会田誠の息子の話を読んで学校の機能を考える

2017/4/5

だいぶ前に,会田誠の個展(六本木ヒルズ)に行ったついでに『カリコリせんとや生まれけん』(幻冬舎文庫)を買って読んだのを,少し前に読み返した.いろいろと書きたいことはあるのだが,彼の息子の話(彼の妻による)が大変に印象的だった.

彼には寅次郎という名前の息子がいる(今はもう大学生くらいかな,都美で作品を撤去させるさせないでもめたが,この本の当時は小学1年生).学校では完全な逸脱者で,先生の言うことは聞かない,席に座っていない,(小1のくせに)先生に口答えする,恐ろしく大人びたことを言う(校長に直談判、学校粉砕等々),教室で全裸になるなどで、学校からは専門家に見てもらって、特別支援学級に行くことを勧められている.しかし、家では確かに聞かん坊であり,変わったことをするが,別段特殊というわけでもないという(会田夫妻談).母親は学校の教師とのやり取りに疲れ果て,ノイローゼになり,それから皮膚炎にもなり(夫談)、『死にたい』(たぶん冗談)と何度も口にする.なにやらこの奇行は父親譲りなんだそうだ.

さてこれを読んでいると,大学院時代にMichael Coleが書いていた論文を思い出す.グループ生活では全く問題ない、逆にリーダー的な存在である子どもが、学校の中では問題児とされ,(名前は忘れたけど)「なんとか障害」とされているというやつだ.覚えている限りでColeたちはこれが学校とは別の有能さを示すものであるというような、ある意味ヒューマニスティックな結論を出していたように思う.

しかし、問題はそういうことではないように思える.それは学校というものが持つ機能の話だ.教育社会学者の竹内洋(元京大教授)は,学校の持つ社会的機能は2つである(2つしかない!)と述べている.1つは社会化で,もう1つは選別である.二つ目の方はいろいろとあると思うが,1つめは多くの人が納得することだと思う.社会でちゃんと生きられる人間を育てるというのは,教育という分野に税金を山ほど使うことの根拠となる大事なものだ.でも簡単に言うと,「黙って言うことを聞け」という話だ.教員採用試験という,この常識の度合いを測るテストによって選ばれた先生たちは(別に悪い意味ではなく)きわめて常識的であると思う.よってこの人たちが思うような社会化が教室でなされれば,(大きな変革がない限り)生徒たちはうまく社会適応できるであろう.

当然のことだが,そこでいう社会化とは,支配者の思惑の中での社会化に過ぎないということも頭に入れておく必要があるだろう.この思惑とは,自分たち支配者が決めた規律に従え、反抗するな,その根拠を問うな,というものだ.教師は一人ひとりのことなんかかまってられないし,そんなことをいちいちするよりも、まず自分を見習えみたいな感じで進むのが効率的だ.まことに情けない,と歯ぎしりする方もいるだろうが,少なくとも日本で社会生活を送るというのはそういうことだ.それにしたがわなければ特別な場所に送られるということだ.

そういうところからはじき出されたのが寅次郎くんだと思う.正直,どうしようもない気もします.いろんな病名が増えて,その判定をする資格保持者が増えて,「ちょっと変わった子」では許されなくなってきたわけですね.これについては,親が逞しくなる以外の方法はないかな.


etc, 教育 ]

ポランニーから見るプロジェクション:棲み込み

2017/4/5

さて近位項として捉えたものを遠位項に投射するということは,遠位項の世界の中に自分の感覚を飛ばすこと=プロジェクション(投射)すること,となる.ということは,遠位項の中に自分の感覚が存在することになる.世界の中の対象である遠位項の中に自分の感覚があるということは,言い方を変えれば,遠位項のある世界に自分が「棲み込む(dwell in)」ということだ.

このように考えると,棲み込みは身体化(embodiment)とも密接に絡むことになる.対象世界の中に自分の感覚,認識を投射することで,世界を内在化=身体化するということだ.これによって対象世界の動きが自分の身体の動きのように自然なものとなり,なぜそう動くのかを直感として理解できるようになる.ここでは近位項=感覚はもう意識されない,暗黙化,私秘化されている(ここらへんは,佐伯さんの擬人化なので,これもまた別エントリーで書きますけど,佐伯さんの90年代くらいに顕著に表れていた主張とポランニーはとても似ている).

このように言うと大変に神秘的なもののように聞こえるかもしれないが,ごくごく当たり前のことではないだろうか.例えば前のエントリーで書いたような杖のことを考えてみよう.杖を使っている人はそれが何か障害物に当たった時には,その障害物を感知するのであり,自分の手のひらの感覚はよほど極端なもの,あるいはありえないもの(電気ショックとか)でない限り,意識の外にあるのではないだろうか.

視覚もそうだが,これは別エントリーで書くので,聴覚を取り上げてみる.ここでも杖と同じことが起きる.実際には鼓膜の振動,耳小骨,蝸牛の振動,活動が近位項となる.しかしこれを感じる人はいない.音の発生源=遠位項が直接に感じられる(杖同様,あまりに異常な刺激,極端に大きな音などの場合は,耳が痛くなる,つまり近位項を感じる).

このように極端な場合を除けば,ある程度慣れ親しんだ近位項=感覚は私秘化,暗黙化される.つまり意識の外に出てしまうのである(暗黙知というのはこのことを指すわけではないことに注意).すると感覚を与えていた遠位項が自分の目前にある,あるいは自分が遠位項のなかに入り込んでいる,つまり棲み込みという感覚が生み出される.

こうした現象の脳内機序については,「脳の中の身体地図―ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ」でさまざまな例が見られるボディマップの更新,またこの本の中で紹介されている入来らの研究が参考になると思う.


ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項

2017/4/4

マイケル・ポランニーといえば「暗黙知の次元(The Tacit dimension)」という連想がすぐになされる.それで暗黙知=言葉では語れない知識があるということになり,それを明らかにしよう,明示化・公共化しようということを言う人もいる.これについてはいろいろと議論があるのだけど,今回はそういう話ではなく,プロジェクション・サイエンスとの関係を考えてみたい.

実はプロジェクション・サイエンスを真面目に考えられそうかかなと思った,幾つかのきっかけの1つはポランニーの上記の本なのだ.彼はその中で近位(近接)項と遠位項(遠隔項)という概念を持ち出す.これらは心理学者には珍しい話ではないのだけど,他ではあまり聞かないかもしれない.彼はメルロー=ポンティも使った盲人の杖を例に出す.杖の先に何かの障害物,例えば壁にあたり,その振動が杖を持つ手のひらに伝わる.この時,手に感じるものが近位項であり,その近位項を生み出した壁が遠位項となる.プロジェクション・サイエンスの言葉で言えば,近位項=ソース(感覚,その表象),遠位項=ターゲットとなる.

近位項=手のひらの感覚自体は,遠位項=壁とはどういう意味においても類似していない.だから近位項をどんなに詳しく解説しても,壁は現れてこない.しかしこれの間のつながりを人は生み出している.これをポランニーは,投射,プロジェクションと呼んだ.そして投射は西欧哲学の中でまともに取り上げられたことはないが,確実に存在する重要なものであると述べている.そして理解の背後には必ず投射が存在していると指摘した.

(この「投射」の下りなんだけど,20年以上前にこの本を読んだ時に,赤線でしっかりとマークしてある.そのとき大事だろうなと直感的に思ったのだけど,数年前に読み返すまで全く記憶に残っていなかった.でもプロジェクション・サイエンスのことを考え始めたときに,「なんかポランニーは読まないといけない」とか,そういう形で思い出した.面白い.)

この考え方は人の認識の様々な局面に応用することができる.文章理解で考えてみよう.私たちが文を読むときに直接感じ取れるのは,その文の単語,文法そういったことである.これらは近位項となる.一方,文はある状況,状態を記述している.これが遠位項となる.近位項として触れるもの自体は,それが記述する状況とは何の関係もない.例えば,「太郎は眠くなったのでベッドに向かった」という文を構成するいかなるものも,現実の太郎,ベッド,眠さ,向かうこととは類似していない.しかし私たちは受け取った近位項から,それが記述しようとする状況という遠位項へとプロジェクションを行うのである.そしてこの時に初めて文が理解されたと言える.

さてこのように考えると,遠位項が意味であり,近位項はその構成要素であるかのように考える人がいるかもしれない.しかしそれは間違いだと思う.近位項は遠位項を前にした時の身体感覚なのであり,これを抜きに遠位項だけを理解することはできない.例えば盲人は杖から伝わる手のひらの感覚抜きに,壁を感じる事,理解する事ができるだろうか.それは無理な話だろう.だとすると二つのつながり,包括的理解が意味なのであり,どちらか一方が意味的な優先性を帯びているわけではない事がわかる.

近位項としての身体感覚と遠位項としての対象,状況,世界との間の関係は,視覚を例にとるとさらに面白くなるけど,これもまた長くなると思うのでまずここで一回区切っておこう.


「下へ倣え」でうまく行きますか?

2017/4/4

以下のものだいぶ前に書いて途中にしていたものです.

民間よりも退職金が多い,ということで国家公務員,そして地方公務員のそれが削減された.そういうことで早期退職者が増えた.生活保護をもらっている人の方がリッチとか言うことで,生活保護の受給水準も引き下げらた.国立大学勤務の友人たちは,しばらく前には何も悪いこともしていないのに10%以内(大学によっていろいろ)の給料(ボーナスだけとか、収入全体とか,これも大学によるらしい)を削減された.公務員以外,生活保護受給者以外の人は喝采しますか.また早期退職した教師や警察官は『決して許されざる』(下村文科大臣)人たちで、バッシングでもしますか.
上記に同意する人は自分の不明を恥じ,心底考えを改めるべきです.
こういうことを続けていくと,人の生活のレベルがどんどん下がっていくことは明白でしょう.教員の退職について考えてみれば,3月まで働き続けて150万程度の減少となる.これはその年齢の教員の3ヶ月分程度となるのではないでしょうか.子どもがかわいければ,3ヶ月程度の給料は我慢しろと言えるのでしょうか.生活保護受給者よりも少ない給料で働かす会社はどういう経営をしているのでしょうか.
こうやって生活のレベルがどんどん引き下げられる.定職に就けなくて,家庭を営むことが困難な人たちが増えている.こういう人たちにならって、みんながそのレベルに行くことが公平なんでしょうか.公務員が下がったのだから,民間のうちも下げる.すると公務員だけ高いとなり,また公務員の給与がまた下がる.そういう負のスパイラルが始まります.

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