メディアリテラシーと認知科学

2006/11/8

情報センターの年報に書いた原稿だけど,とりあえず載せておきます.この話は認知科学かいで話したようなことなんだけど,ここのBlogでいろいろと書いてきたことをうまく(?)組み合わせて,仕上げたものです.本当にこういう原稿のときにはBlogが役立つなぁ.


メディアリテラシーを育てる      鈴木宏昭

メディアリテラシーということばがある.これには3つの要素があるという.1つはいわゆる情報機器の操作能力である.ありとあらゆる分野に情報技術が入り込んでいる現代において,それらの機器を一定程度操作する能力が必要というのはわかりやすい.2つ目はメディアを批判的に捉える能力である.これは元々はマスメディアが特定のものの見方や価値観を,意識的か無意識的にか,その番組を通して我々に伝えてしまうことを,その仕組みの理解を通して批判的に吟味しようと言うものだ.3つ目は,情報機器を使いこなし,場面に応じた情報の発信する能力である.これはインターネット技術の発達により,情報機器が単なる受容のための機器ではなく,発信の機能をも備えたことから,当然必要となる能力である.

1番目のメディアリテラシーには長年関わってきた.しかし近年,気になっているのは2番目のリテラシーである.この部分のリテラシーが気になるのは,メディアを意識した言説を巧みに利用した政治活動が目立ってきたからである.

テレビなどのメディアというのは,放送時間というものが厳密に決められ,出演者たちが一通り話すようにできている.よって,こういう場所では,じっくりと話すわけにはいかない.基本的には短いフレーズで,わかりやすく自らの考えることを述べることが求められる.たしかに,人はわかりやすさを求めるわけだし,これ自体は何も悪いことではない.

しかしわかりやすさは得てして単純さで置き換えられてしまう.一方,政治的な決定がかかわるようなことは,残念ながらそう単純に割り切れることは多くはない.だとすれば,もし出演者たちが単純明快な発言をしたとすれば,その中にはどこかに短絡がある,あるいはトリックがあると疑うべきである.

『競争が人を育てる』という言葉は,前の文部科学大臣であった中山成彬さんが大好きな言葉であった.誰でも競争したことはあるだろうし,そこから何かを得たこともあるだろう.しかし,競争は別に人の成長の必要条件でも,十分条件でもないことは明らかだ.自分で何か興味の惹かれることを見つけ,それを調べることでも人は成長する.ここには競争はないので,競争は必要条件ではない.競争から落ちこぼれ,途中で投げてしまえば,人は成長しない(ことも多い).よって競争は十分条件もない.

しかし,こういう言葉を聞くと,だれでも『うん,確かに俺も中学時代バスケでなんとかレギュラーになろうと競争したもんなぁ』とか,『負けてたまるかという気持ちでがんばったので,大学受験でうまくいった』などの経験を思いだす.すると,学校にも競争制度を導入して,(たるんでいる?)教員,生徒の尻をひっぱたかねばならないなどと考えるようになり,全国一斉テスト賛成などという話につながってくる.

ここには,単純なフレーズ,それに引きつけられる自己の経験,単純なフレーズからの強引な帰結の承認,というまったく非理性的な思考の回路が介在している.これと同じ回路が靖国神社を巡る議論の中にも存在することは容易に見て取れるだろう.またもう1つ大事なことは,メディアの中で巧みに言葉を操り,私たちの中の非理性的な思考回路を暴走させようとする人たちがいるということである.

さてこの非理性的な思考回路についての研究は,認知科学の中でずいぶんと研究されてきた.とても有名なのは,トバースキーとカーネマンたちの仕事である.上で挙げたような思考に関係するのは,自分の経験を思い出して,それに基づく思考を行ってしまうという,利用可能性ヒューリスティクだ.また勝手な偶像を祭り上げ,その偶像の持つ性質をコミュニティー全員が持っている,あるいは持つべきだとしてしまう,代表性ヒューリスティクスというのもある.

メディアリテラシー研究が蓄積してきた知見に,上記の認知科学の知見をうまく組み合わせることはできないだろうか.それによって非理性的な思考回路の暴走をさせず,単純なわかりやすさを一度放棄して事態を総体的に考え直す,そうした能力を育成できないだろうかと考えている.


1件のコメント

  1. 日本太郎 より:

    この文章を読んで「単純でわかりやすいフレーズからの強引な帰結の承認といえば、小泉前首相。小泉前首相は去年の総選挙で、多くの国民の非理性的な思考回路を暴走させたんだなぁ」と素直に思った方は、今ここで非理性的な思考回路を暴走させられてます。ご注意を。

コメントをどうぞ