おもしろい研究

2017/6/25

学部でも、ゼミでも「おもしろい研究」をしましょうと言っている。本人自身が特におもしろいとも思わない研究の相談に乗るのは、苦痛だし、時間の無駄だと思う。卒論でも、修論でもかなりの時間をかけて、それに取り組む。その時に、本人自身が面白いと思ってない研究を続けることはかなり難しいのではないだろうか。また本人が面白いと思わなければ、それを訴えることができないから、聞いている教員も面白いとは(多くの場合)思えない。そうすると、アドバイス、指導もいい加減になり、何の意味もない時を過ごすことになる。

何を以っておもしろいかという第一条件は、少なくともその話をした時に(一部の)人が「へぇ」ということだと思う。当たり前のことを述べれば「へぇ」はないので、却下ということになる。学力は勉強時間に比例するとか、字を綺麗に書くと読みやすいというのは、全然面白くない。やらなくてもほとんど結果が分かっているからだ。学部生には、友達に話した時に「へぇ」と言ってもらえるようなネタでやってくれと、いつも言っている。

二番目の条件は、もう少し厳しいかもしれない。それは、「研究」というタームに関わることだ。「研究」というのは理屈が、原理が、仕組みがわかるということだ。そういうことがわかる可能性のないものは研究としては「面白く」ない。気温18度の時に分数の計算の間違いが減るとか、赤い色を見ると挑戦しなくなるとか、そういうことは少なくとも現時点ではその仕組み、原理、因果関係を解き明かすための道具が存在していない。また(おそらく)それを考えてもわからないと思う。そういうものも、「面白く」ない。よく「ここはやっていないので」というのがあるけど、それは理由にならないのもそこらへんにあるかなと思う。理屈が考えられそうもないことはやってもあまり価値がないから、誰もやらないのだと思う。

それで「おもしろい」研究というのは何かといえば、佐伯胖「認知科学の方法」の最初の章を是非読んでもらいたい。これほど明確に「おもしろさ」を語ったものはないと思う。

  • 縦糸:その分野の研究史
  • 横糸:時代精神
  • 斜め糸:対話相手、論争相手

こういうことが大事なのです。解説はやめます。原著にあたってください。

ちなみにおもしろさというのは人によって違うのではという意見があると思う。確かにその通りだと思う。ただ、ある論文を読んだ時に、一定レベル以上の研究者が十人十色ということはない。すごい研究は、大半の人が「すごい」と評価できる。ちなみに、僕の担当する大学院のコースは、ワークショップデザイン・開発を行う苅宿俊文、状況論の先端を切り開く高木光太郎、香川秀太、そして私という、あまりオーバーラップがない教員たちがいるが、年度末の学生の修論の評価で割れることはほとんどというか、全然ない。ある教員が面白いというのは、他の教員もほとんどの場合面白いとするし、ある教員がダメを出すものは自分が読んでもダメというのがとても多い。明示化することもできるかもしれないけど、ちゃんと共有はされているのですね。


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