意識はない,という考え方

2019/9/22

前野は受動脳仮説というとても挑戦的な仮説を提案している(おそらく彼自身は仮説とは考えていないが).意識というものは我々の日常的な活動に全く関与しない.環境からの多種多様な情報を処理するのに長けた、多くの小人たちが脳の中に存在し、それらがそれぞれの思いの下で勝手に行動する.日常生活はそれで終わりである.しかし何らかの理由で進化した意識システムがこの小人たちの活動の結果を知るところとなる.そこで意識システムは小人たちにご苦労さんというかというとそうではなく、なんと恩知らずなことに自分が小人たちを動かしてやったという作話を行う.だいたいこれが前野の語る受動脳仮説というものだ.

どうしてこんな作話が可能になるのだろうか.これを考えるときに参考になるのはダニエル・ウェグナーの『見かけの因果』という大変に魅力的なアイディアである.我々人間は様々な出来事の間に原因と結果という役割を与えてながら世界を理解している.急に部屋が明るくなったとしたら(結果)、誰かが電気をつけた(原因)のだろうと思う.さんまが焼けるにおいがした(結果)ならば,誰かが近くでサンマを焼いている(原因)のだろうと思う.

原因となる事象と結果となる事象の間には特定の関係が必要になると考えられている.まず原因は結果よりも先に起こっていなければならないというものである.さんまのにおいがしたことが原因で誰かがサンマを焼くなどということはない.後に起こったことが先に起こったことを引き起こすということは論理的に有り得ない.もう一つは意味的関連性である.結果となる事象の前にはさまざまな事象が起きている.しかしそれらの大半は原因とはなり得ない.部屋が明るくなる前には、自分は食事をしたかもしれないし、外で犬が鳴いたかもしれないし、昨晩は妻の誕生日だったかもしれない.しかしこれらはいずれも原因とはなり得ない.食事や犬の鳴き声や妻の誕生日は部屋が明るくなることとは意味的に無関係だからである.

この意味的関連性については,ガルシアとケリングの行ったとてもおもしろい実験がある.この実験ではネズミにちょっとかわいそうなことを行う.檻に閉じ込められたネズミがそこに置いてある水を飲むと,そのネズミに大量の放射線を照射する.これをされると人間同様ネズミは吐き気を覚えることになる.吐き気はもちろん嫌なことなので、ネズミは水を飲まないようになる.これは当然のことである.さてこの実験で水を飲んだ罰として与えられた放射線を電気ショックに変えたらどうなるだろうか.むろん電気ショックも楽しいはずはないので、水を飲まなくなるように思える.しかしこうした条件ではネズミはいつまでも水を飲み続けるという(そして電気ショックを与えられ続ける).

さてネズミはなぜ電気ショックのときには水を飲むことをやめないのだろうか.ネズミの気持ちを代弁すれば、『そんなこと有り得ない』からである.水を飲んで電気的なショックを感じるなんて有り得ない、つまりこの2つの出来事の間に意味的な関連性が見つけられないのである.人間だってそうだろう.何かを口にして気持ちが悪くなれば食べたものが原因だとわかる.しかし電気的な痺れを感じたら,その原因が水にあるとは思えないだろう.

少し寄り道が長くなったが、因果関係には原因の時間的な先行性と原因と結果の間の意味的関連性が必要ということが理解できるだろう.ということで意識の作話に戻ろう.ウェグナーによれば,すべての人間の行為は無意識的なプロセスの産物である.ところが人間はこの無意識的プロセスが進行している中でなぜか『意図』というものを発生させてしまう.そして面白いことにその意図は実際に行為が開始される前に発生するようである(リベットの実験を思い出してほしい).さてそうすると、行為という結果を観察すると、その直前に意図が発生していることに気づくことになる.この意図は行為の直前に生じており、かつ行為そのものと意味的に関連しているので(だって,その行為をやろうという内容を含んでいるのだから)、人間の因果原則に照らして原因となる資格を有していることになる.そうしたことで意図が行為の原因だという錯覚が生まれるのである.

コーヒーカップに手を伸ばすという行為を取り上げて具体的に考えてみる.ふつうは自分が手を伸ばそうと思った,つまり手を伸ばそうと意図したので手が伸びたと考えるはずである.しかしウェグナーによれば,そうではないことになる.コーヒーカップに手を伸ばすことは意図とは無関係に完全に無意識的に実行される.しかし手を伸ばす直前に,おそらく0.2秒前に,この無意識的プロセスは『手を伸ばそう』という意図を発生させる.なぜ手を伸ばしたか、その原因を考える際に,本当の原因である無意識的プロセスは無意識的であるが故に原因の候補とはなり得ない.その結果、原因の候補として唯一残るのは,『手を伸ばそう』という意図だけになる.よって『手を伸ばそうと思ったので手を伸ばした』という見かけの因果関係,つまり作話が成立することになる.

興味深い例から,同様のことを主張しているのがスーザン・ブラックモアである.この例とは次のようなものだ.冷蔵庫を知らない人がいたとしよう.この人は冷蔵庫のドアを開けて中にいろいろなものが入っていることを知ると同時に、冷蔵庫中にはライトがありそれが中を照らしていることも知る.何度開けてみても、ライトはついている.こうしたことから冷蔵庫のライトがいつでもオンになっているという結論を出せるだろうか.

意識状態にあるだろうかと自分に問いかける.するともちろんそうしたことを意識できるので『私は意識状態にある』と答える.何度繰り返してもそうである.こうしたことから、私たちは自分にいつでも意識があると考えてしまう.しかしそうした問いかけを行わないときにはどうなのだろうか.意識はあるのだろうか.冷蔵庫のドアが閉まっているときにはライトがオフになっているように、私たちが意識的な問いかけを発しないときには意識はオフになっているのかもしれない.

コーヒーカップをつかむ話も微視的に考えれば,意識や意図なんか全然関係していない部分がたくさんある.腕を伸ばそう,適当な位置で止めよう,手を開こう・閉じよう,指に力を入れようなど,たくさんの微視的な行為がここには含まれているが,そういうことを意識することはほとんどない.だから身体は意識とは無関係に勝手に動いているのだ.

彼女はこうしたアナロジーから,私たちの通常の活動の中には意識もクオリアも主観的経験も存在しておらず、我々の生活する環境に高度に適応した脳が意識の働きの助けを借りずに,つまり自律的に反応し、体が動いているだけなのだという.そして意識は錯覚に過ぎないと主張する.どんな錯覚かと言えば、我々は経験を意識化し、意思の力によって行為を行うという錯覚である.


The New Unconscious (2): 意識は何のためにあるのか by Bargh

2010/5/31

この本の第2章はこの分野をリードする研究をしてきたことを私でも知っているという、John A. Barghによるもの.行為が意識とは独立に行われるという知見が彼の研究分野である社会心理学だけではなく,神経科学や,認知心理学でも得られているということを数多くの研究から明らかにしている.これらの知見がわかりやすくまとめられている.

Barghらの研究の驚くべき点は、被験者が意識しないような刺激,あるいはそもそも意識できない刺激(サブリミナル)を提示することで,その後の行為が無意識的に、そして顕著に変化するという点である.たとえば「協力」(あるいは「敵対」)という単語を事前の課題(たとえば語彙判断課題とか)で提示される.その「後に他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施する.すると、「協力」に関連する「仲間」とか「援助」などの単語を事前課題で見た人たちは協力的な行動が増加し,敵対的な単語を見た人たちは敵対的な行動が増加するという.老人関連の言葉(白髪とか杖)を提示すれば、その後に行われる記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりする.

下條信輔さんの本で詳しく紹介されていたはずなので例はこの程度とするが、これはかなり驚くべきことである.これと類似したものに,プライミングを用いた潜在記憶研究がある.ただしこれは事前課題で提示した単語に意味的に関連した言葉の認知スピードが速くなるとか,想起しやすくなるというものであり,意味ネットワーク、活性拡散のようなものを考えれば、それほど不思議という感じもしない.一方Barghらの研究では、行為自体が変化してしまうというところが謎なのだ.「協力」と言われただけで実際に協力的になるとか、「白髪」と聞いただけで行為のスピードが落ちるいうのは単なる意味ネットワークと活性拡散では到底説明できないだろう.

これについてBarghは、そもそも言葉というのは個体発生の初期においては行為と結びついたものであり、そうしたことが上記の実験の結果の一員であると述べている.この解釈はちょっと無理があるように思う.この解釈に従えば「協力」が協力行動を促すのはまだわかるとしても,白髪が記憶力の低下や行為のスピードの低下をもたらすことの説明は難しいのではないだろうか.他の本に出ていた「スーパーモデル」がクイズ課題の成績を劣化させたり,シューマッハが読解スピードを上げるなんて言うのも無理だと思う.

もう一つ大変に面白い問題提起と仮説が述べられている.これは意識の役割に関してである.意識を通さないでたいていのことが行われるとすると(第1章のものそうだけど),そもそも何のために意識なんてものがあるのかという疑問が当然のことながら湧いてくる.

Barghはこれについて、意識はさまざまな心的状態や活動を抽象的なレベルで統合するという役割を持っているという.(これは自分が考えた例なのだが)「男」という漢字を初めて覚えるとき、字のパターンをなぞるという、感覚と運動にのみ依存した覚え方もあるのだが,「田」と「力」だと意識的に分析し,これらをあるパターン(上下)で統合する覚え方もあるだろう.つまり最初のものはある環境刺激から部分的な行為が誘発され,その行為の結果に次の行為が誘発されという形,つまりパケツリレーというか,ドミノ倒しというか,そういう方法でしか物事は達成されない.しかし,意識的な把握があれば環境や行為の結果の時間的順序に依存せずに,一挙に物事を達成することが可能になるということだ.さらに、これらをチャンク化して、意識への負担なしに即時実行可能にする.そうすると「勇」という時を覚えるときには「マ」と「男」(間男?)として覚えてしまうこともできる.Donald(2001)は

Whereas most other species depend on their built-in demons to do their mental work for them, we can build our own demons

という形でこのことを述べているという(demonというのはチャンクと読み替えてもよい).つまり上の例で言えば「田」と「力」というdemonから、「男」というdemonを生み出すということになるだろう.

さてこうして考えると、とても逆説的な結論が出てくるという.それは「意識は無意識的に実行できることがらを集め,まとめあげ,これら全体を無意識的に実行可能にするために存在する」というものだ.別の言い方をすると,現状の(意識的?)分析から既存のチャンクを呼び出し、このチャンクと現在の情報を組み合わせたチャンクを作り,これを一発で(つまり無意識のうちに)実行可能な形に変化させる、ということになるのかもしれない.

なかなか面白いアイディアではあるが,いくつか疑問もわいてくる.

  1. なぜ新しいチャンクの生成には意識(特にawareness)が必要になるのだろうか.無意識のうちにこうしたことが出来る可能性はないのだろうか.
  2. 動物もこうしたことを日常的に行っているような気がするが,動物にも意識は存在しているのだろうか.

1も2も難しい問題だと思う.


潜在 ]

The New Unconscious (1):意図なんか要らない by Wegner

2010/5/17

第1章のWegner, D. M.によるWho is the controller of controlled processes?を読んだ.ポイントは何かというと,意図が行為を引き起こしたというのはそういう知覚を行ったということであり,実際にそうであるというわけではない、ということになる.つまり、意図を行為の原因とするのは,習慣化された因果知覚に過ぎないという、驚くべき主張である.

因果知覚は

  • 直前性(priority)
  • 一貫性(consistency)
  • 他の可能性の不在(exclusivity)

によって影響を受けるという.つまりある出来事Xが別の出来事Yの原因となるためには,「XがYよりも前に起き(prior)、XがYと意味的に関係しており(consistent)、他にそれらしい原因がない(exclusve)」場合ということになる.昼近くになって急な腹痛に教われたとする.するとその原因は「朝に食べたものではないか」と考える.これは朝食が腹痛よりも前におき,食べたもので腹痛が起こるという意味で一貫している.その間に何かを食べるチャンスはなかったとすればこの可能性はさらに高まる.一方,朝食と腹痛の間に何かを口にしていた場合には朝食ー腹痛間の因果関係は弱まる.

こうしたことは意図と行為の因果の間にも成り立つという.たとえば実際にはまったく自分の意志は介在していない現象(動かしていたマウスが止まる)に対して,その直前にそれらしい情報を与える(特定のポイントをさす単語を与える)と自分が止めようと思って止めたと誤解してしまう.二人羽織のような状況で、特定の場所に手を動かすような指示を聞き,その後に他者の手がその場所に移動すると、自分が動かしたような気がする.つまりいずれも自分が行った行為ではないにもかかわらず,その行為の直前に関連することがらが意識されると、そのことについての意識が行為の意図(=原因)とされてしまう(constructされる)のである.

もう少し別の観点からそれを述べると,以下のようになる.実際には以下で示すように,行為の原因は意図とは別のところに存在する.しかしこの行為に時間的に近接し,かつ意味的に関連した思考が発現する.このようなとき,ここの思考は行為の原因,つまり意図とされてしまうというわけである.

思考の原因ー>思考の発現

↓ 見かけの因果

行為の原因ー>行為の発現

具体例を出して考えてみる.煙草を吸うという行為が行われる.実は煙草を吸う行為というのは,身体のさまざまな物理的状態(血中のニコチン濃度が減ったとか)、環境の状態(そばにタバコがあるとか)などから、機械論的に決定されている.これが真の因果関係である.しかしここでタバコが視野に入るとか、飽きてきたとか、眠くなったとか、そういう心理状態があり,それが「煙草を吸いたい」という思考を生み出す.すると、そうした思考は煙草を吸うという行為とほぼ同時に発生し,意味的に関連しているので、(また他のそれらしき要因もないとすれば)その思考が行為の意図とされるというわけである.

それでは意図や思考の役割とは何かというと、それはある行為とその結果のpreviewを提供することにあるという.人間は経験を通して行為とその結果についてのさまざまなエピソードを貯えている.こうしたエピソード記憶が喚起され,その結末までを見通すことが出来るという.

で、彼の言葉でまとめると,

(mental causation) is a construction nonetheless and must be understood as an experience of agency derived from the perception of thoughts and actions, not as a direct perception of an agent.

となる.

まあ、これほど大胆な話はあまり聞いたことがない.行為の原因が意図ではないとすれば、あらゆる犯罪は過失によるものであることになる.どこか変だと思う.しかしこうした枠組みを使えば,物質と精神をつなぐという難問の一部を避けることが出来るはずだ.

その他、この章を読んでいて気に入ったのは

Volition is an emotion indicative of physical change, not a cause of such changes (Huxley, 1910).

Conscious will can be understood as part of an intuitive accounting system that allows us to deserve things (p.31)


潜在 ]

The New Unconscious (0)

2010/4/21

思考を前頭葉から解放する、という言葉はここのページで使った記憶がある.しかし、思考はそうしたものではないということが徐々に明らかになってきている.思考は

  • 感情
  • 身体
  • 環境

の生み出す情報に強く影響を受けながら営まれていることがいろいろな研究から明らかになってきた.つまりきわめてダイナミカルということだ.

特に私が注目してきたのは、思考と無意識との相互作用だ.思考は理性の現れであり,プランやモニタリングなどの意識の作用によって注意深く制御されたプロセスであるというのが常識だと思う.しかし思考以外の大半の認知機能は、無意識的、潜在的な処理の産物である.そうしたことからすれば,思考だけが無意識とは無関連に営まれているとは到底考えられないわけだ.

こうした次第でだいぶ前から、洞察のプロセスが潜在的学習のプロセスであると主張してきた.簡単に言うと以下のようになる.人は失敗を通して徐々に学習し洞察に近づく.しかしこれはほとんど無意識的なプロセスであり,意識はその学習のプロセスにはほとんどアクセスできないどころか、潜在学習の成果とは全く正反対の評価を行ったりする.そして潜在学習が進みいよいよもう洞察目前となった頃に、このとても鈍い意識的な、顕在プロセスが「わかった」などと叫ぶ.

こうした考え方を洞察においてしたのは自分たちが初めてだと思うが,意識と無意識の関係について同様の主張をしている人たちは他にもたくさんいる.たとえば慶応の前野さんは「受動意識仮説」を3冊の著作を通じて(たとえばここ)提案し,この問題に切り込んでいる.また下條信輔さんは「サブリミナルマインド」などを通して、認知と無意識との関わりについて包括的な議論を展開している.

こうしたものを読んでいく中で,実験社会心理学の分野では古くから意識ー無意識の問題を扱ってきたこと,そしてここ20年くらいはBarghやオランダのグループが高次認知活動における無意識の役割についての研究を展開してきていることを知った.この一部は「無意識と社会心理学」という訳書にもなっている.

こうしたことから,この分野の研究をもう少し体系的に知りたいという願望が強くなってきた.今年,非常勤をしている大学院で十数名ほどの参加者があったということもあり,

R. R. Hassin,,  J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) (2005) The New Unconscious (Oxford)

を読むことにした.この本は、

  1. Fundamental question
  2. Basic mechanism
  3. Intention and theory of mind
  4. Perceiving and engaging others
  5. Self-regulation

の4つのパート、全19章からなる本である.読み始めてみたがなかなか楽しい.機会があるごとにメモ代わりにここに気づいたことを残しておこうと思う.


精神分析を見直す

2008/5/3

精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.

確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。

こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.

その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.

もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.

よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.

ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.