考えていくと、記憶というのは、非常にダイナミックなプロセスのなかで構成されていくものなのだなと思いました。