ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項

2017/4/4

マイケル・ポランニーといえば「暗黙知の次元(The Tacit dimension)」という連想がすぐになされる.それで暗黙知=言葉では語れない知識があるということになり,それを明らかにしよう,明示化・公共化しようということを言う人もいる.これについてはいろいろと議論があるのだけど,今回はそういう話ではなく,プロジェクション・サイエンスとの関係を考えてみたい.

実はプロジェクション・サイエンスを真面目に考えられそうかかなと思った,幾つかのきっかけの1つはポランニーの上記の本なのだ.彼はその中で近位(近接)項と遠位項(遠隔項)という概念を持ち出す.これらは心理学者には珍しい話ではないのだけど,他ではあまり聞かないかもしれない.彼はメルロー=ポンティも使った盲人の杖を例に出す.杖の先に何かの障害物,例えば壁にあたり,その振動が杖を持つ手のひらに伝わる.この時,手に感じるものが近位項であり,その近位項を生み出した壁が遠位項となる.プロジェクション・サイエンスの言葉で言えば,近位項=ソース(感覚,その表象),遠位項=ターゲットとなる.

近位項=手のひらの感覚自体は,遠位項=壁とはどういう意味においても類似していない.だから近位項をどんなに詳しく解説しても,壁は現れてこない.しかしこれの間のつながりを人は生み出している.これをポランニーは,投射,プロジェクションと呼んだ.そして投射は西欧哲学の中でまともに取り上げられたことはないが,確実に存在する重要なものであると述べている.そして理解の背後には必ず投射が存在していると指摘した.

(この「投射」の下りなんだけど,20年以上前にこの本を読んだ時に,赤線でしっかりとマークしてある.そのとき大事だろうなと直感的に思ったのだけど,数年前に読み返すまで全く記憶に残っていなかった.でもプロジェクション・サイエンスのことを考え始めたときに,「なんかポランニーは読まないといけない」とか,そういう形で思い出した.面白い.)

この考え方は人の認識の様々な局面に応用することができる.文章理解で考えてみよう.私たちが文を読むときに直接感じ取れるのは,その文の単語,文法そういったことである.これらは近位項となる.一方,文はある状況,状態を記述している.これが遠位項となる.近位項として触れるもの自体は,それが記述する状況とは何の関係もない.例えば,「太郎は眠くなったのでベッドに向かった」という文を構成するいかなるものも,現実の太郎,ベッド,眠さ,向かうこととは類似していない.しかし私たちは受け取った近位項から,それが記述しようとする状況という遠位項へとプロジェクションを行うのである.そしてこの時に初めて文が理解されたと言える.

さてこのように考えると,遠位項が意味であり,近位項はその構成要素であるかのように考える人がいるかもしれない.しかしそれは間違いだと思う.近位項は遠位項を前にした時の身体感覚なのであり,これを抜きに遠位項だけを理解することはできない.例えば盲人は杖から伝わる手のひらの感覚抜きに,壁を感じる事,理解する事ができるだろうか.それは無理な話だろう.だとすると二つのつながり,包括的理解が意味なのであり,どちらか一方が意味的な優先性を帯びているわけではない事がわかる.

近位項としての身体感覚と遠位項としての対象,状況,世界との間の関係は,視覚を例にとるとさらに面白くなるけど,これもまた長くなると思うのでまずここで一回区切っておこう.


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