学習=状況敏感性+調整

2008/4/30

先日大学院のゼミを行った.私の担当する社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース以外からも、文学研究科、経済学研究科、および他大学からの参加者などもいて、なかなかにぎやかな授業となった.さてここで三宅君@東大情報学環から面白い質問がきた.その前後の経緯から話すと、創発論者なのでとにかくきっちりと教え込むというようなことは嫌いだし、間違っていると思う、という発言を私がしたことから始まる.三宅君は教え込むということが本当に意味がないことなのかをかなりいい感じで聞いてきてくれた.

まずここで考えなければならないのは、学習がどの段階の話をやっているかということだ.本当の初期、あるいは初心者レベルの話であるのならば、ある程度の教え込みというのも効果があるのかもしれない.しかし、学習が進んだ段階で獲得すべき知識は、教えるべき先生もよくわからない、あるいはうまく表現できない、仮にしても有効ではない可能性が高いのではないだろうか.
こういう思いを強く持っていた私が言ったことは、
ある程度まで学習が進んだレベルでは、

状況(の変化)に対する敏感性、
そこからの調整
に関するスキルではないか、というものであった。つまり言葉で伝えられるようなレベル、ルール化して伝達可能な知識というのはおよそ初期レベルの話であり、そこからは外界の絶えざる変化、身体がもたらす絶えざる擾乱、こうしたものをうまく検知し、そこからの調整のための能力ではないかということだ.同じ場面は二度と現れない。いつでも少しずつ異なる.環境自体もそうだし、我々自身も絶えず進歩なり、劣化なりしているわけだ.こうした状況下で安定したパフォーマンスを残すために必要なことをルール化することはできないのではないか.事前にすべての状況を予測できないということもあるだろうし、身体に関わることは極めて個別性が高く、万人(とまではいかなくても多くの人)に共通する事柄などはほとんどないからというのがその理由だ.
こうしたことを持ち出すのは、自分が最近大西君、竹葉さんとやった研究がベースになっている.この研究では単純作業を2000回以上もやらせたときのパフォーマンスの向上、スランプの脱出などがテーマになっている.詳しいことはこの論文を読んでもらうしかないのだが、長く美しい指を持つこの被験者のスランプの原因はまさにその指にあったし、そこからの脱出はその長く美しい指に対する処置であったからだ.これはなかなか一般化できないスランプ克服法だ.加えて、長い指ならば必ず彼女が陥ったタイプのスランプに遭遇するかと言えばそうとも言えない.それは彼女なりの作業方法の中でのみ生じる問題であり、他の作業方法の中では生じない可能性が高いからだ.

さて、状況に対する敏感性、および調整というのは、聞く人が聞けば、そんなのGibson、佐々木正人らの生態心理学者がずっと言い続けてきたことだ、という反応がくると思う.その通りだ.本人もゼミの場でそれを言いながら、まさにオレはGibsonianだ、と感じた.また学習のレベルとそこでの獲得すべき知識に関して、すなわち初心者レベルはルールでもOKだけど、その先の知識は全くルール化できないというのは、認知科学批判で有名なヒューバート・ドレイファスがチェスを題材して30年ほど前に語ったことと同じである.個人的な話で言えば、こういうことがすらすら出てくるようになった自分がうれしい.以前に読んだこと、そしてそのときにはまともに頭に入らずに、どちらかと言えば反感を持っていたことに対して、今は自らの研究を通して深いレベルで理解できるようになったというのがうれしいというわけだ.

さてゼミでの三宅君はさらに、状況敏感性や調整能力自体を教えることはできないのか、またメタ化、抽象化することにより、それら熟達者の知恵を伝えることはできないのか、と突っ込んできた.すばらしい突っ込みだと思う.

さてこれに関するオレの答えは、「わからない」だ。そういう可能性がゼロなのか、多少はあるのか、今の技術ではだめなのか、ここらへんは実証的な問題になると思う.ただ簡単でないのだけは確かだ.このやり取りの中で思い出したのは、佐伯胖先生と坂元昴先生が大昔に行った対談だ.そこでは教育工学者の坂元先生がとにかく教える方法というのを考えだしたい、教えることができないなどという消極的な態度ではまずいということを主張し、もし認知研究により認知、学習のプロセスが詳細なレベルでわかるのならば、それを教えることは可能ではないかという問いを佐伯先生に投げかけた.佐伯先生の答えはこれまた面白くて、「誰かを風邪にさせようとして、熱を出す薬を飲ませ、咳が出る薬ものませ、くしゃみや鼻水を誘発する薬を飲ませたとする.そして事実そのようになったとする.しかしそれは風邪をひくということとは異なるはずだ」というものだった。つまり外見的な、行動レベルの事柄でどれほどそれらしく振る舞わせたとしても、人間の知識というのは理解や納得、その人なりの必然性というものから生み出されるものなのだということ.この議論は実はサールの中国語の部屋の論文よりも前に行われているはずだが、まさにサールが主張したかったポイントが教育と学習という文脈でなされているところが面白い.ゼミの中ではこんな話をしながら楽しく議論が進んだ.

これとうっすらと関連するのが、最近朝日新聞のBeに載った福島大学陸上部の監督の話だ.この大学はオリンピック候補が何人も出る、陸上のCOEみたいなところだ.で、この監督もはじめは根性、気合いだけでやっていたらしいが、アメリカでカール・ルイスのコーチをしていた人に師事し、何をすべきかを学んだらしい.しかしながらこれを部員たちになかなか伝えることができないまま何年も何年も苦労していたとか.ところがある年にすばらしい選手に出会い、彼女とのやり取りの中で、ついに伝えたいことを伝えられるようになったという話だ.これは野中郁次郎のSECIモデルのようにも思える.暗黙知としてこの監督が持っていた知識が優秀な選手との出会いにより共同化され、それがきっかけとなって一般化された表出が起きている.ちなみに「ポン、ピュン、ラン」という言葉(オノマトペ)に集約されるのだそうだ(このオノマトペを形式化と呼ぶのはかなり抵抗があるので、一般化された表出としておいた)。ただここでも大事なのは「ポン、ピュン、ラン」というのは、素人や初心者にはやはりうまく通じないのではないかということだ.


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