「わざ言語」(生田・北村編)を読みながら(2)

2012/7/4

わざ言語についての第二稿.

言語の利用については,現在のところ自分は次のように考えている.わざの指導における通常の(比喩を含まない)言語表現というのは,特徴記述的にならざるを得ないのではないかと思う.手を強く振るとか,重心を前に移すなど等々.こうした記述は現象全体を特徴に分解して,その特徴次元の値をおおざっぱにでも特定しているという意味で初心者にも伝わりやすい性質を持っている.しかしながら,技の体得というのは身体全体の協調関係を学習するということであり,こうした記述的、分析的言語では語り尽くせない,語り尽くそうと思うと膨大な記述語彙が必要になり,結果として伝わらないという宿命を帯びているのではないだろうか.またこの種の言語利用は一定の域に達した学び手の持つ全体性を崩壊というのは言い過ぎだが,劣化させる危険性も含んでいると思う.

一方,比喩的(figurative)な表現と言うのは,分析的でなく,厳密性に欠けるのだが,総合的、直示的性質を持っていると思う.リンゴを知らない人に、「赤くて,丸くて,甘くて,・・・・」という代わりに,リンゴそのものを持ってきて「これ」というのが直示的な指示の仕方だ.直示的な指示においては,言語化の難しい,各特徴次元の関連性や曖昧性を一発で伝えることができる.わざ言語は比喩的であるので,直示とは異なるのだが,簡単な言語化を阻む,熟達者の動作の全体性,統一性を一発で伝えると言う意味においては同じような働きを持つのではないだろうか.

こうした観点から興味深いのは,スケートのコーチをしている結城さんのインタビューだ.いろいろなことを言っているのだが,彼が大事にするのは体験の豊富さと、それを感じる感性だ.なぜそれが大事かは上のことを考えるとよくわかるような気がする.わざ言語は直示なのだから、それの指示する対象、動作を知らなければ何の効果も持たない.その対象、動作を体験しておくこと,これがまずわざ言語が有効に働くための第一条件となる.もう一つの条件は,その体験をした時の自らの体の感覚に鋭敏になるということ、つまり感性を磨くということだ.自らの体の状態がわざ言語で指示された動作と一致するのか否かを判断する感性が必要になる.


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