学習資本主義

2006/9/16

学習資本主義(learning capitalist society)、こういう刺激的な演題で教育心理学会で語ったのは、かの苅谷剛彦さんだ。苅谷さんについては何の説明もいらないだろう。ということで早速今日の講演の話にいく。

話はそう難しいことではなく、世の中の心理主義化が進んでおり、個人、その内面がすべての決定因である、というような間違った見解が広まっていること。そしてそうした傾向をさらに助長するような動きがあること(市川さんの人間力も取り上げられていたし、職業における自己実現なども批判的に取り上げられていた)。しかしそこでは社会的、階層的、経済的要因が無視されており、格差助長の危険性が存在するということだ。もう少し具体的にいうと、学び、学びの能力というより、その育成により金のかかる能力が必要とされる。それによって今でも顕著(?)な階層差が継承、あるいは拡大するというわけだ(うーーん、あんまり具体的じゃないな)。でも、まあそういうこと。


社会や制度という問題をないかのごとくに考えるのは、階層差がきわめて小さくなった(?)日本では必然的流れになっている。つまり階層差による分散が小さすぎて、ターゲットなる被説明変数に対して有効ではないかのような認識があるわけだ。一部のセレブは確かにいるかもしれないが、あとはすべて中流だ。よって自分、あるいはその子供に何か問題がある場合には、それは己の責任だという、こういう心理主義化が進んでいる。

しかし、実際には無視できないレベルでこうした格差が教育、学習に影響を与えていて、これが拡大する傾向が見られる。これについては苅谷さんたちのグループの仕事に加えて、佐藤俊樹さんとかの仕事からもある程度まで明らかにされている。こういう視点はとても大事だと思う。この認識は共有できる。

その上で疑問に思う点が2つある。ということで、苅谷さんに直接会場で質問した。1つは学習能力が新たな格差を生むということを認めるとして、学習能力などというものはそもそも一元的な尺度で測れるものなのかという点だ。これは認知的アプローチを少しでも知っている人ならば、認められないものだともう。単語を覚えることから、職業スキルの獲得まで、思いっきり領域固有であり、そうした一元化は科学的な検討からは論外の帰結だ。

オレの考えでは、何が価値あるものかについては、きわめて多様なたちがあるだけでなく、実際の経済活動においてもまさにこの多様化が鍵を握る時代になっている。各人の学習能力が最大限に発揮できる分野で、活躍できる可能性は広がっているのではないかということだ。ゲーム制作、商品開発における女子高生(渋谷の?)の判断力、世界に広がるオタク文化、など、いわゆる学歴に保証されない、新しい価値感が重要視されているように思う。

こうした状況になっているのに、階層というきわめてゆるい説明変数によって、社会状況を説明しようとするのには無理があるのではないかということだ(むろん心理主義もだめなんだけど)。新しい価値というのは、既存の計測技術にうまくかからないところから生まれるわけで(定義上)、そうした意味では学習能力の一元化というのはどう考えても無理がある。

もう1つの問題は、社会学的アプローチ自体の問題だ。たとえば、学習資本主義はいけない、ゆとり教育はいけないという話になるときに、それをやめれば現状が維持できるという含意がある。しかしそれは本当か、ということだ。たとえば学習資本主義は確かに問題がある、そして学校選択制、バウチャー制などはさらにこれを加速するということが正しいとしよう。ということで、仮にやめたとする。すると、学習資本主義的傾向、および格差は弱まるのかということだ。これは単なる可能性だが、逆に階層格差を拡大するような事態も考えられるのではないだろうか。仮に学習能力が資本になることを親も知っているとする。すると、こうした能力を身につけさせるために、特殊な学校や機関に自分の子供を送ることになる。こういうところは当然猛烈にお金がかかるため(prep schoolとか、public schoolというやつ)、さらに格差は拡大する。一方、これが学校教育内で行われれば、少なくとも義務教育の段階では、(教師の優劣はあるにせよ)一定程度の獲得が可能になるという事態も想定できる。

確かに現在の動向、風潮が簡単に是認できないものとして、それをやめることは現状を維持するという選択を行うことになる。その結果はかならずしも現状を維持することにつながらず、予測し得ない問題を生じさせる場合があることも認識する必要がある。

こういう質問をしました。苅谷さんの答えは、一番目については結局資本にとって経済的な価値のある学習能力の観点から評価されるという意味では一元化は働くというものであった。2番目は、いわゆる社会学は比較調査が簡単にできない。そういう限界は認めた上でも、新たな政策が持つ危険性は認識されるべきだというものだった。ちなみに安倍晋三が進めようとしている、バウチャー制は確実に失敗する理由をかなり詳しく述べていた。またゆとり教育をやめろといった覚えはないということも強調されていた。何の人的、物的、資金的基盤もないところで、全国一律にやるようなことはやめるべきだと主張しただけだと述べていた(これは確かにそうとれる論文もあるので、彼が正しい)。

ちなみに、苅谷さんは心理主義化の例としてBlogも取り上げていた。彼によると、個人の日記なんかを公開するなんていう、信じられないことが起きているみたいな話だった。実はオレも、山下さんや、川浦さんがWeb日記の研究をやり始めたころ、苅谷さんとまるで同じ反応をした覚えがある。こういう傾向はオレも本当に強く、書きかけての「セカチューで泣く」というエントリーでもまるで同じことが起きている(ちなみにこのエントリーの公開は若干躊躇している。しかしたぶん酔っぱらっているときに公開されるだろう。まあセカチュー見て、人より数年おくれで泣いたということだ)。

でもねぇ、これもまたそんなに簡単ではないと思うよ。Blogコミュニティー自体がある種の制度、社会的基盤となっており、それが個人を様々な形で制約するとともに、というかだからこそ開放する部分もあるわけで、自分の日記を書くから心理主義というほど話は簡単ではないと思う。


教育 ]

1件のコメント

  1. きざしログ より:

    学習資本主義(learning capitalist society)

    >話はそう難しいことではなく、世の中の心理主義化が進んでおり、個人、その内面がすべての決定因である、
    >というような間違った見解が広まっていること…