プロジェクションを考えるといいことは何か?

2019/9/21

すごく久しぶりなのだが,プロジェクション科学の広がり,可能性について書いてみる.はじめの方はプロジェクションの説明,最後の3段落くらいが広がり,応用についてです.

—-
人は何かを感じたり,考えたりすると,それを外の世界に投射(=プロジェクション)する.

マイケル・ポランニーという異才がいた.彼はもともとはノーベル賞クラスの研究をいくつも行った化学者であるが,1950年台後半から哲学者として活躍することになった.幾つもの論文,著書を著しているが,1967年に出した「暗黙知の次元」という本が最も有名だと思う.この本は「語れない知識がある」ということで有名になってしまったが(それが悪いことではないのだが),実は,投射という考え方の重要性を示してもいる.

彼は近位項と遠位項という2つの用語を用いて投射を検討している.近位項というのは私たちの中に生じる感覚である.遠位項というのはその感覚をもたらす,世界の中の対象である.そして認識は近位項から遠位項への投射を含んでいる,というのが彼の考え方なのだ.ちなみに彼が本当に言いたい「暗黙」は,この二つの項を結びつける投射を含めたプロセスのことである.

もしかするとあまりに当たり前で退屈かもしれないが,最も簡単な例から始めよう.氷に触ると冷たいと感じる.この感じは私たちの中に生じる近位項である.しかし私たちの認識のプロセスはそれで終わるわけではない.そこから先が大事なのだ.その後に,「冷たい」という感覚をもたらしたモノ,つまり氷が冷たいものであるという認識が生じる.この氷が遠位項である.ここでは自分の感覚である近位項が,外の世界にある遠位項に投射されているのである.自分はそんな投射なんて考えてもいないし,やっている意識もないと多くの人が思うだろう.そう,だから「暗黙知の次元」なのだ.

しかしもう一つ,盲人の杖という例を出すことにしよう.目の不自由な人たちは白い杖で地面などをタッチしながら歩行する.何かの障害物に杖が当たる.この時の近位項は杖を持っている手のひらの感覚である.「手のひらに何か感じたな」という感覚で認識が終わらないことが大事なことだ.杖の使い手は,自分の先に何かがあると知覚する.ここでは,手のひらの感覚はそれをもたらした遠位項であるところの障害物に投射されているのだ.

ここらへんから,なんのことだとページを閉じたくなるかもしれない.実際いろいろなところで話すと,「だから何」,「何言いたいんだ」という反応もある.しかし,実は投射という考え方を用いることで,錯覚,幻覚,愛着,フェチ,ブランド,幽霊,神様,バーチャル・リアリティまで説明できるとしたらどうだろうか.

こうしたとても多様な現象が一つの概念の異なる現れと考えられると,とてもいいことがいろいろとある.錯覚でわかっていることをブランド・マネージメントに活かせないだろうかとか,神に対する愛のようにある製品に愛を感じさせられないだろうかとか,幽霊を怖がる子供に錯覚の例を通して安心させるとか,バーチャル・リアリティを用いたソフトを幻覚の研究から作れないだろうかとか,いろいろな現実的な展開が考えられる.

もう一ついい事は,各々の分野の研究が進展する可能性が出てくることだ.上に挙げた様々な現象にはその専門家たちがいる.錯覚,幻覚,愛着については心理学者,フェチについては社会学者や人類学者,ブランドについては経営学者,幽霊や神様については宗教学者,バーチャル・リアリティーについては情報科学者などが専門的に研究している.各々の研究の進展の度合いには凸凹があるし,使う方法もいろいろだ.こうした多様な人たちがあるテーマをめぐって集まることにより,その分野の研究が進展したり,もう終わったと思われているような研究対象が実は大事な意味を持つのだと再認識されたりすることもあるだろう.こうやって研究が進むと最初に挙げた現実的な展開も加速するかもしれない.


フェティシズムとプロジェクション

2018/11/12

フェチと聞くとヤバいみたいに考える人もいると思うが、文化人類学、文化社会学では大事な研究テーマとなっている。最近読んでいる田中雅一さんのフェチシズム研究全3巻は素晴らしい。

・フェティシズム論の系譜と展望-
・越境するモノ
・侵犯する身体

タイトルも秀逸だが、すごい世界を見せてくれている。個人的には、田中さんが巻頭に書いているものが一番グッとくる。ぜひお話を聞いてみたいし、お話もしたい。

なんで気にいるかといえば3つほど理由がある。1つ目は、とても個人的な話だが、私が若い頃に愛読した岸田秀、吉本隆明につながる世界があるからだ。彼らは、私たちは無意識のうちに従っている規範、価値、行動図式が、全て虚構、幻想に基づいていることを指摘した。当時、社会、権力そうしたものに強い違和感を覚えていた私には(というか今でも完全にそうだ)、彼らの著書は福音のように思えた。それ自体としては意味のない、実体のないものに、ものすごい価値があると思い込み、熱中を超えて、自分の生命まで差し出す、これが(共同)幻想だ。これはその当時やはり好きだったサルトルの考え方にも、遠く通じるような気がする。ここらへんは自分の思考の原点ともいうべきもので、ここに触れるものにはなんでもグッときてしまう。

今の私にとってなぜこの本が素敵かといえば、それはプロジェクションの有様を曝露するからだろう。生体にとっての意味、価値を推論し、それを世界の中に投射して見る。そしてそれを求める(あるいは拒否する)、そういう姿が露わになるだ。この本では、フェチシズムは、モノ、貨幣、宗教の3つが研究領域となるとされているが、それには止まらない。こうした働きは、通常の知覚(目の前のものがコップだとわかる)から、錯覚に繋がるし、幻想、妄想、ブランド、信仰まで一貫していると思う。こうした問題を論じてたのは、フロイト、ポランニー、ハンフリー、大森荘蔵、そして田中さんなどがいる。しかし、誤解(恥?)を恐れずにいえば、本当に科学の側から突き詰めてきたのは、私が最初だと思う。こうした心の働きをやらない限り、世界と人は調和しない、それがプロジェクションサイエンスなのだ。

最後の理由は、それが現実を崩壊させる契機を含んでいるという点だ。本来価値のないものへの執着は最初はメトニミー、あるいはパース的な意味でのインデキシカルなものだっただろう。しかししだいにそうしたメトニミー、インデックスを超えて、それそのものが独立した意味を帯びるようになる。つまりパースの言うところのシンボルとなるのだ。これを追うことにより、パースの記号論の進化論、あるいは発達心理学も可能になるかもしれない。もうすでに記号として確立したものを子供がどう獲得するかではなく、誰かが発したアイコン的サイン、インデキシカルなサインがどうやって、記号へと変化するの生の生成と変化の過程が見られるかもしれない。これによって、今私たちが常識と思っていること=つまりシンボルとして確立していること、が全て覆される可能性がある。これは楽しい想像だ。ワクワクする世界のように思える。無論自分の幻想も含めて粉々にされるのだろうが、もう一度何かをまた作り上げられるのかもしれない。要するに革命だね。

余談だが、こうした考え方からすれば、国旗、国歌に激しくこだわる人と、女性の下着、アイドルに強くこだわる人たちは、同じ心の働きが別の対象に向かっただけだとなる。どれもその人たちには大切だと考える必要があるし、向かわせる動機は全然違うだろうが、煎じ詰めれば仕組みは同じということだ。つまり、プロジェクションという働きの結果だ。ちなみに、どれにもさほど興味はないが、個人的には前者よりも後者が好ましい。理由は前者の心のねじれ方が痛ましいからだ。また前者は人を抑圧するが、後者はしないというもあるだろう。ただしこれは好みの問題だ。


生田の熟達論とD. Pinkのモチベーション論,そして感染

2018/7/19

昨日(7月18日)の大学院ゼミでは面白い発表が続き,触発されていろいろと考えたので,それを備忘録としてまとめておきます.

生田久美子さんの「わざから知る」は30年ほど前に出た本であるが,その輝きは失せない.それどころか,今の教育改革ブームにとってとても大事な視点を与えるという意味で,その輝きは増していると思う.一方,ダニエル・ピンクは「モチベーション3.0(原題:Drive)」という魅力的な本を書いている.この中で彼は,人が動機づくためにはアメとムチは逆効果であること,そして自律性(autonomy),目的(purpose),習得・熟練(mastery)の3つが動機づけにとって重要であることを指摘している.勤務時間を自由にする,勤務時間内に業務とは異なることを自分で見つけてそれに取り組む会社の例などがたくさん出ており,とても刺激的だ.

さて,生田さんが取り上げた日本舞踊のような伝統芸能では,学校とは大きく異なる教育システムが存在する.学校では最終的に獲得させたい技能,知識を要素に分解して,これら各々をその順序性,要素性の観点から並べ,1つずつ順に教えていく.四則演算の技能を獲得させたいという場合には,まず数字を教える,次に数の大小を教える,そして足し算に進む.足し算も一桁同士の足し算で10を超えないものから始まり,次に10を超えるものがくる.そして二桁足す一桁の足し算という形で進んで行く.

一方,伝統芸能の場面でこうしたことは起きない.師匠の踊りを見て,それを真似しながら,舞全体を踊ることが求められる.そしてそれが終わると,次の別の踊りへと進んでいく.つまり,舞を手の上げ方,足の運び方,立ち上がり方,首のかしげ方などに分解して,1つずつ練習して身につけるということは求められないのである.同じようなことは,状況論の古典とも言える,Michael Coleたちのリベリアの仕立て職人の熟達過程の研究でも報告されている.

生田さんはこれを「非段階性」と呼んでいる.これが意味することは,学習者は自分が獲得すべき事柄の全体が最初から見えている,ということだ.別の言い方をすれば,何に向かっていくのか,その到達点は何かが,師匠の美しい舞という姿で,始めから学習者に了解されているのだ.学校での学習とは全く異なる学習の姿がここに現れている.

これはピンクの言葉で言えば,目的と関係していると思う.こうなれたらいいな,こうなりたいという姿の全体が,学習者の前に存在しているというわけだ.

生田さんの伝統芸能の伝承・熟達研究はもう1つの大事な点を挙げている.師匠は弟子の踊りを見て,どこがどうおかしい,どのように直すべきかを指摘することはないという.ただ単に「あかん」とか,「もう一度」というだけだという.ここでもまた学校での学習の姿とは全く異なる学習の姿がある.もし学校でこのようなことが行われれば,その教師は丁寧な指導のできない,不親切な人間というそしりを免れないと思う.

生田さんはこれを「評価の不透明性」と呼んでいる.不透明な評価しか得られない環境の中で,学習者は何をしなければならないだろうか.それは自分を振り返り,「自ら」修正のポイントを見つけ,それに向かって努力するということではないだろうか.ここにはPinkの言う,自律性が関係している.つまり人に言われてそれに従うのではなく,自分の学習過程を自分がコントロールしているという感覚があるように思える.

生田さんはこのプロセスを「学習者自らが習得のプロセスで目標を生成的に拡大し,豊かにしていき,自らが次々と生成していく目標に応じて段階を設定している」と述べている.この姿はPinkがモチベーションの3つの要素と述べた,自律性,目的,習熟という姿と見事にマッチしているように思う.まるでPinkが生田さんの本を読んで書いたような気すらする.

これに加えて,モチベーションという観点からすると,師匠の姿というのも大事かなと思う.生田さんは人類学者のマルセル・モースの威光模倣という概念を指摘している.威光とは「模倣者に対して,秩序立ち,権威のある,証明された行為をなす者」が放つものだ.模倣者は,この所作,動作を観察することを通して,彼・彼女に威光を感じ,それが動機となって学習を進めるという.師匠というのは,その美しい芸を通して,まさに威光を放ち,弟子はこの威光が動機となり,稽古に励むのだという.

同様に,宮台真司さんは「14歳からの社会学」(2008)の中で学ぶ動機には3つあると述べている.競争動機とは,人に勝ちたい,人より優れていたいので勉強する,というものだ.このタイプには,調教型,アメとムチ,強化が効くかもしれない.もう1つは,理解動機というもので,その事柄を分かりたい,より知りたいので勉強するというタイプだ.これは内発的動機づけに該当するので,賞罰は関係ない.ただ分かってしまった先はどうなるのかは不明である.そして最後に彼が挙げるのが,感染動機である.それは,師のようになりたいので,勉強をするというものだ.なぜ感染というかは,「師匠と同じ箘を浴びて,師匠と同じ症状になりたい」ということからきている.

これは自分の大学院時代を考えると,まさにその通りという感じがする.佐伯胖という人物に憧れ,ああいう風になりたい,ああしたことを考えるようになりたい,あのような筋道を立てる人間になりたいと思い,自分は勉強と研究を続けた.むろんその過程で,人より優れてきたり,ものがわかってきたりもするけど,それで終わりには全然ならない.これらは,目的地に向かう電車の中で,うまい駅弁を食べるようなものだと思う.駅弁がうまかったので旅をやめる人間がいないのと同様,何かがわかった,人に勝ったと言うだけで学習が終わったりはしない.次から次と,佐伯さんが放つ威光の中で,まさに目標が生成的に拡大していった.

そんなこんなで,モチベーション,習熟について考えた次第です.しり切れとんぼだな.


プロジェクションとクオリア

2017/10/3

前の投稿で、人間にとっての世界はmixed realityだと述べた。つまり物理世界には存在しない、推論、処理の産物を世界の中に投射し、それを見ている、感じているのが人間だと述べた。もっとも、動物だってmixed realityの中で暮らしているのだと思う。「食える」、「食えない」、「やられる」、「やれる」などという意味を発生させ、その世界を知覚し、そこで行動しているのだと思う。ユクスキュルの環世界(umwelt)というのは、そういうことを表した概念だと思う。ただ人間の意味づけは、動物の意味づけに比べて、桁外れに多いはずだ。これが高橋君@中京の言っている「ホモ・クオリタス」ということだと思う。

投射はクオリアと強く関係している。ただクオリアというと、じゃあもう無理ですね、と言われる危険性が高いので、あえて言っていなかっただけだ(鋭い人、たとえば植田さん@東大、あたりはだいぶ前に見抜いている)。クオリアというのは、質感とか、訳されたりするが、主観的な感覚、経験のことだ。Phenomenal Experience(なんて訳すのでしたっけ?)というのと、同じことだ。赤いりんごを見て、「赤いな」と感じること、重いバッグを持ち上げて「ああ、重い」と感じること、日本酒を飲んで「ああいい味」と思うことである。

なぜそれが問題になるかといえば、そこに客観世界、物理学的に記述された世界があると考えるからだ(ないということはほぼできないと思う)。赤いリンゴは特定の波長の光を反射し、網膜上の特定の細胞に特異的な発火のパターンをもたらす(そんな簡単ではないのだが)、重いバッグは特定の筋の緊張を生み出す、さまざまな有機化合物からなる酒は味蕾に化学的な刺激を与える。さてそういうレベルで記述された世界から、どうやって「赤い」、「重い」、「うまい」という主観的経験がうみだされるのだろうか。これがクオリア問題というものだ。この問題はどうやって解決できるのか。茂木さんは数十年だか、数百年だかかかると言っていたように記憶している。

確かにとても難しい問題だが、投射という概念を持ち出すことで、ある程度整理できるのではないだろうか、というのがこの投稿だ。私たちは、世界が与える物理的な情報を処理し、内部で様々な加工を行いつつ、(物理的な)世界自体とは異なる世界を内的に作り出す(表象とか、内部モデルなどと言う)。これは多くの認知科学者が同意してくれると思う(同意しない人は私の「教養としての認知科学」を読んでほしい)。

さてここからがポイントだ。我々人間、また動物達は、そうした内的なモデルを作り出すだけでなく、それを世界に投射する。つまり意味づけされた情報を、世界にまた位置づける。そしてその投射によって作り出された世界をまた知覚する。これが前の投稿で述べたmixed realityというものだ。

すると何が起こるか。赤いリンゴの知覚は内部に「赤い」という主観的な情報を生み出す。そしてその主観情報は世界に投射されることで、実際に私たちは「(主観的に)赤い」リンゴを目の前に見ることになる。重いバッグを持った時にその物理情報から生み出される内部モデルは、そのバッグへと投射される。その結果、私たちは「重い」という主観情報に彩られたバッグを持つことになる。

つまり、物理情報から作られた主観情報が世界に投射されることにより、私たちは主観的な意味づけを持つ世界をダイレクトに知覚することになる。するとクオリアとは、

情報の受容ー>内部モデルの構成ー>投射ー>投射済みの世界の知覚

というサイクルの中で生み出されるものと捉えられるのではないだろうか。

これが今日、言いたいことだ。ツッコミどころは色々とあるのだが、所詮メモなので、とにかく残しておこうと思う。


認知科学会2017でのプロジェクションの大展開

2017/9/20

9月13日から金沢大学で開かれた,日本認知科学会大34回大会で「プロジェクションサイエンスの基盤と展開」というオーガナイズドセッションを開催した.最も広い部屋が割り当てられ,開始前は「ガラガラだったら・・・」などと考えていたが,100名を超える参加者があり,大成功だったと思う.

  1. プロジェクション科学の射程:ラバーハンド錯覚とミラーシステム
  2. 身体像の投射を用いた「自己所有感」と「自己主体感」のゆらぎ
  3. 腐女子の「女子ジレンマ」
  4. 仰向け状態におけるOWN BOTY TRANSFORMATION課題の計測
  5. 投射のトリガと認知過程:投射のソースと投射を促す要因・阻む要因に着目して
  6. 2歳児における自己顔部位の空間的定位~拡張現実を用いた新課題を用いて
  7. プロジェクションと熟達 ~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~

などの魅力的な発表があったからだと思う.発表してくださった方々に,心からお礼を言いたい.個人的には最初の嶋田さんの発表は,知覚・行為系において,何がプロジェクションされ,それはどう計算されるのかについて,明確な指針を与えていたように思います.

さて質疑応答において,浅田先生(阪大),鮫島さん(玉川)から,大変に挑戦的な質問を受けた.要するに「プロジェクションなんて概念いらないんじゃないの,これまでのうまくいくでしょ」みたいなことです.身内でやっていると,身内ながゆえにこうしたレベルの問題はあまり指摘されることがない(だってプロジェクションあると思って集う人たちだから).

さて一応企画者としてはこれに応えないわけにはいかない.そこで2つのことを申し上げた.第一に,私たちは科学者であるからして世界の実在は認めなければならない.一方,認知科学者として表象も認めなければならない.この2つはどうやって調和するのか,これを考えなければ人の心の包括的理解はできないのだと.表象は定義上頭の中というか,情報処理システムの中に出来上がるものである.しかしそうして出来上がったものが世界の中に実在として感じられる.例えば,目の前のコップを見るとは,頭の中にそれの表象を作り出すことである.しかし私たちは頭の中にコップを感じるのではなく,目の前に,つまり世界の中に実在するものとしてコップを認識する.これはいかにして可能なのかという問題だ.もし実在としてのコップがないのだとすれば,表象のコップを見て,その中の表象のコーヒーを飲んで,表象の上で癒されるということになってしまう.そうならないためには,出来上がった表象を世界に戻さなければならない.この働きがプロジェクションなのだ(野矢茂樹さんも,「意識という難問」で,この問題にアタックしている).

第2に申し上げたのは,私たちにとって世界はそもそもMixed realityだということだ.入力を受け,それに処理を加えることによりリッチになった表象が世界にプロジェクションされることにより,世界は違った色彩を帯びるようになる.つまり物理的な世界とは異なる世界が私たちの前に現れるのだ.そしてこの世界は,動物たちが作る,「食える」,「危ない」,「やれる」という生理的なものに基づくものだけでなく,尊敬・敬意,畏怖,共感,厳粛,美しさ,醜さ,懐かしさ,執着等々という,人間のみが作れる情報に満ちたものなのだ.今VR,ARを超えて,MR(mixed reality)という時代が来ると言われているが,私たちはそもそもが自分(達)が作り出した情報に彩られた世界(mixed reality)を知覚し,その中で行為を行っているのだ.そうした世界は,基本本能によって作り出された動物達の世界(ユクスキュルの環世界)とは異なったものだし,随伴性,効用,報酬に基づき世界を予測し,行為を行うロボットとも全く異なるものではないだろうか.これは川合さん@名古屋大学から教わった話だが,お墓の前で拝むロボットは作れるのか,というのがある.無論うまくプログラムしたり,訓練したりすれば,頭を下げたり,手を合わせたりするロボットは簡単に作れるだろう.しかしそれは私たちがお墓の前で拝むこととは本質的に違うはずだ.こうした違いは人間に固有な独特の意味を世界に投射するか否かに関わる問題なのだ,と述べた.

そしてこのことは認知科学が新しいステージにチャレンジすることにつながる.1970-80年代,全てを記号に置き換えて,それに対して明示的なアルゴリズムを適用することが知性であると考えられていた.これは非身体的認知と言えるだろう.しかし1990年代になると,ロボティクス,生態心理学,進化論,脳科学の影響のもとで,人の知性は身体的基盤の上に成り立っているということが様々な分野で明らかにされてきた.ここにも以前書いたかもしれないが,Barsalouの知覚的シンボルシステムというのは,まさにその代表格である.これは身体性認知科学という新しい学問領域を作り出した.この知見はめちゃめちゃに大事であり,否定されることがあってはならないと考えている.しかしながら,これらが作り出すのは動物の知性,あるいは動物的基盤を持つ人間の知性なのであり,人間的な知性にはたどり着いていないのではないだろうか.人間的知性にチャレンジするためには,前述した意味に彩られた世界を作り出す,プロジェクションを真面目に研究するしかない,というのが私(たち)の立場だ.

このステージに進むことにより,

  • 小説やドラマで泣く,笑う,勃起する
  • 幽霊を見る
  • 満腹なのにさらにケーキを貪る
  • 踏み絵を踏めずに亡くなる(踏んでしまい屈辱と後悔に塗れる)
  • 女性の下着に発情する
  • 着るはずのはない物をしこたま買い集める
  • バディたちに萌える
  • お墓の前で厳粛な気持ちになる
  • 主義主張,国家などのために命を投げ出す

などなど,大変に興味深い現象にアプローチできるのではないだろうか.

こういうことを考える機会を与えてくれた学会,浅田先生,鮫島さん,発表者,参加者の方,そしてプロジェクション仲間たちにお礼を言いたい.

(さて,こうやって書いていてふと気づいたのだが,これ(mixed reality)って大森荘蔵先生の「重ね描き」なの・・・・,もしかして)


プロクジェクションについての今日の気づき

2017/5/2

今日、プロジェクションについてわかった気がしたので、メモ書きみたいなものだけど、きちんと残しておきたいのでアップします。意味がわからないかもしれなけど、そこらへんはまた後日補足ということで。

    人の認識は不完全である(Change blindness, False Memory, Analogyなど「教養としての認知科学(4章)」)

    にもかかわらず、すべてを自分が認識しているという「錯覚」が生じるのはなぜか。

    それは実は錯覚ではない。今いる世界、状況を、認識に組み込むからである。もう少し詳しく言えば、今、世界にあるもの(知覚されているもの)は、自分の認識(推論、拡張、補填)と一緒のものとして扱われるのだ。

    実在(として感じるもの)=表象(推論、想像)+知覚しているもの

    このことを逆に言えば、自分の知覚は世界にあるものとなる(対称性推論)。

    表象(推論、想像)+知覚しているもの=実在(として感じるもの)

    つまり今自分が作り上げる表象は、世界にあるものなのだと。なぜなら認識は世界の補助の中で成り立つから。

    このモードの認識は、世界と認識が一体となっているからなのだ。

    既知のものが隠されていても、隠された背後にその延長があるとわかるのだ(Barsalouのシミュレーション)。

    そしてそれは世界自体と一体化されて知覚されるのだ。つまり世界に定位されるのだ。

    この世界との協調(錯覚?)がプロジェクションなのだ!!!

つまり、認識が今ある世界を含んでいるため、そこから推論されたものも、世界に実在しているものなのだと感じるのだ。


ポランニーから見るプロジェクション:棲み込み

2017/4/5

さて近位項として捉えたものを遠位項に投射するということは,遠位項の世界の中に自分の感覚を飛ばすこと=プロジェクション(投射)すること,となる.ということは,遠位項の中に自分の感覚が存在することになる.世界の中の対象である遠位項の中に自分の感覚があるということは,言い方を変えれば,遠位項のある世界に自分が「棲み込む(dwell in)」ということだ.

このように考えると,棲み込みは身体化(embodiment)とも密接に絡むことになる.対象世界の中に自分の感覚,認識を投射することで,世界を内在化=身体化するということだ.これによって対象世界の動きが自分の身体の動きのように自然なものとなり,なぜそう動くのかを直感として理解できるようになる.ここでは近位項=感覚はもう意識されない,暗黙化,私秘化されている(ここらへんは,佐伯さんの擬人化なので,これもまた別エントリーで書きますけど,佐伯さんの90年代くらいに顕著に表れていた主張とポランニーはとても似ている).

このように言うと大変に神秘的なもののように聞こえるかもしれないが,ごくごく当たり前のことではないだろうか.例えば前のエントリーで書いたような杖のことを考えてみよう.杖を使っている人はそれが何か障害物に当たった時には,その障害物を感知するのであり,自分の手のひらの感覚はよほど極端なもの,あるいはありえないもの(電気ショックとか)でない限り,意識の外にあるのではないだろうか.

視覚もそうだが,これは別エントリーで書くので,聴覚を取り上げてみる.ここでも杖と同じことが起きる.実際には鼓膜の振動,耳小骨,蝸牛の振動,活動が近位項となる.しかしこれを感じる人はいない.音の発生源=遠位項が直接に感じられる(杖同様,あまりに異常な刺激,極端に大きな音などの場合は,耳が痛くなる,つまり近位項を感じる).

このように極端な場合を除けば,ある程度慣れ親しんだ近位項=感覚は私秘化,暗黙化される.つまり意識の外に出てしまうのである(暗黙知というのはこのことを指すわけではないことに注意).すると感覚を与えていた遠位項が自分の目前にある,あるいは自分が遠位項のなかに入り込んでいる,つまり棲み込みという感覚が生み出される.

こうした現象の脳内機序については,「脳の中の身体地図―ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ」でさまざまな例が見られるボディマップの更新,またこの本の中で紹介されている入来らの研究が参考になると思う.


ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項

2017/4/4

マイケル・ポランニーといえば「暗黙知の次元(The Tacit dimension)」という連想がすぐになされる.それで暗黙知=言葉では語れない知識があるということになり,それを明らかにしよう,明示化・公共化しようということを言う人もいる.これについてはいろいろと議論があるのだけど,今回はそういう話ではなく,プロジェクション・サイエンスとの関係を考えてみたい.

実はプロジェクション・サイエンスを真面目に考えられそうかかなと思った,幾つかのきっかけの1つはポランニーの上記の本なのだ.彼はその中で近位(近接)項と遠位項(遠隔項)という概念を持ち出す.これらは心理学者には珍しい話ではないのだけど,他ではあまり聞かないかもしれない.彼はメルロー=ポンティも使った盲人の杖を例に出す.杖の先に何かの障害物,例えば壁にあたり,その振動が杖を持つ手のひらに伝わる.この時,手に感じるものが近位項であり,その近位項を生み出した壁が遠位項となる.プロジェクション・サイエンスの言葉で言えば,近位項=ソース(感覚,その表象),遠位項=ターゲットとなる.

近位項=手のひらの感覚自体は,遠位項=壁とはどういう意味においても類似していない.だから近位項をどんなに詳しく解説しても,壁は現れてこない.しかしこれの間のつながりを人は生み出している.これをポランニーは,投射,プロジェクションと呼んだ.そして投射は西欧哲学の中でまともに取り上げられたことはないが,確実に存在する重要なものであると述べている.そして理解の背後には必ず投射が存在していると指摘した.

(この「投射」の下りなんだけど,20年以上前にこの本を読んだ時に,赤線でしっかりとマークしてある.そのとき大事だろうなと直感的に思ったのだけど,数年前に読み返すまで全く記憶に残っていなかった.でもプロジェクション・サイエンスのことを考え始めたときに,「なんかポランニーは読まないといけない」とか,そういう形で思い出した.面白い.)

この考え方は人の認識の様々な局面に応用することができる.文章理解で考えてみよう.私たちが文を読むときに直接感じ取れるのは,その文の単語,文法そういったことである.これらは近位項となる.一方,文はある状況,状態を記述している.これが遠位項となる.近位項として触れるもの自体は,それが記述する状況とは何の関係もない.例えば,「太郎は眠くなったのでベッドに向かった」という文を構成するいかなるものも,現実の太郎,ベッド,眠さ,向かうこととは類似していない.しかし私たちは受け取った近位項から,それが記述しようとする状況という遠位項へとプロジェクションを行うのである.そしてこの時に初めて文が理解されたと言える.

さてこのように考えると,遠位項が意味であり,近位項はその構成要素であるかのように考える人がいるかもしれない.しかしそれは間違いだと思う.近位項は遠位項を前にした時の身体感覚なのであり,これを抜きに遠位項だけを理解することはできない.例えば盲人は杖から伝わる手のひらの感覚抜きに,壁を感じる事,理解する事ができるだろうか.それは無理な話だろう.だとすると二つのつながり,包括的理解が意味なのであり,どちらか一方が意味的な優先性を帯びているわけではない事がわかる.

近位項としての身体感覚と遠位項としての対象,状況,世界との間の関係は,視覚を例にとるとさらに面白くなるけど,これもまた長くなると思うのでまずここで一回区切っておこう.


プロジェクション・サイエンスとは何か?

2017/3/31

前のエントリーのようなことで十数年来のテーマに一応カタをつけたので,2016年から2つの関連する研究テーマに現在邁進中です.1つはプロジェクション・サイエンスの設立に関わるものです.

認知科学は物理世界の刺激,情報から,なぜ主観的な経験が生まれるのかをなんとか研究しようとしてきました.そしてその野望は脳科学との協働により,素晴らしい形で実現されてきました.50年前と比べてください,誰にとっても,そこには心の探求という道筋での飛躍的な進歩がはっきりと見えると思います.

しかしながら,ここに大きな問題が潜んでいます.入力から構成される表象は,脳内,あるいは情報処理システム内の出来事です.知覚,記憶,学習の成果は脳内に出来上がります.しかし,それらは外界に存在するものなのです.別の言い方をすれば,誰かの顔を認識するとは,脳内の出来事であると同時に外界への参照でもあるのです.

この投射を「表象」について探求するのがプロジェクション・サイエンスです.例えば触覚は分かりやすい例です.皮膚表面の刺激は,体性感覚野で表象されますが,体性感覚野が冷たかったり,痛かったりするわけではなく,当該の刺激の部位にそれを感じるわけです.これはプロジェクションです.このプロジェクションの過程には求心性,遠心性の神経が関わるので理解しやすい例となっています.視覚における対象の定位にもプロジェクションが含まれます.視覚機能の働きにより対象の表象が脳内(情報処理システム内)に出来上がります.しかし私たちは脳の中に対象を見るのではなく,世界の中に対象を見ます.つまりここでは視覚表象のプロジェクションが起きているわけです.しかし触覚とは異なり,表象から対象に至る物理的経路は存在しません.聴覚も同様です.

これらの知覚は情報の発信源(以降ソース)とその定位先(以降ターゲット)が同一ですが,異なる場合もあります.例えば聴覚研究における腹話術効果はその例です.聴覚情報のソースは人形を操る人間ですが,ターゲットは人形となっています.また多くの研究者の興味を引いてやまないラバーハンド錯覚も同じタイプの投射(異投射)と言えます.さらに自己にも投射が深く関わります.ここには自己受容感覚と自分の身体との投射が存在します.これも当たり前のことと言えますが,フルボディー錯覚に見られるように,それがずれてしまう場合もあるわけです.

これらはいわゆる心理ネタですが,フェティシズムのようなもの,何かに対する深い愛着(オタク)などもプロジェクションの観点から考察できるのではないかと思っています.

私が虚投射と呼ぶプロジェクションもあります.これは表象を生み出すのに関わる明確な外的な対象物がない,あるいは認識されていないのに,何らかの理由で表象が生み出され,それが環境中の何らかのものと見なされる場合です.幽霊,神,幻覚などがこれに該当します.

こうした現象をさらに興味深くするのは情報技術です.First Person Shooting Gameなどでは向こうから飛んでくる弾に反応して体がかなり揺れます.さらにCGと組み合わせたHMDなどを用いることで,簡単に実世界とは異なる世界に没入が可能になります.つまりここでは現実に存在しない世界への投射が起きているということです.またエージェント研究などが示唆することは,ある程度の応答関係(視線の一致など)があると,私たちはそのエージェントに人性を付与します.また脳科学の進展によって,脳内のある部位を刺激することにより,幽体離脱(自分の身体感覚(自己受容)を誤った場所に投射する)とか,いもしない人の幻覚が生み出されるなどが報告されています.

こうした様々な現代的なテクノロジーを用いて,心,社会,臨床に見られる人の様々なプロジェクションのメカニズムとプロセスを知ろうというのが,プロジェクション・サイエンスです.興味があったらご連絡ください.また本年は今の所,
人工知能学会
認知科学会
の2つでセッションを持ちます.是非ご参加ください.特に後者はまだ発表受付中ですので,ふるってご応募ください.