認知科学会2017でのプロジェクションの大展開

2017/9/20

9月13日から金沢大学で開かれた,日本認知科学会大34回大会で「プロジェクションサイエンスの基盤と展開」というオーガナイズドセッションを開催した.最も広い部屋が割り当てられ,開始前は「ガラガラだったら・・・」などと考えていたが,100名を超える参加者があり,大成功だったと思う.

  1. プロジェクション科学の射程:ラバーハンド錯覚とミラーシステム
  2. 身体像の投射を用いた「自己所有感」と「自己主体感」のゆらぎ
  3. 腐女子の「女子ジレンマ」
  4. 仰向け状態におけるOWN BOTY TRANSFORMATION課題の計測
  5. 投射のトリガと認知過程:投射のソースと投射を促す要因・阻む要因に着目して
  6. 2歳児における自己顔部位の空間的定位~拡張現実を用いた新課題を用いて
  7. プロジェクションと熟達 ~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~

などの魅力的な発表があったからだと思う.発表してくださった方々に,心からお礼を言いたい.個人的には最初の嶋田さんの発表は,知覚・行為系において,何がプロジェクションされ,それはどう計算されるのかについて,明確な指針を与えていたように思います.

さて質疑応答において,浅田先生(阪大),鮫島さん(玉川)から,大変に挑戦的な質問を受けた.要するに「プロジェクションなんて概念いらないんじゃないの,これまでのうまくいくでしょ」みたいなことです.身内でやっていると,身内ながゆえにこうしたレベルの問題はあまり指摘されることがない(だってプロジェクションあると思って集う人たちだから).

さて一応企画者としてはこれに応えないわけにはいかない.そこで2つのことを申し上げた.第一に,私たちは科学者であるからして世界の実在は認めなければならない.一方,認知科学者として表象も認めなければならない.この2つはどうやって調和するのか,これを考えなければ人の心の包括的理解はできないのだと.表象は定義上頭の中というか,情報処理システムの中に出来上がるものである.しかしそうして出来上がったものが世界の中に実在として感じられる.例えば,目の前のコップを見るとは,頭の中にそれの表象を作り出すことである.しかし私たちは頭の中にコップを感じるのではなく,目の前に,つまり世界の中に実在するものとしてコップを認識する.これはいかにして可能なのかという問題だ.もし実在としてのコップがないのだとすれば,表象のコップを見て,その中の表象のコーヒーを飲んで,表象の上で癒されるということになってしまう.そうならないためには,出来上がった表象を世界に戻さなければならない.この働きがプロジェクションなのだ(野矢茂樹さんも,「意識という難問」で,この問題にアタックしている).

第2に申し上げたのは,私たちにとって世界はそもそもMixed realityだということだ.入力を受け,それに処理を加えることによりリッチになった表象が世界にプロジェクションされることにより,世界は違った色彩を帯びるようになる.つまり物理的な世界とは異なる世界が私たちの前に現れるのだ.そしてこの世界は,動物たちが作る,「食える」,「危ない」,「やれる」という生理的なものに基づくものだけでなく,尊敬・敬意,畏怖,共感,厳粛,美しさ,醜さ,懐かしさ,執着等々という,人間のみが作れる情報に満ちたものなのだ.今VR,ARを超えて,MR(mixed reality)という時代が来ると言われているが,私たちはそもそもが自分(達)が作り出した情報に彩られた世界(mixed reality)を知覚し,その中で行為を行っているのだ.そうした世界は,基本本能によって作り出された動物達の世界(ユクスキュルの環世界)とは異なったものだし,随伴性,効用,報酬に基づき世界を予測し,行為を行うロボットとも全く異なるものではないだろうか.これは川合さん@名古屋大学から教わった話だが,お墓の前で拝むロボットは作れるのか,というのがある.無論うまくプログラムしたり,訓練したりすれば,頭を下げたり,手を合わせたりするロボットは簡単に作れるだろう.しかしそれは私たちがお墓の前で拝むこととは本質的に違うはずだ.こうした違いは人間に固有な独特の意味を世界に投射するか否かに関わる問題なのだ,と述べた.

そしてこのことは認知科学が新しいステージにチャレンジすることにつながる.1970-80年代,全てを記号に置き換えて,それに対して明示的なアルゴリズムを適用することが知性であると考えられていた.これは非身体的認知と言えるだろう.しかし1990年代になると,ロボティクス,生態心理学,進化論,脳科学の影響のもとで,人の知性は身体的基盤の上に成り立っているということが様々な分野で明らかにされてきた.ここにも以前書いたかもしれないが,Barsalouの知覚的シンボルシステムというのは,まさにその代表格である.これは身体性認知科学という新しい学問領域を作り出した.この知見はめちゃめちゃに大事であり,否定されることがあってはならないと考えている.しかしながら,これらが作り出すのは動物の知性,あるいは動物的基盤を持つ人間の知性なのであり,人間的な知性にはたどり着いていないのではないだろうか.人間的知性にチャレンジするためには,前述した意味に彩られた世界を作り出す,プロジェクションを真面目に研究するしかない,というのが私(たち)の立場だ.

このステージに進むことにより,

  • 小説やドラマで泣く,笑う,勃起する
  • 幽霊を見る
  • 満腹なのにさらにケーキを貪る
  • 踏み絵を踏めずに亡くなる(踏んでしまい屈辱と後悔に塗れる)
  • 女性の下着に発情する
  • 着るはずのはない物をしこたま買い集める
  • バディたちに萌える
  • お墓の前で厳粛な気持ちになる
  • 主義主張,国家などのために命を投げ出す

などなど,大変に興味深い現象にアプローチできるのではないだろうか.

こういうことを考える機会を与えてくれた学会,浅田先生,鮫島さん,発表者,参加者の方,そしてプロジェクション仲間たちにお礼を言いたい.

(さて,こうやって書いていてふと気づいたのだが,これ(mixed reality)って大森荘蔵先生の「重ね描き」なの・・・・,もしかして)


掻い堀り(カイボリ)番組を見て考える

2017/9/6

掻い堀り(カイボリ)と読みます.これは池の水を全部抜いて,清掃したり,外来種の生き物を排除して,在来種を守るなどの目的でよく行われているようです.東京だと少し前に行われた井の頭公園での掻い堀りが有名です.

さて先週,家で遅めの昼飯を食べながら,なんとなくテレビをつけたら,掻い堀りだけで2時間番組を構成するという,奇想天外な番組が放映されていました.こんなことよく考えるなぁと笑っていたのですが,みはじめたら面白い,面白い.ものすごい大きな亀(こいつはカルガモの親を食べたりするそうです),魚(コイ,ライギョ,ガーとか)などが現れたりします.モデルガンまで出てきたりとか.自分も参加したくなりました.ちなみに番組は好評のようで「第4弾」とか宣伝していましたから,かなり人気なのでしょう.

それで掻い堀りの大事な目的な最初にも述べたように,在来種の保護,危険生物の駆除が目的ということで,外来種は見つけると駆除(運が良ければ動物園行き),在来種は外来種駆除の後に元の池に戻されます.なるほどこうやって生態系を保つのかと感心してみていました.

しかし違和感もいろいろと湧いてきました.この番組は生物進化にも変なメッセージを伝えるように思えます.純血の種というのはいるのでしょうか.人間だってネアンデルタールと交雑した言われていますしね.むろん人が管理しているものの中にはいるのかもしれませんが,それも進化の歴史から見ればごくごく最近になってのことですよね.そういう意味で,交雑は不自然という何か誤ったメッセージになっているのではとも思います.

確かに人間のせいで本来ならば同じ場所にいるはずのない生き物たちが一緒の環境で生活し,その結果絶滅,交雑が起きていることが少なくないわけです.それでその責任を取って生態系の保護というのがあるのだと思います.でもこれもおかしな気がします.上でも述べたように外来種との交雑,あるいは外来種による種の絶滅は生物進化の基本だと思います.これを人間が阻止してとなると,なんだか人間様のおかげで生きているという,およそ自然ではない姿が現れるのではないでしょうか.要するに「俺たち=人間が主役で,管理する」という,自然環境のポリスマンみたいな発想になっていないかというものです.

さらにこの番組のコノテーションには,結構まずいところもあるんじゃないかなと思い始めました.純国産は大切にされる一方で,外来種はまるで不純物,敵のような扱いを受けます.なんだかやっぱり純血がいいんだよね,みたいなメッセージに繋がったりしないのかなと思うわけです.日本には日本人だけ,それも国籍だけでなく,そもそもずっと日本人家系でないとダメみたいなやつです.なんか在特会の主張にもつながるような感じがしてきました.考えすぎなのかもしれませんが,一応書いておきます.

ひねくれているかもしれませんし,生物保護について素人ですので間違ったことを語っているかもしれませんが,そんなことを考えました.


etc ]

大学教育の誤ったメタファーと新しいメタファー(2)

2017/9/6

前回にupした際に,大学教育についての後編を書きますと言いました.前回は,厳選された素材を集め,きっちりと企画された講義体系により,規格品としての卒業生を作る,というのが,まるで工業製品を作るかのごとくに語られている,ということから,教育=工場モデルという,暗黙の概念メタファーが使われていることを指摘しました.

これを非難することはとても容易ですが,それだけに止まらない展望も必要かなと思います.なぜなら教育は専門家(教員)と直接的な当事者(児童・生徒・学生)だけに止まらず,その親族とか,卒業生など,様々な人を巻き込むものだからであり,そして何よりもその人たちは何かポジティブなメッセージを好むからです.

さてどんな工場メタファーを超えるメタファーが可能なのでしょうか.それは生態系メタファーです.正直言って,自分ではこれ以外大学の意味はないのではと思うくらいです.大学の学生は多様です.また大学の教員も多様です.そういう多様な人たちが共生しながら,新たな価値を生み出すというのが大学だという主張です.

地球全体が生態系であるのですが,例えば森とか池とかの自然環境,里山とかビオトープのような人工環境,そういうのが最もイメージしやすい生態系かなと思います.そこでは様々な生き物たちが生息しています.森の縁あたりには日当たりのいい場所を好む植物たち,川の中にも藻などの生き物がいます.森の奥の方に行くと下の方には日当たりが悪く,湿気も多い土壌を好むこけ,シダのような生き物たち,その一方で高さを競い合い,どんどん自らの丈を伸ばしてく樹木群,このほかにもこれらの植物たち,あるいはその排泄物を食らう小動物群,さらにはそれらを食らう大型動物たちがいます.またこれらの排泄物を利用して成長する生き物たちもたくさんいます.

さて,これを読んでいる方々,大学時代の仲間たちを思い出してください.上に述べた生態系,森とよく似ていませんか.鉄道の写真に夢中になるなんだか変なやつ,不器用であんまり大したことないけど努力だけは厭わないやつ,大学にほとんど来ないでバイトに精を出すやつ,中身のないけどなぜかかっこいいやつ,大言壮語ばかりして全く実質がともなわないやつ,頭はいいけど協調性に著しく欠けるやつ,なんだか知らないけど友達が山ほどいるやつ,等々,等々,等々.

さて教員の方は自分の同僚を覆い出してください.これも学生同様とても生態系,森と似ていませんか.カミオカンデのようなとんでもない施設を使って宇宙の起源を探ろうとする研究者,17世紀の体罰の研究者(それもイギリス!).ロボット使ってサッカーのプロチーム(それもW杯に勝つ???)を作る,モーリタニアで砂漠バッタ撲滅に尽力する研究者,アフリカの猿が道具を作ったとかいう研究者,等々,等々.どれもぼくには面白さが十分に分かっているわけではないですが,そういう人たちがたくさんいます.そしてぼくはこういう研究をする人たちを敬愛します.

こういう簡単な要約を拒む人たちがいっぱいいて,そこで自分の住む場所,ニッチを探すというのが大学ではないでしょうか.中にはどんな科目でも優を取れる人がいたり,逆にどんな科目でも落第スレスレみたいな人もいると思います.でもこうした人たちがそれなりに気に入った科目で少し考え,そして少し成長する,そんなのが大学ではないかなと思っています.ということで提案したいのが,生態系メタファーなのです.

前回に書いたものの背景にはこういう事情があります.こんな多様な学生とこんな多様な先生たちがいる中で,大学全体の入学ポリシー,教育ポリシー,卒業要件ポリシーを語れというのはどういうことになるのでしょうか.同じ丈の稲になれみたいなこんなポリシーが通用するのでしょうか.入る人間をどうやって選別するのでしょうか.教員全員に大学のミッションとしてある形の授業を強要できるのでしょうか,ディプロマポリシーとかいうものは,本当に測定可能なのでしょうか.

こんなところなら行かせないとか,そんなメタファーは通用しないとか,色々とご意見はあると思います.行かせないと思った父兄の方は行かせないのがいいかもしれませんが,どうぞご本人とご相談ください.こんな教育あるわけないだろうと吠える現場教員の方には,「想像力不足」とだけ言っておきます.文科省,及びその関連の方には,ものを考えるということにもう少し真剣に取り組むための基礎教育を受けるべきと言っておきます.


教育 ]