「教養としての認知科学」の刊行とその後

2017/3/31

このblogはほとんど休眠状態になっているので,これは自分の備忘録という色彩が強いけど,色々とあった2016年度もそろそろ終わりということで,いろいろと書きます.

2016年度の自分の研究にとっての最も大事なイベントは教養としての認知科学という本を東大出版会から出したことです(年度で言えば2015年度ですが).これは青山,駒場,ほかいろいろな場所の非常勤講師で語ったことをまとめたものです.そういう意味で教科書なのですが,いわゆる教科書ではありません.人の認知が,生成的であり,冗長であり,ゆえに揺らぎ,だから発達,熟達,学習が起きるのだということをまとめました.これはほぼ「事実」です.

ただこれだけを語ることはできないので,それの基本となる実験や理論などを各章に配置しました.そういう意味で,教科書的な部分,思想に関わる部分の2つの側面を持った本という,素敵な感じがする一方,どっちつかずみたいな感じもある本になったと思います.

ただ当初思っていた以上に好評で,幾つかの取材や,その後の出版のオファーがありました.さらに自分で驚いているのですが,1年程度で5刷まで行くような気配です(2017年3月で6刷り目).安くもないのに,この本を買ってくださった方には心より御礼を申し上げます.

この本の基本的なアイディアは,ダイナミカル宣言を行ってから2003年くらいに輪郭が出来上がり,その後のいろいろな知見で増強してできたものです.そういう意味で「ダイナミカル宣言」はこれで打ち止めにします.

さて増強は随分とできたのですが,その一方でこの本では全くカバーできなかった新しい潮流(プロセスとしての概念,プロジェクション,拡張した身体)も生まれています.これは7章に少しずつ書いていますが,むろん十分ではありません.今後は,これらの問題を自分の研究テーマにしたいと考えています.


The New Unconscious (0)

2010/4/21

思考を前頭葉から解放する、という言葉はここのページで使った記憶がある.しかし、思考はそうしたものではないということが徐々に明らかになってきている.思考は

  • 感情
  • 身体
  • 環境

の生み出す情報に強く影響を受けながら営まれていることがいろいろな研究から明らかになってきた.つまりきわめてダイナミカルということだ.

特に私が注目してきたのは、思考と無意識との相互作用だ.思考は理性の現れであり,プランやモニタリングなどの意識の作用によって注意深く制御されたプロセスであるというのが常識だと思う.しかし思考以外の大半の認知機能は、無意識的、潜在的な処理の産物である.そうしたことからすれば,思考だけが無意識とは無関連に営まれているとは到底考えられないわけだ.

こうした次第でだいぶ前から、洞察のプロセスが潜在的学習のプロセスであると主張してきた.簡単に言うと以下のようになる.人は失敗を通して徐々に学習し洞察に近づく.しかしこれはほとんど無意識的なプロセスであり,意識はその学習のプロセスにはほとんどアクセスできないどころか、潜在学習の成果とは全く正反対の評価を行ったりする.そして潜在学習が進みいよいよもう洞察目前となった頃に、このとても鈍い意識的な、顕在プロセスが「わかった」などと叫ぶ.

こうした考え方を洞察においてしたのは自分たちが初めてだと思うが,意識と無意識の関係について同様の主張をしている人たちは他にもたくさんいる.たとえば慶応の前野さんは「受動意識仮説」を3冊の著作を通じて(たとえばここ)提案し,この問題に切り込んでいる.また下條信輔さんは「サブリミナルマインド」などを通して、認知と無意識との関わりについて包括的な議論を展開している.

こうしたものを読んでいく中で,実験社会心理学の分野では古くから意識ー無意識の問題を扱ってきたこと,そしてここ20年くらいはBarghやオランダのグループが高次認知活動における無意識の役割についての研究を展開してきていることを知った.この一部は「無意識と社会心理学」という訳書にもなっている.

こうしたことから,この分野の研究をもう少し体系的に知りたいという願望が強くなってきた.今年,非常勤をしている大学院で十数名ほどの参加者があったということもあり,

R. R. Hassin,,  J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) (2005) The New Unconscious (Oxford)

を読むことにした.この本は、

  1. Fundamental question
  2. Basic mechanism
  3. Intention and theory of mind
  4. Perceiving and engaging others
  5. Self-regulation

の4つのパート、全19章からなる本である.読み始めてみたがなかなか楽しい.機会があるごとにメモ代わりにここに気づいたことを残しておこうと思う.


洞察ワークショップ

2009/8/31

日本心理学会で阿部慶賀さんが洞察に関するワークショップを開き,そのスピーカの1人として参加した.

東京電気大の寺井さんは仮説空間,データ空間という理論的なバックグラウンドから洞察を検討した.言語報告をさせるといわゆる「はまった」状態から突発的に「ひらめく」状態への変化が見られる.しかし詳細な眼球運動の分析を行うと,この飛躍のはるかに前から,人間は洞察をする方向へとシフトしていることが分かるというもの.だいぶ前に聞いた研究なのだが,やはりその意義は大きい.

中部大学の清河さんは共同で洞察課題を行わせたときの結果を発表した.共同というよりは人のものを見ることがどんな意義があるのかを検討した研究だ.二人で20秒ずつ交替でパズルを解く.この際,一切のインタラクションは禁止されている.このような条件で行うと,1人でやったときよりも成績がよくなるという.さらにおもしろいのは,20秒でいったん中止して,人のを見るかわりに自分のやったことを見るという条件は,1人でやったときよりもさらに悪くなるということだ.メタ認知を導入して説明をしようとしていた.この研究も結構前のものだけど,やはりおもしろい.人の失敗が成功を生みだすのだろうか,それとも人の(部分的な)成功が成功を導くのだろうか.いろいろと研究課題がわき出てくる.

青山学院大学の阿部さんは,社会的交渉における裏切り者検知という進化的に作り出されたバイアスが,ある種の洞察問題解決を阻害するという話をした.扱った問題は次のようなものだ(細部は違う).

太郎,次郎,三郎は土産物屋で1万円ずつ出し合って,3万円の品物を購入した.このお金を受け取った店員が店主にこのお金を渡しに行くと,5000円まけてあげなさいといった.この時店員はこの5000円の中から2000円をねこばばして,3000円を三人に返した.三人はこれを1000円ずつに分けて受け取った.さて,三人の出したお金は9000円×3で27000円,猫ばばした店員の2000円と会わせると29000円にしかならない.1000円はどこに行ったのでしょうか.

というものだ.この問題はかなり難しくて,自発的に解ける人はそれほど多くはない.阿部さんはこの原因が猫ばばという裏切り者がいるため,そこに執着してしまうことと考えた.そこで猫ばばではないような問題にこの話を変えたところ,成績がかなり向上したという.進化と洞察を結びつけようということらしい.

私は,洞察の突発性,驚きは,失敗からの潜在学習の成果を,それを意識が後から観察することに拠るものだ,という発表を行った.潜在学習や意識のコントロールを離れた認知は数多く存在する(偶発学習,潜在記憶,潜在学習などなど).だとすれば思考だけは潜在とは無縁だと考えるのはおかしい.実際,洞察が意識的なコントロールとは相性が悪いという報告は数多くある.ということで,潜在成分を含めたモデルを提案し,これを実証するために行ったサブリミナル刺激を用いた実験を報告した.これも古い.

コメンテータの三輪さん(名古屋大)はご自身の最新のデータも呈示しながらだったが,時間切れできちんと聞けなかった.こんどしっかり聞くことにしよう.

初日に午前中のワークショップと言うことで,開始15分前に行ったら,発表者以外の人は一人だけという状況で,これはどうなるんだろうと思ったが,最終的には20人くらいの方が聞きに来てくれた.このコミュニティが広がることを祈りたい.また阿部さんの努力に感謝したい.

その後,推論のシンポジウムのディスカッサントとして午後のセッションに出る.ここでは理研の入来さんや,霊長研の友永さんなど,本当にお久しぶりという方たちと合い,生産的なディスカッションをすることができた.もう1人のディスカッサントのSteven Slomanさんとも10年ぶりくらいでお会いした.ただこれらはほとんどシンポジウム前の話.シンポジウム自体は,企画者の坂本さんが「何でも推論なんだ」ということでいろんな推論を集めたとかいう程度なので,全体としてはあまり意味のないものであったと思う.


オノマトペ

2009/8/31

オノマトペ(onomatopoeia)という言葉はご存じだろうか.あまり一般的ではないらしいが,擬音語や擬態語を指す.擬音語というのは,ある状態に伴う音を言葉にしたもので,「どたばた」とか,「わんわん」とか,そんな言葉を指す.こうした言葉を聞くと,聴覚的なイメージが活性化し,印象的になる.擬態語というのは,音ではなく主にその状態の視覚的なさまを指す言葉で,「もじゃもじゃ」とか,「きらきら」なんていうのが典型的なものだ.こちらは視覚的なイメージを喚起し,通常の言葉にないインパクトが出る.つまりオノマトペはいわゆる言葉の意味という認知的な側面に留まらない,感性的な情報を伝えているようである.こうしたことを反映して,擬音語や擬態語で表現した文章はそうでないものに比べて記憶成績が向上するとかそんなことが知られている.

さてこれらは本当に聴覚的,視覚的なイメージを喚起するのだろうか.このことが気になった昨年のゼミ生の山崎陽子さんが実験を行った.さてワーキングメモリには,音声的な情報を保持するという音韻ループというものと,視覚的な情報を保持する視空間スケッチパッドと呼ばれるものがある.もし擬音語が聴覚的なイメージを喚起するとすれば,そればそれは音韻ループ内に展開されるし,擬態語に関しては視空間スケッチパッド内に視覚表象が展開されるはずである.よって,擬音語を記憶させるときに他の音声へも注目させたり,擬態語を記憶させるときに他の視覚情報へも注目させたりすれば,各々に負荷がかかり,記憶の成績は低下することが予測できる.こうした実験方法は二重課題(dual task)法と呼ばれ,古くから用いられてきた.

こうしたことで実験を行うと,擬音語を記憶させるときに他の妨害的な音声刺激を入れると視覚的な妨害刺激を入れたときよりも成績が悪くなる.一方,擬態語を記憶させるときに視覚的な妨害刺激を入れると,音声的なそれよりも成績が低下するが統計的にはその間に違いは見られなかった.

問題は擬音語の方ではなく,擬態語の方にある.どうして擬態語では視覚刺激が妨害にならないのだろうか.1つ考えられるのは,記憶リストとして用いた擬態語には視覚性の強い「きらきら」とか,「もじゃもじゃ」などのようなものもあったが,「すべすべ」とか触覚性の単語も含まれていた.触覚性の単語は視覚的な妨害は受けないはずだから,それらの単語の成績がよいために,視覚妨害の効果が出なかったという可能性がある.そこで視覚的な擬態語とそうでない擬態語に分けて分析を行ったが,いずれのタイプの擬態語でも再生成績に違いはなかった.

もう1つの可能性は視覚的な妨害刺激についてである.この実験ではパワーポイントのアニメーションを用いた運動的な視覚刺激が用いられた.こうした刺激の特性が妨害を生じさせなかった可能性もある.具体的にいうと,擬態語では運動的なイメージを伴う単語も用いられたが,そうでない単語が多数存在した.こうしたことから,運動系の擬態語はこの妨害刺激の干渉を受ける可能性があるが,そうでない単語は受けないということも考えられる.そこで運動系の擬態語とそうでない擬態語に分けて再生率を見てみたが,やはり差はなかった.

ということで,擬態語は

  • いわゆる視覚的な表象を活性化するとは言えない,
  • 視覚表象も活性化するがその他のモダリティの表象も活性化する
  • あるいは視覚妨害刺激が適当でない(この可能性はむろんつまらない)

いずれかの可能性ある.こんなことを8月26日から3日間行われた日本心理学会で発表してきた.鳥取大学の田中さん,名古屋大学の鈴木さん,法政大学の矢口さん,東京大学の針生さん,京都大学の楠見さん,青山学院大学の重野さんから示唆に富むコメントをいただいた.このおかげで今後の展開の糸口が見えてきた.具体的には,以下のような可能性を検討する必要があると思われる.

  • (少なくとも視覚的な)WMへの干渉課題は保持時に行うのが普通(<ー田中さんのコメント)
  • もう少し標準的な二重課題の妨害刺激を用いた方がよい
  • 擬態語は被験者ごとに,視覚,聴覚,触覚性の度合いを各単語について聞いて,それをもとに分類をした方がよいのでは?(<ー針生さんのコメント)

やはり学会は楽しい.

現在は,ゼミの根岸くんが記銘語を視覚呈示した場合(上記の実験は聴覚呈示)に同様の効果が得られるかを検討している(どうもちがうようだ・・・).


Rational animals, irrational humans

2009/5/26

標記のような題名の本に1章を書いたが出版された。これは昨年2008年の2月に慶応大学のGlobal COE(代表:渡辺茂先生(表紙の左の人は渡辺先生に少し似ている))で国際シンポジウムを行ったときの発表者が1章ずつ書いたものをまとめたものだ。

ここで私は,洞察研究を通して,創発の4条件を検討した。複数の内的資源が中央制御を離れて,ある状況下で同時活性し,環境と相互作用することを通して,新しいパターンを作り出す,これが創発だ。

4条件とは次の通り。

  1. 生成性:人間はプログラムされたこと以上のことができる。あるいはプログラム自体を作り出すプログラムを持っている。
  2. 冗長性:人間は一つのことを行うのに複数の手段を持っている。そしてそれらは同時に活性化する。
  3. 局所相互作用:人間の行動は意識によってコントロールされているわけではない。意識は潜在的な活動の一部をモニターするだけ(これはちょっと言い過ぎか)。
  4. 開放性:人間は環境と絶えず相互作用する。その相互作用こそが創発を支えている。
ほとんどこのことを言いたいだけで(というか,こんな大変なことを言うために),ここ10年くらい生きている。よかったら読んでください。ちなみに青山の図書館には寄贈しておきます。

講義,テレビ,経済,進化とかけて

2009/4/14

非常勤でここ4,5年くらい教えている大学がある.50-100名くらいの受講者がふつうで,一番多いときでも150名くらいだったと思う.ところが先日今期初めての講義に出かけたら,160名ほどはいる教室が満杯どころか,立ち見どころか,廊下に学生があふれていた.

こういうのはむろん大変なのだが,私としてはそれほど悪い気はしない.100名入る教室に10人未満とか,250名の巨大教室に40-50人ほどちらほらみたいなケースが,私の場合はとても多く,なんともやりづらい.人気がないんだろうなぁとため息をつく.こうしたことが多い私にとって,今回は未だかつてない入り方で,ついに私の講義の真価が伝わり始めたのか,と思うわけだ.

しかし今まで5年くらいやって,こんなことがなかったのに,昨年の講義の噂が突然広まるなんてことがあるのだろうか.まあないだろうねぇ.考えてみればいろいろと理由はある.まず曜日と時限が変わった.前は金曜5限などという,およそ人気のない時間にやっていたが,今年は木曜日4限だ.これは大きい.バイトは夕方からとすれば,4限は十分に可能な範囲だ.またその時間にやっている講義がどのようなものかも関係するだろう.つまり同じ時間に必修科目が少ないとか,おもしろい講義が少ないとか,ということも考えられるし,昨年までの時間帯は超人気のある講義が行われていた可能性もある.

こういうのはテレビ番組と同じだ.ふつうの人がまず見ない時間帯に放映すればどんなに立派なものを作っても視聴率は低い.また視聴率をとるには番組自体をおもしろくするというのもそうなのだが,他の局でおもしろい番組をやっていない時間帯にやるというのもあるわけだ.番組の価値(視聴率)は番組に内在する訳ではなく,その他の番組との関係によって決まる.

もっと言えば、ものの値段自体もそうだ,というのは経済の常識.だいぶ前になるけど,新聞に「ワケあり商品が大人気」とかいう記事が出ていた.ワケありは、半端もの、傷ものなどで、通常店頭に並ばない種類のものをさす.割れたせんべい,大きさが不揃いのイチゴ、足の折れたカニ、ちょっと裂けたタラコなどいろいろある.味などはまったく変わらないのに,出荷できないために今までは産地で消費していたとか,捨てていた代物だ.しかしこれをネットなどで通常商品の半額程度販売したところ、バカ売れだと言う.それはそれでいいのだが、あまりに人気になってしまい,その結果訳なしの商品が大量に残ってしまい,結果的にそれを値引き販売をせざるを得なくなり,訳ありも訳なしもほぼ同じ値段になったものもあるとか.

進化もそうだ.昔訳した「アナロジーの力」という本によれば、パンダは摂食面でも,生殖面でも決して優れているとは言えないそうだ.たとえば生殖ー>受胎可能期間は数日、餌は基本的に笹しか食べない.道徳的かもしれないが,生物として決してよい特徴とは言えないだろう.じゃあ、なんでこんな生き物が数百万年も生きているのか.それは彼らの生息する環境に競争相手がいないからだ.捕食者がいない,同じ餌を食べるたの生物がいない,こうしたことがパンダの生存を支えている.要するに、行き残るかどうかは、その個体自身の性質で決まるのではなく,他の生物を含めた環境に関係しているわけだ.これまた進化の常識.

こういう考え方は,構造主義とか,関係論とかいう見方と言える.つまり意味とか価値はそのもの自体に内在するわけではなく,他のものとの関係によって決まるというわけだ.下世話なネタでひんしゅく買うかも.


名古屋大学講義

2008/10/28

名古屋大学情報学研究科の三輪さんに呼ばれて,大学院で午後講義を行ってきた.10年くらい前に集中講義を行ったことがあり,講義は二度目だ.今回は名城線の名古屋大学前という駅があり,大変に便利だった.

いつもの創発認知の話の中の,
生成性(change blindness, false memory, analogy)
冗長性(確率推論,条件文推論,発達)
を取り上げて話した.話し方があまりよくなかったのか,自分も学生もあまりテンションが上がらなかった(ように思う・・・).

その後に八事の居酒屋で,同研究科の斉藤さん,川口さん,三輪さん,川合さん,および院生の方たちと一緒に飲んだ.話しはいろいろと盛り上がり(というか一人で酔っぱらって盛り上がった可能性もあり),伝統的認知科学の意義,潜在・無意識研究,などなど,楽しい会話をすることが出来た.新しいタイプの研究の方法論を開発する必要があることを強く自覚する.いつも思っていることなのだが,平均に巻き込まれることなく,個体の揺らぎと変化をしっかりと科学的に捉えるということだ.

帰りの電車があるので飲み会は8時くらいにお開き.その後まだ飲み足りずカップ酒2つ買い込んで新幹線グリーン車に乗車.音楽を聴きながらゆったりと考え,その後眠り,無事品川着.


精神分析を見直す

2008/5/3

精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.

確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。

こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.

その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.

もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.

よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.

ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.


学習=状況敏感性+調整

2008/4/30

先日大学院のゼミを行った.私の担当する社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース以外からも、文学研究科、経済学研究科、および他大学からの参加者などもいて、なかなかにぎやかな授業となった.さてここで三宅君@東大情報学環から面白い質問がきた.その前後の経緯から話すと、創発論者なのでとにかくきっちりと教え込むというようなことは嫌いだし、間違っていると思う、という発言を私がしたことから始まる.三宅君は教え込むということが本当に意味がないことなのかをかなりいい感じで聞いてきてくれた.

まずここで考えなければならないのは、学習がどの段階の話をやっているかということだ.本当の初期、あるいは初心者レベルの話であるのならば、ある程度の教え込みというのも効果があるのかもしれない.しかし、学習が進んだ段階で獲得すべき知識は、教えるべき先生もよくわからない、あるいはうまく表現できない、仮にしても有効ではない可能性が高いのではないだろうか.
こういう思いを強く持っていた私が言ったことは、
ある程度まで学習が進んだレベルでは、

状況(の変化)に対する敏感性、
そこからの調整
に関するスキルではないか、というものであった。つまり言葉で伝えられるようなレベル、ルール化して伝達可能な知識というのはおよそ初期レベルの話であり、そこからは外界の絶えざる変化、身体がもたらす絶えざる擾乱、こうしたものをうまく検知し、そこからの調整のための能力ではないかということだ.同じ場面は二度と現れない。いつでも少しずつ異なる.環境自体もそうだし、我々自身も絶えず進歩なり、劣化なりしているわけだ.こうした状況下で安定したパフォーマンスを残すために必要なことをルール化することはできないのではないか.事前にすべての状況を予測できないということもあるだろうし、身体に関わることは極めて個別性が高く、万人(とまではいかなくても多くの人)に共通する事柄などはほとんどないからというのがその理由だ.
こうしたことを持ち出すのは、自分が最近大西君、竹葉さんとやった研究がベースになっている.この研究では単純作業を2000回以上もやらせたときのパフォーマンスの向上、スランプの脱出などがテーマになっている.詳しいことはこの論文を読んでもらうしかないのだが、長く美しい指を持つこの被験者のスランプの原因はまさにその指にあったし、そこからの脱出はその長く美しい指に対する処置であったからだ.これはなかなか一般化できないスランプ克服法だ.加えて、長い指ならば必ず彼女が陥ったタイプのスランプに遭遇するかと言えばそうとも言えない.それは彼女なりの作業方法の中でのみ生じる問題であり、他の作業方法の中では生じない可能性が高いからだ.

さて、状況に対する敏感性、および調整というのは、聞く人が聞けば、そんなのGibson、佐々木正人らの生態心理学者がずっと言い続けてきたことだ、という反応がくると思う.その通りだ.本人もゼミの場でそれを言いながら、まさにオレはGibsonianだ、と感じた.また学習のレベルとそこでの獲得すべき知識に関して、すなわち初心者レベルはルールでもOKだけど、その先の知識は全くルール化できないというのは、認知科学批判で有名なヒューバート・ドレイファスがチェスを題材して30年ほど前に語ったことと同じである.個人的な話で言えば、こういうことがすらすら出てくるようになった自分がうれしい.以前に読んだこと、そしてそのときにはまともに頭に入らずに、どちらかと言えば反感を持っていたことに対して、今は自らの研究を通して深いレベルで理解できるようになったというのがうれしいというわけだ.

さてゼミでの三宅君はさらに、状況敏感性や調整能力自体を教えることはできないのか、またメタ化、抽象化することにより、それら熟達者の知恵を伝えることはできないのか、と突っ込んできた.すばらしい突っ込みだと思う.

さてこれに関するオレの答えは、「わからない」だ。そういう可能性がゼロなのか、多少はあるのか、今の技術ではだめなのか、ここらへんは実証的な問題になると思う.ただ簡単でないのだけは確かだ.このやり取りの中で思い出したのは、佐伯胖先生と坂元昴先生が大昔に行った対談だ.そこでは教育工学者の坂元先生がとにかく教える方法というのを考えだしたい、教えることができないなどという消極的な態度ではまずいということを主張し、もし認知研究により認知、学習のプロセスが詳細なレベルでわかるのならば、それを教えることは可能ではないかという問いを佐伯先生に投げかけた.佐伯先生の答えはこれまた面白くて、「誰かを風邪にさせようとして、熱を出す薬を飲ませ、咳が出る薬ものませ、くしゃみや鼻水を誘発する薬を飲ませたとする.そして事実そのようになったとする.しかしそれは風邪をひくということとは異なるはずだ」というものだった。つまり外見的な、行動レベルの事柄でどれほどそれらしく振る舞わせたとしても、人間の知識というのは理解や納得、その人なりの必然性というものから生み出されるものなのだということ.この議論は実はサールの中国語の部屋の論文よりも前に行われているはずだが、まさにサールが主張したかったポイントが教育と学習という文脈でなされているところが面白い.ゼミの中ではこんな話をしながら楽しく議論が進んだ.

これとうっすらと関連するのが、最近朝日新聞のBeに載った福島大学陸上部の監督の話だ.この大学はオリンピック候補が何人も出る、陸上のCOEみたいなところだ.で、この監督もはじめは根性、気合いだけでやっていたらしいが、アメリカでカール・ルイスのコーチをしていた人に師事し、何をすべきかを学んだらしい.しかしながらこれを部員たちになかなか伝えることができないまま何年も何年も苦労していたとか.ところがある年にすばらしい選手に出会い、彼女とのやり取りの中で、ついに伝えたいことを伝えられるようになったという話だ.これは野中郁次郎のSECIモデルのようにも思える.暗黙知としてこの監督が持っていた知識が優秀な選手との出会いにより共同化され、それがきっかけとなって一般化された表出が起きている.ちなみに「ポン、ピュン、ラン」という言葉(オノマトペ)に集約されるのだそうだ(このオノマトペを形式化と呼ぶのはかなり抵抗があるので、一般化された表出としておいた)。ただここでも大事なのは「ポン、ピュン、ラン」というのは、素人や初心者にはやはりうまく通じないのではないかということだ.


論文2つほど刊行

2008/2/28

2月も終わりになって、昨年の夏休みにもがき苦しんだ(とまではいかないけど)論文が無事刊行された。

1つはスキルの熟達に関わるものだ。これはレゴブロックを使って簡単な形を作ることをひたすら繰り返して、その過程で何が起こるのかを詳細に分析するというものだ。数秒(これは熟達の最終期あたりだけど)で終わる課題を数千回行わせると、ものすごいことが起こる。とにかく見事、何やっているのかよくわからない、そのくらいうまくなる。このもんのすごいことをなんとか、客観的に、科学的に解明できないかというのが研究の出発点だ。

これはそもそも東工大の名誉教授で、退官後に中京大学で教鞭を執られた木村泉先生の猛烈にすごい研究に触発され始めたものだ。先生はミソサザイという折り紙を15万回ほど自分が被験者となって折り、この達成時間の分析をかれこれ7,8年前くらいの認知科学会で発表された。

一般に練習による遂行時間の減少は、練習のべき法則(the power law of practice)と呼ばれるものに従うことが知られている。練習回数、遂行時間の対数を軸としたグラフを書くと、右下がりのきれいな直線で近似できるのである。しかし、木村先生のデータはこの直線の上下をうねるような形で遂行時間が変移していた。

直感的にこれはすごいと思い、我が研究室でも細々と研究を続けてきた。6年前くらいの卒業生の竹谷さん、4年前くらいの卒業生の佐々木さんと、かなりの苦労を重ねて、知見を積み上げてきた。そして3年前の竹葉さんの驚くべき努力、そして大西君の見事なデータ解析力により、ようやく論文化する道筋が見えてきた。この研究は認知科学会で3回ほど発表した。この過程でさらにいろいろなことに気づき、昨年人工知能学会でスキルサイエンス特集というまさにドンぴしゃの企画がありこれの論文募集があったので、投稿した。

取り上げたことは「スランプとそこからの脱出」ということ。主張は
・スランプは単なる統計的な誤差ではありません、
・スランプは内的スキルとその実行環境とのミスマッチにより生じることがある、
という2点です。おもしろいです、おすすめです。ここにおいてあるので是非ご覧ください。

もう1つは全然違うネタで、大学生にまともなレポートを書かせるためにはどうしたらよいかというものです。これもかれこれ5,6年くらい前から手探りの状態で進めていたものです。そもそもまともなレポートとは何なのか、というこことがこの分野の研究の大きなテーマとなります。一般的にレポートは、
・問題
・主張
・論拠
からなるとされます。しかしこれだけではいくら何でも抽象的すぎてだめですよね。問題の意義とか、主張の範囲とか、論拠の妥当性などが、この図式には欠けているからです。じゃあ、自分で考えればいいんだけど、いくら無謀なオレでも「レポートとは・・・・だ」などと断言するというのもできず、悶々としていたんだけど、Toulminというつよーーい見方を見つけることができました(実はずっと前から知ってはいたんだけどそれをこの研究に関連づけることに気づかなかった)。彼は議論についての哲学的な検討を経て、

  1. 主張:まあ主張ですよ
  2. データ:主張の証拠です
  3. 保証:データが主張と関連しているかどうか
  4. 裏づけ:データと主張との関連についての一般的な保証
  5. 反論:対立仮説の検討
  6. 限定:主張の範囲の限定

という6つの要素が正当な議論には必要であることを論じた。

これはレポートにまさに通じる話で、というか論文にも丸ごと当てはまるような話なわけです。この基準を使えば、ある程度まで客観的にレポートを評価することが可能になるのではないかと考えたわけです。で、これが第一歩。

しかしこうした抽象度の高い理屈というのは、大学1年生あたりに事例1つ交えて話したくらいでは全然通用しない。ここで2つの方法がある。1つは、この図式を徹底的に練習させて身につけさせるというものだ。で、これは当然やる気が起きないので(ああ、オレがという意味ですよ)、なんとかもう少し無理なく身につけさせることはできないかと考えたわけですね。

そこで出てくるのが協調学習、Blogというわけです。このBlogにはいろいろと書いているのでこれ以上書かないけど、Blogやディスカッションを通した他者との交流を積極的に取り込むことにより、上のToulminの6つの要素が自然に(?)身につくのではないか、というわけです。そもそもToulminの図式は、議論という、他者との相互作用の場面で求められることであるわけで、その意味では他者との交流はこの図式の獲得の必須条件(とまではいえないけど)ではないかと考えたわけです。ということで、今までやってきたBlogをを用いた授業とか、グループディスカッションとかが、Toulmin+協調学習という中にきれいに納めることができると考え、論文にしたわけです。

出した先は、京都大学高等教育研究開発推進センター(何度書いても長すぎて途中を忘れる)の紀要です。なんで他大学の紀要になんて書くのかというと、昨年の3月にこのセンターが長年に渡って行ってきている「大学教育研究フォーラム」という学会というか、研究会があり、そこでBlogの話をしたことがきっかけになっています。発表後に、このセンターの松下さんから「紀要に書いてみないか」というお誘いがあり、せっかくということでお引き受けし、書いたわけです。でも依頼論文というわけではありません。査読もありました。で、その査読結果は今までいろいろ論文を書いてきたけど、こんなにほめられたことないよ、というくらいほめられて、1週間くらいテンションがあがりましたね。まだまだ展開していかないと,いわゆるおもしろい論文にはなりませんが,とりあえずの一歩です.
ここに載っているので興味のある人はご覧ください.


動物と人間の合理性,非合理性のシンポat 慶応

2008/2/13

“Rational animal, Irrational human”というタイトルでシンポジウムが開かれた。慶應大学のGCOE(グローバル・センター・オブ・エクセレンス)という、渡辺茂先生がヘッドを務める組織の主催だ。講演者の一人として呼ばれたので出かけてきました。初日は出られなくて、2日目の午後自分の講演から3日目のほぼ最後まで出席した。初日は渡辺先生と特に関連の深い動物関係の話が多かったようだ。

自分の発表はいつもこの頃やっている創発認知の話の中の、生成性と冗長性の話の前に、人間のirrationalityについての知見(演繹、類推、転移、洞察)の話を付け加えて、そこからコンピュータメタファーの問題につなげた。正直かなり苦しんだ。スライドは、数年前の国際ファジイ学会の時のものと、入来さんのシンポジウムの講演者として話した神経科学会のものを組み合わせたのだが、なかなかすっきりと行かず、いろいろな調整を行い、英文の原稿も含めて約10日ほど費やしたと思う。未だに英語というとかなり苦労する。特に今回は1時間という、やったことのない長さだったので、かなり神経を使った。しかしまあ終わってみれば良いしかし苦い経験ということになる。良薬は口に苦し。

自分の後は、若手の女性の発表が3件あった。東大の旦さんのは開さんとの協同でメディアの理解というか、realityの理解というか、これに関しての大変に興味深い発表が行われた。どうもテレビなどの画面に映し出されるものと現実の理解との間の関係に付け方に6ヶ月から10ヶ月の間に大きな変化があるようだ。後の2件はともにstimulus equivalenceについてのもので、一件は慶應の人、もう一件は理研の山崎さんが小川さん、入来さんと一緒にやったものの発表だった。なかなかおもしろかったのだが、ちょっと眠ってしまったのもあるのと、そもそもあまり詳しくないのとで解説はやめておく。ただStimulus equivalenceというのはなかなかおもしろいもので特に対称性(A->Bを学習すると、B->Aの結合もすぐにできる)は論理的ではないが、どうも人間に固有な現象のようで興味をひく。そうだ、今度CATKATに来てもらって日本語でゆっくり話を聞こう。

最終日は午前中が長谷川真理子先生の嬰児殺人についての話から始まった。嬰児を殺すのは同部では稀で、ボスが交代したときなどに起こることがある(インドの何とかというサルとか、ライオン)がかなり珍しい。しかし人間ではよく起こる。やるのはたいがい女性で、若くて、よく考えた上でやるらしい。また日本は特にそれが多いとのこと。日本で多い理由は文化的、制度的要因が大きいようだ。他には昭和大学の寺沢先生、慶應の女性の発表があった。

最後の論理のセッションは正直つらかった。別に変なことを言っているわけではないのだが、やはりいろいろな意味でつらい。

そこでおもしろい話があった。そもそも論理学は知性のmechanizationを行い、その結果としてコンピュータが生まれた。そこではいろいろな発展もあったが、創造性については全然だめだったということが論理学者の側からなされた。これに対して、コンピュータも適切なプログラムさえあれば創造的になれるとか、人間の脳だってそもそもmechanicalなんだけど創造性を持つことができるとか、いろいろおもしろい議論がなされた。

・・・Illustratorできれいな画像が作れるのは?
・・・写真がエロティックなのはカメラがエロティックだから?
素材、道具とそのプロダクトを混同していると思う。


新ネットワーク思考

2007/3/22

いまバラバシの「


玉川でのSIGLAL

2006/12/12

認知科学会学習と対話研究会が12月9日に開かれたので出席してきた。今回は大沢さん(東大)と三輪さん(名古屋大)の2人のスピーカによる、チャンス発見に関するものだった。

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カテゴリーと類似性に対する認知言語学の立場についてのメモ

2006/12/7

GibbsのEmbodiment and Cognitive Scienceを読んでいるのだが、むろんこの中には認知言語学が大きく取り上げられることになる。今読んでいる章はLakoffのイメージスキーマの話がかなり詳しく解説されている。

認知言語学はむろん存在は知っており、Lakoffの本も昔読んだことがあるので何となくは分かっているのだが、当事者ではないので、まあ遠巻きに見ているという感じだった。しかしGibbsの本を読むといろいろとポイントが分かってくる。特にオレにとって印象的なのはカテゴリーの話だ。

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今期の本

2006/10/20

今週から大学院のゼミが本格的に始まった.読んでいる本は,Raymond Gibbs, Jr. “Embodiment and Cognitive Science“だ.名前から明らかなように認知科学における『身体性』にかかわる研究を取り上げ,その意義を明確にするというものだ.

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並列的動作の学習

2006/10/10

大西君のところにおもしろい(というか、やろうと思っていた)実験が紹介されていた。両手で行うような作業の場合、左右の手別々にトレーニングするよりは、両手ではじめからトレーニングせよと言うことだよね。

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パントマイムにおける身体知

2006/9/6

9月4日身体知研究会に参加した.前のエントリーにも書いたけど,古川先生をリーダとした科研費が元になっているものだ。私は2回目なのだが,数ヶ月に一度くらいのペースで行われている.3つの発表があったが,最初の山田とうしさんのパントマイムにはたまげた.

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力覚ディスプレイというものを通した超ダイナミカル宣言

2006/9/1

今日、メディア教育開発センターの大西君のところで、彼が長年にわたって研究している力覚ディスプレイというものを初めて見た。彼は自分のBlogでこれについて再三書いているのだが、はっきり言ってどういうものなのかがさっぱりわからなかったので、なんともコメントのしようがなかった。ところが、見ていろいろわかったのと、それに遅延を加えた実験の結果を見て、仰け反った。これはうまくいくとスンゴイ話になるよ。

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単なるバブバブじゃないんだよな

2006/7/27

最近、うちの近くに話し始めみたいな子どもが二人いて、この子たちの「話し声(?)」がよく聞こえてくる。

一人は女の子で1歳くらい、遠くで聞いているせいもあるけど、とにかく単語自体がほとんど全く聞き取れない。ということでバブーちゃんということなのかというと、全然そうではなく、日本語にちゃんと聞こえる。あえて言うと、お母さんが「何やってんのー、そんなのじゃだめじゃない」と言っているときのような、イントネーションとリズムでしきりにしゃべっている。これが何度も繰り返される。窓から聞こえてくるので、そちらがどんなシチュエーションか分からないのだが、かなりおもしろい。

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菊練りとか、サンバとか、(今月のCATKAT)

2006/7/16

今週のcatkatはJAISTの藤波さんと、数年前にそこを卒業した阿部さんの「わざの獲得」についての研究を聞いた。前々から興味のある話で、じっくり聞いてみたいと思っていたのだが、3時間くらいまとめて聞けたのでものすごくラッキーだった。彼らが扱った題材は、陶芸の菊練りである。これは、粘土をこねて、そこに含まれる空気を抜き、釜に入れたときに作品が割れたりしないようにする大事な作業だ。また上手になるためにはかなりの時間が必要で、プロになるような人たちはここに3年くらいの時間をかけるらしい。

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カレー味の唐揚げ記念日だったら、どうだったか?

2006/7/14

創造はひらめきじゃないという話は,洞察の研究を通して繰り返し,繰り返し述べてきた.私の研究を知っている人は,耳にタコができているかもしれない.要は、創造の背後には繰り返しや、同じ試みや、類似したことや、失敗やらが大量に存在していて,そう言うものがクリエーションを支えているという話だ.これと呼応するような記事を知り合いが書いてくれている.これはコピーライターの話で、彼らのひらめき(?)は、数々のそれ以前の努力(何を語るべきかについての徹底した分析,大量のノート,さらなる修正)に支えられているということだ.

これを読んで,連想したのが俵万智の例の有名な歌について,彼女自身が書いたも文章だ.

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危ない人工知能

2006/6/11

前のエントリーで人工知能がいろいろな意味で変わってきたという話をして,そういう方向は望ましいというようなことを書いた.しかし,実はそれとは正反対の印象もあるのだ.参加して思ったのは,人工知能はお行儀が良くなったということだ.人工知能は確かにいろいろな実生活に役立ったりするわけだし,そうしてきたわけだけど,そういうことにとどまらない何か禍々しさというか,不気味さというか,危なさというか,そういう面もあるはずだ.そもそも知能を人工で作るということに,これらの印象はつきまとうはずだ.

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創発と安定

2006/5/29

ダイナミカル宣言,対話的知性宣言などをしているわけだから,『認知はいつでもオンラインで生成される』などとを述べてきた.これはある意味で当然だ.我々が認知を行なう環境は絶えず変化しており,以前の何かと完全に同一ということは理論上あり得ない.だとすれば,そうした環境の微妙な変化にその場その場で対処する必要があるわけで,一見同じように見える行為もその内実はずいぶんと違っているわけだ.

それで問題はそこから先になる.では,状況の要請を受け,絶えず様々な微調整を行ない,創発している認知が,安定しているように見えるのはなぜか,という問題だ.以下,思いついたことをだらだらと書き連ねる.

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長期にわたる練習の生み出すもの

2006/5/28

ここではあまり書いたことはないが、ここ5年ほどレゴブロックを用いて簡単な物体の制作させ、その過程を分析している。7個ほどのブロックをつなげて飛行機のような形のものを作ることが課題だ。大人がやれば簡単至極で何のこともない。これを分析してどうするのかと言われそうだが、ポイントはその回数にある。1日一時間ずつ12日間かけて計2500回近くこの作業をやってもらったのである。

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発達は進歩ではない

2006/4/2

これは前のエントリーの会の時に話したことなのだが、少しまとめる。発達の研究を聞くときに覚える違和感は、今まで冗長性についてのいろいろなエントリーで述べてきた。こうした違和感は、やはり「発達は進歩だ」という多くの研究者に分かちもたれている信念に対する違和感とも言える。

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metaとabstraction

2006/3/30

3/18にあったcatkat研究会で、メタ知識という言葉と抽象化という言葉を区別することが出来たので、いちおうメモしておく。抽象化された知識(abstraction)というのは、ある対象の属性をブランクにしたものとして定義することが出来る。人間の抽象化を考える際には、実際にはブランクにするための制約が必要になるのだが(完全なブランクには出来ずある範囲を設定するとか)、とりあえずはどれかの属性においてどんな値でもとりうるようにした知識を抽象化と呼ぶ。

一方、

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法創造と類推

2006/3/28

吉野先生が主催する法創造についての科研費の報告会があった。法律と創造という2つの言葉は、多くの人にとって反対語のようなイメージがある。しかし、立法はもちろんだが、現実のケースを法的に処理する際にはさまざまな創造のプロセスがあり、これからの法曹にはこうした創造のスキル、能力を身につけさせる必要がある、というのが、この科研費の趣旨だ。

私はメンバーなので当然出席だけでなく、発表もした。発表した内容は、以前にここにも載せた心理学会のワークショップで行った生成的アナロジーの話と、イラク邦人拉致事件の話、それとスクールカウンセラーを巡るアナロジーを組み合わせたものだった。

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英語でいうとどうなるんだ

2006/3/10

前のエントリーで「対話的知性」という言葉をオレ的な意味で使っているのはいない(ただし日本語で)と言ったとたんに、英語でどういうんだ、という疑問がわいてきた。対話といえばすぐにdialogueという単語が思い浮かぶ。でもdiというのは、2つという意味だからちょっとまずい気もしてくる。どうなんだろう。3人でやってもdialogueなんだろうか。ここらへんはよくわからない。あとconversation, converseというのもあるし、単にtalkというのもあるわけだね。まあそもそも英語で考えなくてもいいのか。


対話的知性の続き:リンク先

2006/3/8

対話的知性というキーワードで検索をしたところ、幸いなことに(?)自分のを入れて9件ほどのヒットにとどまった。いくつかはいわゆる人と人の対話という意味での対話と知性を組み合わせたものであり、関係はあるけど私のアイディアとは違うことが分かった。

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対話的知性

2006/3/8

ダイナミカル宣言をしてからずいぶんと日にちが経つ。その間、いろいろと参考になる話を聞いたし、またいろいろと考えた。で、最近とある原稿を書きながら思いついたのが、この記事の表題になっている「対話的知性」というものだ。つまり知性の根本は対話ということばでうまく表現できるような気がしてきた。

ここで対話というのはいわゆる本当の人と人との対話も含んでいるのだが、比喩的な意味の方が大きい。なにがしか他のものとのやり取りの中で知性が生まれるという考え方を対話という言葉で表現している。

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発達における一対一対応仮説

2005/8/9

これは下のエントリーの神経科学会で発表したもののまとめ。長いですよ。

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日本神経科学会シンポジウム

2005/8/9

7月下旬に横浜パシフィコという豪華な会議施設で開催された、神経科学会大会に参加しました。私は、入来さん(理研)が主催した「概念の発達と操作の神経メカニズム」というワークショップでした。物質を扱う研究者が90%以上という学会なので、そもそも人が来るのか、また来たとして話をわかってもらえるのかなどという不安がかなりありました。しかしそこは入来さんということで、間違いなく100名以上の参加者がいて、議論もある程度まで活発に行われました。

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ゆらぎと学習

2005/6/19

今日の研究会では、Berthier, Rosenstein and Barto (2005) Approximate Optimal Control as a Model for Motor Learning. Psychol. Rev.および東工大の鈴木さんの研究発表を聞いた。後者の方はまだ途中の段階だと思うが、これからの発展の可能性を秘めたおもしろい研究だった。ただ、この研究は発表前であり、ここで詳しく話してはまずいようなので(というようにこのエントリーのTB先で書いてあるので)、以下では始めの方の論文について感想を書いておく。

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原生生物は創発的だ

2005/5/29

駒場のシステム科学というところで特別講義というのをやってきた。話した内容は、
・創発認知の考え方
・洞察のモデル
である。よく話していることなので、頭にはだいたいの筋書きが出来ている。
ただし、今回は

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けいはんなで考える

2005/5/22

けいはんなにある国際高等研究所のプロジェクトで岩田先生が主催されている「スキルの科学」の研究会に招かれ、東大先端研の堀さんの発表(後日掲載予定)を聞くとともに、私たちのグループ(大西さん、竹葉さん)が行っている研究を発表してきた。
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2005/5/2

テイ・トウワというミュージシャンがいて、「英語でしゃべらナイト」という番組で今日面白いことを言っていた。彼は海外のミュージシャンといろんなコラボレーションをして、作品を作っているそうだが、これは「縁」に基づくのだそうだ。これを聞いていたアメリカ人が「縁ってなに?」という話になって、そのアメリカ人は「chemistryという意味か?」と聞いたら、「もっと時間とか空間とかが関係するので、chemistryではまずい」とか言っていた。そして、
縁=synchronicity+chemistry+synergy
ということだそうだ。

これってすごいよね。

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生田さんの「わざ」から知る

2005/5/1

スキル学習をやっているので、昔読んだ生田さんの「わざから知る」(東大出版会)を読み直した。昔はあまりぴんと来る話ではなかったが、今読むと非常に面白い点がたくさんある。

「型と形の違い」
「模倣、繰り返し」
「間」
「世界への潜入」
など魅力的なテーマが並んでおり、非常に引き込まれながら読んだ。ちなみに生田久美子さんは私がM1のころ、佐伯さんが慶応でやっていたゼミなどにもいらしてた方で、なんどかその当時お話したことがある。なんか、知的にも外見的もとても洗練された人だなぁと印象を持った。

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Intelligence Dynamics 2005

2005/4/8

昨年も参加したインテリジェントダイナミクスに今年も参加した。Sonyがやっているロボットを中心とした新しい知性観についてのシンポジウムだ。こういう言い方はあまりよくないな。知性、身体、環境の間で成り立つ知の解明をロボットをツールとして究めていこう、そしていいロボットを作ろうというとてもいい企画だ。

どうでもいいことから書くと、この間退任が決まった出井(元?)社長の姿を見た。ああいう人たちというのは、大勢人がいる中で、顔が浮き出るんだよね。青学の卒業式で見た(たぶん間違いないと思うけど)中村吉右衛門さんと同じだ。

で、内容だが、

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Tomasello講演会

2005/3/27

言語に関する発達心理学、比較認知研究などで大変に高名なMichael Tomaselloの講演会が駒場であったので行ってきた。大変におもしろい講演だった。

彼の話のツボは、子どもはその言語の獲得の初期には、チョムスキーの言うような統語カテゴリーを処理しているわけじゃないよ、というものだ。そして構文の島?(constructional island)という仮説を提案している。これは

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記憶はコミュニケーション

2005/2/7

教育学科の2年生の岩本君が記憶について面白い比喩を考えている。彼は私の担当している「認知科学概論」という講義のレポートの中で、「記憶は過去から現在への内的コミュニケーションである」という比喩を用いている。この比喩は、記憶が
・やりとりを含むものである、
・固定したものではない、
などのいいイメージを与えてくれると思う。

ただし、

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状況依存の、創発的学習者としての金魚

2005/1/14

うちは前からよく金魚を飼う。長生きしても2年くらいなのと、娘が金魚すくいファンなのでけっこう入れ替わり立ち替わりさまざまな金魚がいることになります。

ところが、数ヶ月前に7,8匹いたのが全滅した。そこで2匹ほど買ってきました。以前の金魚は、だいたい買ってきてから数日くらいたつとえさをもらえる状況を察して、わたしが水槽に近づくだけで、縁に依ってきて口をぱくぱくあけて、「くれー、くれー」という感じでした。

ところが

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行動遺伝学についてagain

2004/12/26

以前に書いた「行動遺伝学について」ご本家からコメントいただいてしまった。こういう事態になるのは分かっていたんだから(実名ですしね)、もうちょっと丁寧に書いてもよかったと反省してます。コメントのコメントとして書こうと思ったんだけど、長くなりそうなので新しいエントリーにしました。

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U-shaped development

2004/12/21

“The Changing Role of Iconicity in Non-Verbal Symbol Learning: A U-Shaped Trajectory in the Acquisition of Arbitary Gestures” Laura L. Namy, Aimee L. Campbell, and Michael Tomasello(2004) Jornal of Cognition and Development
という論文を大学院ゼミで読みました。解説を書こうと思っていたら、
とてもよい解説がここに
あったので、リンクだけつけておこう。おれなりのコメントは発達による認知リソースの多重化ですね。


ダイナミカル宣言VIII: 進化心理学

2004/10/18

進化心理学、あるいは進化的アプローチは、長い間きちんとした形でダイナミカル宣言と結びつけなければならないと思っていた。そもそも、進化は決定的にダイナミカルで、おれ自身の発想も、ここに負うところが多い。

でも、何か違和感を感じ続けていたのも事実で、そこらへんを頑張ってまとめてみようかと思う。

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ダイナミカル宣言VIII: SCIS2004論文

2004/9/30

Internationla conference of soft computing and information systemsという学会で、わたしの知り合いの大森さん(北大)がオーガナイズしたセッションがありました。そこで発表をしてきたので、そのときの論文を載せます。

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ダイナミカル宣言VII:発達心理学会ラウンドテーブル

2004/4/9

3月終りに発達心理学会の大会がありました。そこで北海学園大学の小島さんが「制約と創発」の関係についてのラウンドテーブルを企画しました。小島さんから声をかけられて発表してきました。
特集「知の起源」で私は「認知の創発的性質」という論文を書き、そこで認知の4つの性質を挙げました。

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ダイナミカル宣言VI:まもなく出ます、「知の起源」

2003/7/1

10ヶ月ぶりです。うーーん、忙しかった。忙しすぎて何が忙しかったかも覚えていません。

さて、私がここでダイナミカル宣言をやっている最大の理由は、認知科学は「知の創発、生成」を扱わなければならない、と考えているからです。そしてこの知の創発について、10年ほど前から本当に新しいアイディアが様々な領域で生み出されてきています。私は数年前から遅ればせながら、これらの研究に触れることにより、ダイナミカル宣言をするに至ったのです。

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「類似から見た心」刊行!!

2002/1/11

大西さんと私で編集した「認知科学の探求シリーズ:類似から見た心」(共立出版)が昨年(2001)暮れに出版されました。この本は、「類似」という観点から人間の認知を捉え直すという、1990年以降かなり活発になってきたアプローチの延長線上にあります。ただし、本書の論文はいずれも類似をgiven とせず、それを動的に作り出すメカニズムに触れているという点で、ダイナミズムの路線上にもあります。またこの本は、知る人ぞ知るという豪華メンバーによる論文が多数収録されており、類似判断、類推は元より、カテゴリー、認知発達、創発認知などの研究分野に大きな影響を与えるものと確信しています。

以下、各章の内容と著者紹介をくだけた形で行ないます。

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ダイナミカル宣言??:ダンスを考える

2001/10/12

これはいわゆるダイナミカル宣言とは違いますが、なんか関係あるんじゃないかと思っているので、こういうタイトルでいきます。

少し前の話ですが、7月に「ことば工学研究会」という会に出席し、発表をしてきました(私の発表はいつもの「機械とコミュニケーション」という機械音痴に関わることで、特に付け加えるようなことはありません)。この研究会はよく知らなかったのですが、いろいろお世話になっているNTTの松澤さんからの話だったので、非常に忙しかったのですが無理して出席しました。

この研究会の最終日の午後のセッションは私の発表の前に、朝日新聞の科学担当の方の話があり、大変に興味深かったのですが、さらに衝撃的だったのはお茶大の相原さんという方のダンスについてのお話と実演でした。相原さんのお話を簡単にまとめると次のようになります(あまり正確ではないと思う)。

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ダイナミカル宣言IV:とりあえずのまとめ

2001/9/8

前回から、6カ月ほど時間があいてしまいました。あまりに忙しくて、仕事をする以外にやったことといえば、各々の仕事の区切りがついた後で、しこたま酒を飲むことだけだったような気がします(だからやったことをすぐ忘れる)。思い出したら、また付け加えていきます。ちなみに、論文関係の仕事は今年はもう終わりました。読んでみたいと思っていた本がたまっていますので、後は楽しい3ヶ月を過ごします。

さて、ダイナミカル宣言ですが、いくつかの方向がはっきりとしてきました。これは詳しくは「認知科学」(日本認知科学会の学会誌)の8巻3号に掲載された私の論文「思考のダイナミックな性質の解明に向けて」 をごらんください。

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ダイナミカル宣言III:認知的学習に欠けていたもの

2001/3/8

ちょっと論文調で堅いのですが、直している暇がないのでこのままいきます。

認知科学、特に教授心理学、発達ベースの心理学では、主にBruner型の教育観が支配的であったといえよう。つまり、スキーマ、メンタルモデルを事前に与え、教えられることをうまく整理しながら学習を進めるというものである。

しかし、こうしたものは学習のoutputであり、それをそのまま与えれば学習がうまく進むかといえば、必ずしもそうとはいえない。というも、そのスキーマなり、モデルなり、ストラテジーなりが、必要とされる場自体を学習者が共有できていないことも多いからである。

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ダイナミカル宣言II:反応パターンを誤差にするな

2001/2/20

誤差について考えてみたい。普通心理学の実験では、ある要因をコントロールして、その結果の変化を見ます。たとえば、発達心理の場合で言えば、年齢という要因をコントロールして(つまりさまざまな年齢の子供を対象とする)、調べたい能力を測定すると考えられれているいくつかの課題を与え、その差を見ようとする。そうすると年齢xの子供は正答率がX%であるが、年齢yの子供は正答率がY%であるなどという結果が出てくる。正答率XとYが大きく異なっていて、かつ年齢xとyが十分に近ければ、その能力はxからyの間に発達するなどという。もう少し大胆な人は、xはA段階でyはB段階だなどと結論づける。

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ダイナミカル宣言:とにかく宣言

2000/12/25

最近、ふっ切れました。ということで、ダイナミカル宣言を行いたいと思います。類推をメインにここ10年ほど仕事をしてきて、自分の仕事に確信を持てるようになったのはいいことなのですが、かなりうんざりしてきた部分があります。これは飽きたというのではなく、限界を感じてきた、という意味です。
いろいろと七転八倒して、最近はっきりとわかってきたことがあります。それは

人間の認識はダイナミックである

ということに尽きます。もう少し具体的に言うと、人間の認識は、

  • 様々な形式、獲得様式の知識
  • 推論機構(演繹、帰納、類推、仮説推論)
  • 環境

のダイナミックな相互作用として捉えられねばならない、というものです。
当たり前だろう、と言わないでください。もう少し詳しく述べたいのですが、まだよく考えがまとまっていないので、近いうちにこの続きを書きます。とにかく、宣言をしたいのだ、ということで今のところは終わります。