わざ言語を読みながら(3)

2012/7/7

さて本日のゼミはなかなか衝撃的だった.

今日はゼミ生の須藤君が、「わざ言語」の本の中での、わざ、技能、技術などの用語が未定義で用いられることに業を煮やし(?)、ライルの原本(邦訳)にあたって検討してきた.ライルはまずintellectとintelligenceの区別を明確にする.そして主知主義者たちは、intellectの探求のみを行ってきたことを徹底的に批判する.こういうとintellectはknowing thatで、intelligenceはknowing howのことだということになる.ここらへんはある意味で常識化していることだと思う.ちなみにintellectは知性、intelligenceは理知と訳されているが、別の語感があるように思うので、ここでは原語をそのまま使うことにする.

驚きはそこでライルが挙げる例である.行為の中で誤りを見つけ、それを修正したり、反復試行の中でそれを改良し、教訓を得ることがintelligenceである、というのもかなり驚きなのだが、自ら真理を見いだす能力を、さらに真理を見いだした後にそれを組織的に利用する能力、という例もある.思慮深さとか、鋭敏さとか、そういういわゆる身体領域とは別の事柄の中にもintelligenceすなわちknowing howが存在するというのである.そしてこうしたknowing howそれ自体には真理かどうかという判定基準は使えないと述べる.

つまりknowing howに確かに身体知は含まれるかもしれないが、身体知や自動化された行為だからといってknowing howというわけではないし、knowing howは身体知や自動化された行為を指しているというわけでもないということだ.またこれは佐伯先生が以前からいっていたことであるが、knowing howと手続き的知識、knowing thatと宣言的知識という対応も全くの的外れということになる.手続き的に書き下した手順のようなものは、無論knowing howではない.

つまり何か生み出されたもの=intellect、生み出す原動力、プロセス=intelligenceということなのだ.

こうしたことから考えると、(これはさらに驚きだったのだが)以前に書いた記事で熟達は状況を感じ取る力とそこから調整する力と書いたが、ライルの定義はまさにそれそのものではないのだろうか.

きちんと読まずに人の言ったことの上に乗って議論することの怖さを強く感じた次第だ.なお以上述べてきたことは,私の憶測をたぶんに含んでおり,Ryleや須藤くんの意見とは異なっているかもしれないことをお断りしておく.


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