新大学入試テスト

2017/5/19

新しい大学入試制度が始まると言われている。これの問題例が最近公開された。国語は確かにこれまでの普通の国語問題とは異なり、文章中に散在している情報をある観点から参照して、まとめて書くと言うものだった。小学生、中学生がやる全国学力調査のB問題というやつに近いと思いました。

それで2つほど考えたこと。採点基準が書かれていたけど、必要な事項が参照されているかどうかというものが多かった。これならば別に書かせる必要はなく、選択肢などでも可能かなと思います。ある意味採点は楽になるのですが、これのだけのために膨大な数の論述(?)答案の採点をやる必要があるのだろうか。また、3つ触れなければならないポイントがあったとしても、その書き振りなどによって点数差が出るのだろうかということも気になりました。とにかくそういう単語から構成されていれば良いというのであれば採点は楽ですが、もし上手に(?)書けているものと、そうでないものを区別するということになれば、採点はものすごく大変だし、主観的になることを免れないかなとも思います。

もう1つは問題そのものの性質。大筋、市の作成したガイドラインに、個人の権利、自由の立場から反対する親と、公益、公共の観点からガイドラインに賛成の娘の対話となっている。それで、最後の問題は、その娘の妹になったつもりで、姉を擁護する立場から必要なことを参照しつつまとめなさいというものです。なんか、文科省お得意の忖度かなぁと思いました。


教育 ]

ウィトゲンシュタインの火搔き棒

2017/5/4

先日、図書館で恐ろしく長い名前の本、「ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」(ちくま文庫)を借りた。世上名高いとあるけど、ぼくはまったく知りませんでした。確かに同時代の人でドイツ、イギリスと関連が深いのだけど、そもそも二人に親交があったということ自体知りませんでした。読めばわかりますが、まあ親交と言ってもたった一度ケンブリッジの研究会というセミナーの場だけであり、親交というよりはタイトル通りの戦いのようなものなのですが。

いろいろとメモを取ったり、考えながら読んだので1週間近くかかりましたけど、これが面白い面白い。訳者あとがきにも書いてありますが、この本は3通りで楽しめます。1つはポパーやウィトゲンシュタインの伝記みたいなものとして読めます。特に後者の家があまりにすごいので腰を抜かすほどです。また両者とも20世紀の巨人であり、卓越した頭脳を持った人なのですが、同僚にはなりたくない(絶対に)というほどの性格の持ち主であることにもびっくりです。ぼくは大学に40年くらいいますし、いろいろな学会などに出席し、人格破綻者と言えるような人を数名見てきましたが、この二人は桁が違います。中学の軟式野球のエースとMLBのピッチャーくらい違います。

2つ目は、20世紀初頭のイギリス、ドイツの哲学という学問の風景が見事に描かれているという意味でも楽しめます。この時代のこの分野のことはぼくはほぼ門外漢に近いですけど(そういうと他の時代を知っているみたいに聞こえるか)、少しかじったり、名前を聞いたことある人がほぼ全員と言っていいくらい出てきます(ラッセル、ムーア、シュリック、マイノンク、ノイラート、エイヤー等々)。ここら辺の学問的関係、交友関係などがとてもよくわかり、これらの本にアタックするときの杖になってくれると思います。それにしても、まあ当たり前でしょうが、本当にすごいメンバーたちが膝を突き合わせて議論してたのだと感動してしまいます。各人の学説(例えばラッセルのdenotation)なども出てくるのですが、おおよその目安をつけるためには十分なものとなっています。著者はBBCの人だとか、すごいと思います。

3つ目は大戦間のウィーンの事情が、特にユダヤ人の迫害の歴史がよくわかるという意味で楽しめます。自由で、進歩的で、退廃的で、豪華絢爛でみたいなウィーンが、どうやってユダヤ人排斥、ヒトラー礼賛になったのかの一端がよくわかります。

訳者は書いていませんが、訳もとても素敵です。すらすら読めますし、訳注が短いけどしっかりしていて、日本語の参考文献なども充実しています。

オススメです。


プロクジェクションについての今日の気づき

2017/5/2

今日、プロジェクションについてわかった気がしたので、メモ書きみたいなものだけど、きちんと残しておきたいのでアップします。意味がわからないかもしれなけど、そこらへんはまた後日補足ということで。

    人の認識は不完全である(Change blindness, False Memory, Analogyなど「教養としての認知科学(4章)」)

    にもかかわらず、すべてを自分が認識しているという「錯覚」が生じるのはなぜか。

    それは実は錯覚ではない。今いる世界、状況を、認識に組み込むからである。もう少し詳しく言えば、今、世界にあるもの(知覚されているもの)は、自分の認識(推論、拡張、補填)と一緒のものとして扱われるのだ。

    実在(として感じるもの)=表象(推論、想像)+知覚しているもの

    このことを逆に言えば、自分の知覚は世界にあるものとなる(対称性推論)。

    表象(推論、想像)+知覚しているもの=実在(として感じるもの)

    つまり今自分が作り上げる表象は、世界にあるものなのだと。なぜなら認識は世界の補助の中で成り立つから。

    このモードの認識は、世界と認識が一体となっているからなのだ。

    既知のものが隠されていても、隠された背後にその延長があるとわかるのだ(Barsalouのシミュレーション)。

    そしてそれは世界自体と一体化されて知覚されるのだ。つまり世界に定位されるのだ。

    この世界との協調(錯覚?)がプロジェクションなのだ!!!

つまり、認識が今ある世界を含んでいるため、そこから推論されたものも、世界に実在しているものなのだと感じるのだ。