対話的知性

2006/3/8

ダイナミカル宣言をしてからずいぶんと日にちが経つ。その間、いろいろと参考になる話を聞いたし、またいろいろと考えた。で、最近とある原稿を書きながら思いついたのが、この記事の表題になっている「対話的知性」というものだ。つまり知性の根本は対話ということばでうまく表現できるような気がしてきた。

ここで対話というのはいわゆる本当の人と人との対話も含んでいるのだが、比喩的な意味の方が大きい。なにがしか他のものとのやり取りの中で知性が生まれるという考え方を対話という言葉で表現している。


対話の相手は、
1.(むろん)人
2.道具などのもの
3.いわゆる環境
4.意識できない自分
ということになる。 1についての説明の必要は、ここではないだろう。2と3はまとめられるかもしれない。

ポイントは4だと思う。これは俺が昔からやっていた領域固有性、類推はもちろん、ここ数年主張している冗長性、重奏性、さらにはゼミ生たちと一緒にやっているサブリミナル刺激を用いた研究とも関連している。こういう研究を通してつくづく思うのは、自分がやっていることのうちで自分が意識して、コントロールしているのはごくごくわずかだということだ。実は意識に現れない様々な内的資源君たちと、対話をしながら認知というものが成り立っているという思いを強く持つ。対話と言っても意識化できるものとは限らないのは言うまでもない。

まあこういってしまうと、ほとんどの研究はそういうもんだろうという突っ込みがありそうだ。有名な下條さんのサブリミナルマインド、意思決定などに見られる様々なバイアス、類推の多重制約理論、どれも無意識的に働く様々な内的資源に焦点を当てている。ただし、対話的知性というのは、いわゆる無意識に支配されている私という意味はない。こうしたものとは違い、『対話』という言葉にはやりとり(インタプレイ)、時間、変容というものが何となく含意されている。対話的知性という考え方を提唱するにあたっては、こうしたものに注意を向けているということだ。じゃあ、どう注意を向けるのかという話になるわけだが、それはこれからよく考える。とにかく今日はここまで。


2 件のコメント

  1. T.I. より:

    知性の根本に「対話」あり。まさしくそう思えます。
    概念地図も自分自身の知識との「対話」だよな~と思いますし,対話的な使い方をしないと生きてこない。
    私事ですが,今年の教育心理学会で,「対話と論理的表現」っていう自主シンポをやる予定です。よっぽどおヒマならおいで下さいませ。でも,本当に見ていただいたら,かえって立腹されるかも(笑)。

  2. HS より:

    岩男さんありがとう。概念地図というか、外化されたもの一般は私たち自身(分身)なんだけど、外に出た時の経緯でちょっとだけ他者になっていて、そういう意味で対話できますよね。

    教育心理学会の情報もありがとう。行くか行かぬかだいぶ迷ったのだが行くという決定をしてよかった。自分のとかぶらない限り必ず行きますよ。

    ああ、そうそう振り込み終了。