精神分析を見直す

2008/5/3

精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.

確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。

こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.

その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.

もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.

よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.

ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.


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