カテゴリーと類似性に対する認知言語学の立場についてのメモ

2006/12/7

GibbsのEmbodiment and Cognitive Scienceを読んでいるのだが、むろんこの中には認知言語学が大きく取り上げられることになる。今読んでいる章はLakoffのイメージスキーマの話がかなり詳しく解説されている。

認知言語学はむろん存在は知っており、Lakoffの本も昔読んだことがあるので何となくは分かっているのだが、当事者ではないので、まあ遠巻きに見ているという感じだった。しかしGibbsの本を読むといろいろとポイントが分かってくる。特にオレにとって印象的なのはカテゴリーの話だ。


従来のカテゴリー理論では、カテゴリーはそれに属するメンバーが何らかの物理的特徴を一定程度以上共有しているという前提を有している。しかしイメージスキーマ説では、身体化された経験がイメージスキーマの核に存在しており、この身体、運動的な経験、およびシミュレーションを通して、物事の(みかけの、あるいは結果としての)類似を作り出し、その結果カテゴリーが作られるという考えを提唱している。これはダイナミカル宣言の1つの柱である「生成」という考えを強く裏づけてくれるような気がする。

例に出ていたのだが、重さと困難の度合いというのはよく結びつけられる。「この仕事は重たい」、「重い責任」、「重圧」、「重荷」、「重馬場」、「扉が重い(開けにくい)」、「雰囲気重いね」、など、「重い」を用いた表現は多々あるが、これはいずれも重い物体によって何かの動きが簡単にできないという身体経験から発していると考えればとても理解しやすい。

では、これらの表現を理解するときに、身体的経験やそこらか抽象された心的実態が単に比喩的に当てはめられて、というか、類推におけるソースのエレメントの機械的マッチングのようなものとして捉えられるかというと、そうではないだろう。

「重馬場」という言葉を例にとって考えてみる。ここでは、動きづらさ、なにかのしにくさという「重い」に関わる身体的経験、そうしたものが、馬場という場所と相互作用しながら、何が重いのか、誰にとって重いのか、どういう意味で重いのか、そうしたものがまさにオンラインで生成されているということだ。なるほどおもしろい。

と書いていたら、以前我が娘がまだほんのわずかしか言葉を話せない頃(正確な年齢は覚えていないけど、2歳くらいだったように思う)に使ったおもしろい表現を思い出した。その頃住んでいた家の引き戸というか、ふすまというか、とにかくそれは比較的開けにくくて、かなり力を入れないとだめなものだった。当然、赤ちゃんをやっと卒業程度の子どもにはなかなか厳しかったのだが、なかなか空かないときに「かたい、かたい」とよく言っていた。これは「重い」ではないけど、完全に身体化された比喩だよね。

かたいものは歯が立たない、かたいものは自由に操作できない、意のままにならない、そういう身体経験に基づく比喩なわけだ。うーん、なかなかおもしろい。


2 件のコメント

  1. Hi-Low-Mix より:

    昔、シューティングゲームなどでなかなか倒せない敵のことを「カタイ」と表現していましたね。

  2. HS より:

    ああ、そうですか。僕自身は使ったことないですけど、一発で分かりますね。とくにゼビウスなんかのボスキャラ(?)、ボスマシン(?)あたりはそんな感じがまさにぴったりという感じです。情報ありがとうございます。どこかで使わせてもらうかも知れません。