大学教育の誤ったメタファーと新しいメタファー(1)

2017/8/27

メタファーは何かに何かを例えるという行為である.様々なタイプのメタファーがあるけれども,レイコフとジョンソンの唱えている概念メタファーというのは,人が世の中を捉えるときの根本的な基盤を作り出すという意味で,とても重要だと思っている.

さて大学の改革とか称して,文科省が打ち出したものに,3つのポリシー(3Pという人もいるが下品だからやめましょう,正しい省略形は3ポリらしいです)の明確化というのがある.

  1. アドミッションポリシー:どんな人間を入学させるのか,
  2. カリキュラムポリシー:そこでどういう教育をするのか,
  3. ディプロマポリシー:どんな人を卒業させるのか,

というものだ.またこれらがうまく機能しているかどうかを評価するための,アセスメントポリシーというのも必要なのだそうだ.

さてこれを見てどう感じるだろうか.これを見て,当然だろうと思う人も結構いると思う.そういう人はある概念メタファーを採用している.それは,製造物(工場)メタファーというものだと思う.菊正宗のページから取ってきたのだが,要約すると以下のように書いてある.

  1. 原料:山田米にこだわり,宮水を使う
  2. 加工:酒母(麹)を4週間かけ,科学的な方法で育てる
  3. 雑味がなくスッキリとした味わいと、キレのあるのどごしがどんな料理にも合う、理想の本流辛口にする

厳選した素材を仕入れ,それにキチンとした手順で処理,加工を行い,いつでも同じ製品を作り出すというのが,工場メタファーだ.無論,ものづくりとして正しい方法だと思う(絶対飲まないけど).

これがそのまま教育にも使われていることはすぐに見て取れるだろう..原料についての指針がアドミッションポリシーで,加工がカリキュラム,製品がディプロマポリシーということだ.

ところでこういうメタファーは教育において本当に機能するのだろうか.まともに考えれば絶望ではないだろうか.入り口で言えば,自分たちの教育方針に従う意思のある人間を本当に選別できるのか,そんな方法はそもそもあるのか.また出口で言えば,本当にそのポリシーに沿った人間を輩出しているのか,各教員がやっていることはディプロマポリシーに沿って規格化されているのか,甚だ疑問というよりは,そもそも嘘だと思う.

さて文科省とそこに出入りする学者の一部は,こうした問題があるので,アセスメントポリシーというのが必要だという.つまり本当に3つのポリシーが実現されているかどうかを証明でいる手段を用意せよ,出来ないのであればそれをできるようにする手段と組織を用意せよとかいう.

これは無謀を通り越している.そんなことはできるはずがない.人を計測する,人の学習を評価するということに対する,度を超えた楽観論といえば聞こえはいいが,無知蒙昧の表れであるとしか言いようがない.大学の目標が自動車教習所レベルのものであれば,それは可能だろう.でも心の科学を少しでも勉強している人ならば,各大学の3ポリを見たとき,そんな能力そもそもあるの,仮にあるとしてどうやって測定するのと,そんなことできればノーベル賞クラスだよと思うに決まっている.

このように全く成立しえない工場メタファーが安易に導入され,その実現に向けて,有為な,そして努力を惜しまない人々が,奮闘している(そういう仲間たちを数多く知っている).これは全く無駄なことに熱中し,時間を浪費しているという意味で,とても悲しいことかなと思う.

もう十分長いので,新しいメタファーについては次のエントリーに書くことにします.


おもしろい研究

2017/6/25

学部でも、ゼミでも「おもしろい研究」をしましょうと言っている。本人自身が特におもしろいとも思わない研究の相談に乗るのは、苦痛だし、時間の無駄だと思う。卒論でも、修論でもかなりの時間をかけて、それに取り組む。その時に、本人自身が面白いと思ってない研究を続けることはかなり難しいのではないだろうか。また本人が面白いと思わなければ、それを訴えることができないから、聞いている教員も面白いとは(多くの場合)思えない。そうすると、アドバイス、指導もいい加減になり、何の意味もない時を過ごすことになる。

何を以っておもしろいかという第一条件は、少なくともその話をした時に(一部の)人が「へぇ」ということだと思う。当たり前のことを述べれば「へぇ」はないので、却下ということになる。学力は勉強時間に比例するとか、字を綺麗に書くと読みやすいというのは、全然面白くない。やらなくてもほとんど結果が分かっているからだ。学部生には、友達に話した時に「へぇ」と言ってもらえるようなネタでやってくれと、いつも言っている。

二番目の条件は、もう少し厳しいかもしれない。それは、「研究」というタームに関わることだ。「研究」というのは理屈が、原理が、仕組みがわかるということだ。そういうことがわかる可能性のないものは研究としては「面白く」ない。気温18度の時に分数の計算の間違いが減るとか、赤い色を見ると挑戦しなくなるとか、そういうことは少なくとも現時点ではその仕組み、原理、因果関係を解き明かすための道具が存在していない。また(おそらく)それを考えてもわからないと思う。そういうものも、「面白く」ない。よく「ここはやっていないので」というのがあるけど、それは理由にならないのもそこらへんにあるかなと思う。理屈が考えられそうもないことはやってもあまり価値がないから、誰もやらないのだと思う。

それで「おもしろい」研究というのは何かといえば、佐伯胖「認知科学の方法」の最初の章を是非読んでもらいたい。これほど明確に「おもしろさ」を語ったものはないと思う。

  • 縦糸:その分野の研究史
  • 横糸:時代精神
  • 斜め糸:対話相手、論争相手

こういうことが大事なのです。解説はやめます。原著にあたってください。

ちなみにおもしろさというのは人によって違うのではという意見があると思う。確かにその通りだと思う。ただ、ある論文を読んだ時に、一定レベル以上の研究者が十人十色ということはない。すごい研究は、大半の人が「すごい」と評価できる。ちなみに、僕の担当する大学院のコースは、ワークショップデザイン・開発を行う苅宿俊文、状況論の先端を切り開く高木光太郎、香川秀太、そして私という、あまりオーバーラップがない教員たちがいるが、年度末の学生の修論の評価で割れることはほとんどというか、全然ない。ある教員が面白いというのは、他の教員もほとんどの場合面白いとするし、ある教員がダメを出すものは自分が読んでもダメというのがとても多い。明示化することもできるかもしれないけど、ちゃんと共有はされているのですね。


ウィトゲンシュタインの火搔き棒

2017/5/4

先日、図書館で恐ろしく長い名前の本、「ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」(ちくま文庫)を借りた。世上名高いとあるけど、ぼくはまったく知りませんでした。確かに同時代の人でドイツ、イギリスと関連が深いのだけど、そもそも二人に親交があったということ自体知りませんでした。読めばわかりますが、まあ親交と言ってもたった一度ケンブリッジの研究会というセミナーの場だけであり、親交というよりはタイトル通りの戦いのようなものなのですが。

いろいろとメモを取ったり、考えながら読んだので1週間近くかかりましたけど、これが面白い面白い。訳者あとがきにも書いてありますが、この本は3通りで楽しめます。1つはポパーやウィトゲンシュタインの伝記みたいなものとして読めます。特に後者の家があまりにすごいので腰を抜かすほどです。また両者とも20世紀の巨人であり、卓越した頭脳を持った人なのですが、同僚にはなりたくない(絶対に)というほどの性格の持ち主であることにもびっくりです。ぼくは大学に40年くらいいますし、いろいろな学会などに出席し、人格破綻者と言えるような人を数名見てきましたが、この二人は桁が違います。中学の軟式野球のエースとMLBのピッチャーくらい違います。

2つ目は、20世紀初頭のイギリス、ドイツの哲学という学問の風景が見事に描かれているという意味でも楽しめます。この時代のこの分野のことはぼくはほぼ門外漢に近いですけど(そういうと他の時代を知っているみたいに聞こえるか)、少しかじったり、名前を聞いたことある人がほぼ全員と言っていいくらい出てきます(ラッセル、ムーア、シュリック、マイノンク、ノイラート、エイヤー等々)。ここら辺の学問的関係、交友関係などがとてもよくわかり、これらの本にアタックするときの杖になってくれると思います。それにしても、まあ当たり前でしょうが、本当にすごいメンバーたちが膝を突き合わせて議論してたのだと感動してしまいます。各人の学説(例えばラッセルのdenotation)なども出てくるのですが、おおよその目安をつけるためには十分なものとなっています。著者はBBCの人だとか、すごいと思います。

3つ目は大戦間のウィーンの事情が、特にユダヤ人の迫害の歴史がよくわかるという意味で楽しめます。自由で、進歩的で、退廃的で、豪華絢爛でみたいなウィーンが、どうやってユダヤ人排斥、ヒトラー礼賛になったのかの一端がよくわかります。

訳者は書いていませんが、訳もとても素敵です。すらすら読めますし、訳注が短いけどしっかりしていて、日本語の参考文献なども充実しています。

オススメです。


おもしろい研究をする

2013/9/24

9月は忙しかった.さて認知科学会で「30年後の認知科学を考える」というようなワークショップがあり,話題提供をした.その時に提出したものをここに載せます.これはfacebook上で公開されていて,発達心理学者の無藤隆さんからはおもしろいと言われ,哲学者の土屋俊さんからはつまらないと言われています.

自分で書いている時には佐伯さんの「タテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸」で書かれていないことを書けたのではとも思ったけど,結局ナナメ糸、ヨコ糸について別の言い方をしただけのような気もしてきた.

30年後もおもしろい研究を続けるために

認知科学の重要な問題の多くは認識論哲学から生じている.これらの問題について,人類史上に残る最高の知性を持った人間が議論を重ねてきた.しかしながら,何かが解決され尽くし,もう答えが確定したという問題は(多くは?)ない(ちなみに確定することはないことが確定したことは若干ある).

このような歴史上の経緯から推測するに,30年後に視覚,注意,記憶,推論,言語,学習などの知性の根幹に関わる問題が解決されている可能性はほぼ0だろう.そういう意味において認知科学が現在扱っているテーマは,その洗練の度合い,証拠の量,問題の形式,参照すべき範囲は変わるにしても,30年後にも存在していることはほぼ確実と言える.そういう意味で30年後はどうなっているということについて,扱う問題から見る限り心配はない.

おもしろい研究を続ける

我が師の佐伯胖は認知科学の厳密な定義をすることを拒絶し,「おもしろいものはすべて認知科学」というめちゃくちゃな定義(?)を提出した(出所不明).私はこうした姿勢が日本の認知科学を支える大事な柱の一つになっていると信じているし,これが続く限りは認知科学は時代をリードする学問であり続けると思う.

おもしろい研究とは何だろうか.人間の認知に関わることは,何でもおもしろいと思えばおもしろい.解けない問題が解けること,こともが言葉を話し出すこと,何かを思い出したり思い出せなかったりすること,数え上げればきりがない.

それで自分でおもしろがって研究を続けていけばいいかと言えばそうではないだろう.というのは,上記のいずれもおもしろくない当たり前だ,という見方も存在するからである.解けない問題が解けたのは解き方を思い出したから,こどもが言葉を話し出すのはそういう風に設計されているから,想起の可否は努力によるなど,なんともつまらない答えもたくさん用意されているからである.つまり主観的なおもしろさはおもしろさを保証しない.

佐伯はそこで有名なタテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸を持ち出す.つまりその分野の知見を押さえ,時代精神に合致し,対立する相手との対話精神が,研究のおもしろさを構成するという.私はこの説に反対する気は毛頭ないが,別の観点を導入して,おもしろい研究の具体像を描いてみたい.

私はおもしろさには

  • 何らかの参照系が存在すること,
  • その参照系から見ると説明が出来ないこと,

が必要ではないかと思う.ここで参照系とは一般常識であってもよいし,過去の知見でもよいし,何らかの理論でもよい.

たとえば Magical Number 7±2 はなぜ注目を集めたのだろうか.このおもしろさの背後には当時注目を集めていた情報理論,情報量の考え方がある.もしこれがなければ,この研究は大事かもしれないけど,単にいろいろ調べてご苦労
様という研究にとどまっていたのではないだろうか.語意の獲得に関して制約を持ち込んだMarkmanの研究も,その背後にQuineの提出した問題がなければ本当のおもしろさは生じない.協力などの利他行動はそれ自体でもおもしろいが,
それは進化を参照枠とすることでさらにおもしろくなる.

つまりプロとして研究を進めるためには,何らかの参照枠を熟知することが必要になる.そしてその参照枠からある種のパラドックスを生み出すことが,おもしろい研究につながる.

開放系であり続けるための異分野間対話

真にイノベーティブな研究を行うには,他者が参照してこなかった枠を見つけ出すことが必要になるだろう.これによって今までさしておもしろくないとされてきた研究もおもしろい研究に変貌する可能性もある.

ではどうやってそれを見つけるのだろうか.これには異分野間対話が欠かせないと断言したい.そもそも認知科学は学際科学であり,哲学,心理学,人工知能,言語学など多様な分野の研究者が作り上げてきたものである.これらの学問の持つ参照枠は半ば古典となっている.また近年はこれらの古典的な参照枠を乗り越え,認知科学は新たな対話の相手を見いだし,その参照枠を内部化させてきた.たとえば,脳の可塑性,学習能力についての知見を提供する認知神経科学,身体,環境というパートナーの性質及びそれとの相互作用のあり方についての知見を提供する生態心理学,相互作用による知性の創発についての知見を提供する談話研究,エスノグラフィー,生体,環境の相互作用を時間軸の中で統合する力学系,ある認知能力が存在するための条件を明らかにする進化アプローチ,これらとの対話を通して認知科学は不断の展開を遂げてきたと言えるだろう。

今後どのようなパートナー見つけるか,どんな参照枠を持ち込むかは重要な問題であるが,これは各研究者が見つけるべきことだろう.個人的には,考古学,人類史,農業経済学,地理学などは興味深い.

蛇足かもしれないが最後に1つ付け加えたいことがある.それは異分野対話だけで終わってはならないということである.これを認知科学のこれまでの知見と組み合わせ,内部化し,境界を作り出すことが重要である.これを怠れば認知
科学は単なる拡散の道を進むだけになる.内部化し,境界を作り出すことで新たな他者(異分野)が形成され,それによってまた新しい異分野対話,参照枠が生み出される.学会はこのサイクルがうまく回ることに目を配ることが重要な責務となる


Representationは表現か,表象か

2012/9/7

認知科学会のサマースクールに参加した.これは日本の認知科学のパイオニアの一人で,慶應の塾長を経て,現在学術振興会の理事長を務めている安西祐一郎先生の発案で,認知科学会の主催で昨年から行われてきている.基本は,若手の研究者とほどほど年をとった研究者の対話から,認知科学の源流と最先端の成果を結びつけ,今後の認知科学の活性化を図る目的で行われている.昨年は安西先生が3日間,連続で講義するという信じられないプログラムで、もちろん参加した.得ることはたくさんあり、このBlogでも報告しようと思ったが整理しきれず、下書きとして眠っている.

さて初日の安西先生のレクチャーはやはりそうとう刺激的だった.いろいろと得るものがあるのだが,representationの捉え方について,きわめてすっきりしたのでここに報告したい.

representationというのは表象と訳すのがふつうだと思うのだが,認知科学では『表現』と訳すことも多い.工学系の人は表現という言葉を多用し,認知や心理の人は表象という言葉を多用する.たとえば,コンピュータ上で知識を何らかの形で表す場合には『表現』が用いられ,『表象』という言葉は使われないわけではないがあまり用いられない.

なんとなくこの語感はわかっているつもりだったのだが,この根源がMarrの著作に由来する思想と関連づいていることが,安西先生のレクチャーの中でわかった.Marrによれば,representationとは情報(そのタイプ)とその組み合わせの仕方を明示するformal systemということになる.そしてこれを用いて表現された具体的なものはdescriptionと呼ばれる.つまりMarrによれば,表現形式,表現のための型とルールがrepresentationということである.Marrの考え方は,形式論理における理論とモデルとおそらく同じだと思う.世界を記述するための理論とそれによって記述されたモデルということである.

このように考えると,日本語での『表現』というのはMarr的な意味でのrepresentationであり,『表象』というのはdescriptionということになる.たとえばスキーマ表現とか、脳内表現とか,分散表現とか,representationがそういう使われ方をする場合には表現のための系を指す.一方,表象という場合には特定の表現の下で記述されたもの(すなわちdescription)を指すということになる.

工学者がなぜ表現という言葉を多用し,心理学者が表象という言葉を多用するのはこうした事情によるということになる.工学者はさまざまな事物をコンピュータの中で記述するためのシステムに力点があり,心理学者はそうして記述されたもの自体に関心があるということなのだ.

こういう観点から見ると,representationという単一の単語に,我々が異なる訳語を当てることがとても妥当であることがわかってくる.


問題の見つけ方(1)

2011/4/15

下書きのまま放っておいたのを忘れていました.大分前,2010年の12月頃に書いたものですが,一応載せます.

今日,年末かつ祝日にもかかわらず,私の所属しているヒューマンイノベーションコースの大学院入試説明会があった.昨日夜遅くに渋谷の街を歩いていたら,そこら中忘年会で山のように人がいた.こんな日の翌日に説明会に来る人なんかいるのだろうかと心配したのだが,10名以上の参加者があり,コース教員一同胸をなでおろした.

今回は,修士論文の書き方について入学希望者の方達へ話す役になった.前日に準備をしていたのだが,大変に忙しい中の合間を縫って書いたこともあるのか,今朝これを読み返したら全然面白くない,こんな話したくない,(おそらく聞きたくもない)と,かなりめげてきた.ということで急遽,方針大変更し,話を作り上げた.話の大半が表題にある「問題の見つけ方」となってしまい,大変に不完全で結局修論がなんなのかは具体的に説明しなかったのだが,同席した何人かの先生から褒めていただき,Blogにアップせよということだったので,簡単にまとめる.

修論とは「プロである(あるいはプロになりたい)自分が,他のプロたちに対して自信を持って主張できることをまとめること」となる.別の言葉で言えば,学会あるいは学問のコミュニティーに対して知的貢献をせよ,となる.

修論は問題を発見することと,それをある方法で分析していくことになる.つまり,問題発見,方法のこの2つが必要だ.さて問題発見だが,こいつがことのほか難しい.これがわかれば,もうしめたものであり,研究の6割くらいは終わったと言ってもいいのではないだろうか.初心者や研究の初期段階でよくあるパターンは2つである.

1つめは,漠然とした,抽象的な関心だけがある,というケースでだ.「身体がキーワードじゃないか」,「人間と環境の関わりに興味がある」,「共感が大事だ」みたいなレベルである.自分を振り返ってもそうだった.自分も経験と知識の関係に興味があったのだが,そんな抽象的なことで修論を書けるはずはない.修士の頃の周りの人間もこんな感じの人が多かった.しかしながらむろんこれでは論文には全くならない.自分の関心の中から,白黒の決着がつく問題を作り上げて行かなければならない.「白だ」,「少なくとも黒じゃない」などの形で結論が出る形まで,問題を洗練するということが必要になる.むろん,興味がいけないわけではない.それは問題探求の原動力になるものであり,決して捨ててはならないものである.しかし原動力だけで何かが動くわけではないのと同様に,興味だけでは論文は書けない.

2つめは,個別的な問題だけがあるというケースだ.「会社で自分の言っていることが伝わらない」,「クラスのこどもの成績が伸びない」,「自分は年号が憶えられない」とか,そういう個人の経験の中で生じる具体的な問題だけがある,という場合だ.これを解決して,「会社で自分の言っていることが伝わるようになった」とか「こどもの成績が伸びた」という結果が得られても,それをただ書くだけならば日記にしかならない.こういう場合は,この問題をより大きな問題,理論的な問題,学問コミュニティーが取り上げてきた問題とリンクさせることが必要になる.

自分の研究の中でもそうしたケースがあった.17,8年くらい前に大学でコンピュータのアプリケーションの使い方を教えていた時に,高い知性を持った人間たちなのになんでこんな簡単なことがわからないのか,と悩んだことがあった.そしてゼミ生たちと,これを解決する方法を考えたのだが,ただこれを書き連ねただけであればやはり一教師の実践日誌としかならない.また12,3年くらい前にはあるパズルと格闘していたのに,ある時ぱっとひらめいて解けてしまった.これは面白いと思った.しかしこのことをただ書くだけでは,「そのパズル」の解き方を「自分」が発見しただけの日記になってしまう.これらを認知科学が取り上げてきた問題と関連づけるためにほどほどの時間がかかった.幸いなことに,はじめの方の問題は認知科学の基本となる課題分析の考え方,そしてその当時から活発な展開を見せた文化と心理の問題に関連づけることで,いくつもの論文を書くことができた.後の方の問題は,洞察問題解決,そして多重制約充足,表象変化の問題と関連づけることで,いろいろな研究に展開した.

そういうことで個別から抽象,抽象から具体という往復運動が問題発見にはきわめて重要ということがわかる.

この話まだ続くのだが,あまり長いのもなんなので,ここで一応切っておくことにする.


オノマトペ

2009/8/31

オノマトペ(onomatopoeia)という言葉はご存じだろうか.あまり一般的ではないらしいが,擬音語や擬態語を指す.擬音語というのは,ある状態に伴う音を言葉にしたもので,「どたばた」とか,「わんわん」とか,そんな言葉を指す.こうした言葉を聞くと,聴覚的なイメージが活性化し,印象的になる.擬態語というのは,音ではなく主にその状態の視覚的なさまを指す言葉で,「もじゃもじゃ」とか,「きらきら」なんていうのが典型的なものだ.こちらは視覚的なイメージを喚起し,通常の言葉にないインパクトが出る.つまりオノマトペはいわゆる言葉の意味という認知的な側面に留まらない,感性的な情報を伝えているようである.こうしたことを反映して,擬音語や擬態語で表現した文章はそうでないものに比べて記憶成績が向上するとかそんなことが知られている.

さてこれらは本当に聴覚的,視覚的なイメージを喚起するのだろうか.このことが気になった昨年のゼミ生の山崎陽子さんが実験を行った.さてワーキングメモリには,音声的な情報を保持するという音韻ループというものと,視覚的な情報を保持する視空間スケッチパッドと呼ばれるものがある.もし擬音語が聴覚的なイメージを喚起するとすれば,そればそれは音韻ループ内に展開されるし,擬態語に関しては視空間スケッチパッド内に視覚表象が展開されるはずである.よって,擬音語を記憶させるときに他の音声へも注目させたり,擬態語を記憶させるときに他の視覚情報へも注目させたりすれば,各々に負荷がかかり,記憶の成績は低下することが予測できる.こうした実験方法は二重課題(dual task)法と呼ばれ,古くから用いられてきた.

こうしたことで実験を行うと,擬音語を記憶させるときに他の妨害的な音声刺激を入れると視覚的な妨害刺激を入れたときよりも成績が悪くなる.一方,擬態語を記憶させるときに視覚的な妨害刺激を入れると,音声的なそれよりも成績が低下するが統計的にはその間に違いは見られなかった.

問題は擬音語の方ではなく,擬態語の方にある.どうして擬態語では視覚刺激が妨害にならないのだろうか.1つ考えられるのは,記憶リストとして用いた擬態語には視覚性の強い「きらきら」とか,「もじゃもじゃ」などのようなものもあったが,「すべすべ」とか触覚性の単語も含まれていた.触覚性の単語は視覚的な妨害は受けないはずだから,それらの単語の成績がよいために,視覚妨害の効果が出なかったという可能性がある.そこで視覚的な擬態語とそうでない擬態語に分けて分析を行ったが,いずれのタイプの擬態語でも再生成績に違いはなかった.

もう1つの可能性は視覚的な妨害刺激についてである.この実験ではパワーポイントのアニメーションを用いた運動的な視覚刺激が用いられた.こうした刺激の特性が妨害を生じさせなかった可能性もある.具体的にいうと,擬態語では運動的なイメージを伴う単語も用いられたが,そうでない単語が多数存在した.こうしたことから,運動系の擬態語はこの妨害刺激の干渉を受ける可能性があるが,そうでない単語は受けないということも考えられる.そこで運動系の擬態語とそうでない擬態語に分けて再生率を見てみたが,やはり差はなかった.

ということで,擬態語は

  • いわゆる視覚的な表象を活性化するとは言えない,
  • 視覚表象も活性化するがその他のモダリティの表象も活性化する
  • あるいは視覚妨害刺激が適当でない(この可能性はむろんつまらない)

いずれかの可能性ある.こんなことを8月26日から3日間行われた日本心理学会で発表してきた.鳥取大学の田中さん,名古屋大学の鈴木さん,法政大学の矢口さん,東京大学の針生さん,京都大学の楠見さん,青山学院大学の重野さんから示唆に富むコメントをいただいた.このおかげで今後の展開の糸口が見えてきた.具体的には,以下のような可能性を検討する必要があると思われる.

  • (少なくとも視覚的な)WMへの干渉課題は保持時に行うのが普通(<ー田中さんのコメント)
  • もう少し標準的な二重課題の妨害刺激を用いた方がよい
  • 擬態語は被験者ごとに,視覚,聴覚,触覚性の度合いを各単語について聞いて,それをもとに分類をした方がよいのでは?(<ー針生さんのコメント)

やはり学会は楽しい.

現在は,ゼミの根岸くんが記銘語を視覚呈示した場合(上記の実験は聴覚呈示)に同様の効果が得られるかを検討している(どうもちがうようだ・・・).


講義,テレビ,経済,進化とかけて

2009/4/14

非常勤でここ4,5年くらい教えている大学がある.50-100名くらいの受講者がふつうで,一番多いときでも150名くらいだったと思う.ところが先日今期初めての講義に出かけたら,160名ほどはいる教室が満杯どころか,立ち見どころか,廊下に学生があふれていた.

こういうのはむろん大変なのだが,私としてはそれほど悪い気はしない.100名入る教室に10人未満とか,250名の巨大教室に40-50人ほどちらほらみたいなケースが,私の場合はとても多く,なんともやりづらい.人気がないんだろうなぁとため息をつく.こうしたことが多い私にとって,今回は未だかつてない入り方で,ついに私の講義の真価が伝わり始めたのか,と思うわけだ.

しかし今まで5年くらいやって,こんなことがなかったのに,昨年の講義の噂が突然広まるなんてことがあるのだろうか.まあないだろうねぇ.考えてみればいろいろと理由はある.まず曜日と時限が変わった.前は金曜5限などという,およそ人気のない時間にやっていたが,今年は木曜日4限だ.これは大きい.バイトは夕方からとすれば,4限は十分に可能な範囲だ.またその時間にやっている講義がどのようなものかも関係するだろう.つまり同じ時間に必修科目が少ないとか,おもしろい講義が少ないとか,ということも考えられるし,昨年までの時間帯は超人気のある講義が行われていた可能性もある.

こういうのはテレビ番組と同じだ.ふつうの人がまず見ない時間帯に放映すればどんなに立派なものを作っても視聴率は低い.また視聴率をとるには番組自体をおもしろくするというのもそうなのだが,他の局でおもしろい番組をやっていない時間帯にやるというのもあるわけだ.番組の価値(視聴率)は番組に内在する訳ではなく,その他の番組との関係によって決まる.

もっと言えば、ものの値段自体もそうだ,というのは経済の常識.だいぶ前になるけど,新聞に「ワケあり商品が大人気」とかいう記事が出ていた.ワケありは、半端もの、傷ものなどで、通常店頭に並ばない種類のものをさす.割れたせんべい,大きさが不揃いのイチゴ、足の折れたカニ、ちょっと裂けたタラコなどいろいろある.味などはまったく変わらないのに,出荷できないために今までは産地で消費していたとか,捨てていた代物だ.しかしこれをネットなどで通常商品の半額程度販売したところ、バカ売れだと言う.それはそれでいいのだが、あまりに人気になってしまい,その結果訳なしの商品が大量に残ってしまい,結果的にそれを値引き販売をせざるを得なくなり,訳ありも訳なしもほぼ同じ値段になったものもあるとか.

進化もそうだ.昔訳した「アナロジーの力」という本によれば、パンダは摂食面でも,生殖面でも決して優れているとは言えないそうだ.たとえば生殖ー>受胎可能期間は数日、餌は基本的に笹しか食べない.道徳的かもしれないが,生物として決してよい特徴とは言えないだろう.じゃあ、なんでこんな生き物が数百万年も生きているのか.それは彼らの生息する環境に競争相手がいないからだ.捕食者がいない,同じ餌を食べるたの生物がいない,こうしたことがパンダの生存を支えている.要するに、行き残るかどうかは、その個体自身の性質で決まるのではなく,他の生物を含めた環境に関係しているわけだ.これまた進化の常識.

こういう考え方は,構造主義とか,関係論とかいう見方と言える.つまり意味とか価値はそのもの自体に内在するわけではなく,他のものとの関係によって決まるというわけだ.下世話なネタでひんしゅく買うかも.


言語の遺伝子

2009/4/7

今朝の朝日新聞に「拝啓ダーウィン様」とかいう記事があった.そこでは人間の言語を司る遺伝子(FOXP2)とほぼ同等のものがチンパンジーはおろか,マウスにもあったという話が出ていた.それでマウスに言語を話させる実験をするとかいう,研究者の談話が載っていた.

そんな話があったのかと驚いたので,以前特定言語障害というので有名になったイギリスの家族の話を思い出した.確かこの家系の人はこの遺伝子に異常を持つ割合が高く,そうした人たちはかなりの確率で言語障害を起こすようになるというのである.それで調べてみたら,まさにこの家系についてのお話に基づいて,記事に掲載された研究者がお話ししていることがわかった.

しかしこの話というのはその後の研究では,それほど単純ではないことがわかっているはずだ.たしか,この家系で障害を持つ人は,一般的な知能遅滞とか,他の確か身体的障害も伴っているということがわかったはずだ.こうしたことから,この遺伝子が言語の遺伝子というほど単純ではないというのは,ずいぶん当たり前の話になっていたのではないだろうか.それとも何か別の大事な発見がその後になされたと言うことだろうか.

それにしてもこの記事に見られる推論には,ずいぶんと大きな問題がある.ふつう人間において言語の機能を司る遺伝子がマウスにもあったという話を聞けば,その遺伝子は言語には関係ない,あるいはその遺伝子だけで言語が作り出されるわけではない,という推論をするのではないだろうか.この事実から,マウスも言語を話す潜在能力があるというのは,むろん可能性としては存在するが,あまり妥当性の高いものとは言えないだろう.

また言語という言葉で何を意味するのかが全く問題にされていないというのも気になる.言語は古典的には,音韻,文法,意味,状況,近年は身体,運動も関連するとされている.これら多くの能力の総合的な構築物として言語を考えるというのが,ふつうではないだろうか.文法だけを特権化して,これを言語というのはなんとも不思議な感覚だ.


学習=状況敏感性+調整

2008/4/30

先日大学院のゼミを行った.私の担当する社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース以外からも、文学研究科、経済学研究科、および他大学からの参加者などもいて、なかなかにぎやかな授業となった.さてここで三宅君@東大情報学環から面白い質問がきた.その前後の経緯から話すと、創発論者なのでとにかくきっちりと教え込むというようなことは嫌いだし、間違っていると思う、という発言を私がしたことから始まる.三宅君は教え込むということが本当に意味がないことなのかをかなりいい感じで聞いてきてくれた.

まずここで考えなければならないのは、学習がどの段階の話をやっているかということだ.本当の初期、あるいは初心者レベルの話であるのならば、ある程度の教え込みというのも効果があるのかもしれない.しかし、学習が進んだ段階で獲得すべき知識は、教えるべき先生もよくわからない、あるいはうまく表現できない、仮にしても有効ではない可能性が高いのではないだろうか.
こういう思いを強く持っていた私が言ったことは、
ある程度まで学習が進んだレベルでは、

状況(の変化)に対する敏感性、
そこからの調整
に関するスキルではないか、というものであった。つまり言葉で伝えられるようなレベル、ルール化して伝達可能な知識というのはおよそ初期レベルの話であり、そこからは外界の絶えざる変化、身体がもたらす絶えざる擾乱、こうしたものをうまく検知し、そこからの調整のための能力ではないかということだ.同じ場面は二度と現れない。いつでも少しずつ異なる.環境自体もそうだし、我々自身も絶えず進歩なり、劣化なりしているわけだ.こうした状況下で安定したパフォーマンスを残すために必要なことをルール化することはできないのではないか.事前にすべての状況を予測できないということもあるだろうし、身体に関わることは極めて個別性が高く、万人(とまではいかなくても多くの人)に共通する事柄などはほとんどないからというのがその理由だ.
こうしたことを持ち出すのは、自分が最近大西君、竹葉さんとやった研究がベースになっている.この研究では単純作業を2000回以上もやらせたときのパフォーマンスの向上、スランプの脱出などがテーマになっている.詳しいことはこの論文を読んでもらうしかないのだが、長く美しい指を持つこの被験者のスランプの原因はまさにその指にあったし、そこからの脱出はその長く美しい指に対する処置であったからだ.これはなかなか一般化できないスランプ克服法だ.加えて、長い指ならば必ず彼女が陥ったタイプのスランプに遭遇するかと言えばそうとも言えない.それは彼女なりの作業方法の中でのみ生じる問題であり、他の作業方法の中では生じない可能性が高いからだ.

さて、状況に対する敏感性、および調整というのは、聞く人が聞けば、そんなのGibson、佐々木正人らの生態心理学者がずっと言い続けてきたことだ、という反応がくると思う.その通りだ.本人もゼミの場でそれを言いながら、まさにオレはGibsonianだ、と感じた.また学習のレベルとそこでの獲得すべき知識に関して、すなわち初心者レベルはルールでもOKだけど、その先の知識は全くルール化できないというのは、認知科学批判で有名なヒューバート・ドレイファスがチェスを題材して30年ほど前に語ったことと同じである.個人的な話で言えば、こういうことがすらすら出てくるようになった自分がうれしい.以前に読んだこと、そしてそのときにはまともに頭に入らずに、どちらかと言えば反感を持っていたことに対して、今は自らの研究を通して深いレベルで理解できるようになったというのがうれしいというわけだ.

さてゼミでの三宅君はさらに、状況敏感性や調整能力自体を教えることはできないのか、またメタ化、抽象化することにより、それら熟達者の知恵を伝えることはできないのか、と突っ込んできた.すばらしい突っ込みだと思う.

さてこれに関するオレの答えは、「わからない」だ。そういう可能性がゼロなのか、多少はあるのか、今の技術ではだめなのか、ここらへんは実証的な問題になると思う.ただ簡単でないのだけは確かだ.このやり取りの中で思い出したのは、佐伯胖先生と坂元昴先生が大昔に行った対談だ.そこでは教育工学者の坂元先生がとにかく教える方法というのを考えだしたい、教えることができないなどという消極的な態度ではまずいということを主張し、もし認知研究により認知、学習のプロセスが詳細なレベルでわかるのならば、それを教えることは可能ではないかという問いを佐伯先生に投げかけた.佐伯先生の答えはこれまた面白くて、「誰かを風邪にさせようとして、熱を出す薬を飲ませ、咳が出る薬ものませ、くしゃみや鼻水を誘発する薬を飲ませたとする.そして事実そのようになったとする.しかしそれは風邪をひくということとは異なるはずだ」というものだった。つまり外見的な、行動レベルの事柄でどれほどそれらしく振る舞わせたとしても、人間の知識というのは理解や納得、その人なりの必然性というものから生み出されるものなのだということ.この議論は実はサールの中国語の部屋の論文よりも前に行われているはずだが、まさにサールが主張したかったポイントが教育と学習という文脈でなされているところが面白い.ゼミの中ではこんな話をしながら楽しく議論が進んだ.

これとうっすらと関連するのが、最近朝日新聞のBeに載った福島大学陸上部の監督の話だ.この大学はオリンピック候補が何人も出る、陸上のCOEみたいなところだ.で、この監督もはじめは根性、気合いだけでやっていたらしいが、アメリカでカール・ルイスのコーチをしていた人に師事し、何をすべきかを学んだらしい.しかしながらこれを部員たちになかなか伝えることができないまま何年も何年も苦労していたとか.ところがある年にすばらしい選手に出会い、彼女とのやり取りの中で、ついに伝えたいことを伝えられるようになったという話だ.これは野中郁次郎のSECIモデルのようにも思える.暗黙知としてこの監督が持っていた知識が優秀な選手との出会いにより共同化され、それがきっかけとなって一般化された表出が起きている.ちなみに「ポン、ピュン、ラン」という言葉(オノマトペ)に集約されるのだそうだ(このオノマトペを形式化と呼ぶのはかなり抵抗があるので、一般化された表出としておいた)。ただここでも大事なのは「ポン、ピュン、ラン」というのは、素人や初心者にはやはりうまく通じないのではないかということだ.


動物と人間の合理性,非合理性のシンポat 慶応

2008/2/13

“Rational animal, Irrational human”というタイトルでシンポジウムが開かれた。慶應大学のGCOE(グローバル・センター・オブ・エクセレンス)という、渡辺茂先生がヘッドを務める組織の主催だ。講演者の一人として呼ばれたので出かけてきました。初日は出られなくて、2日目の午後自分の講演から3日目のほぼ最後まで出席した。初日は渡辺先生と特に関連の深い動物関係の話が多かったようだ。

自分の発表はいつもこの頃やっている創発認知の話の中の、生成性と冗長性の話の前に、人間のirrationalityについての知見(演繹、類推、転移、洞察)の話を付け加えて、そこからコンピュータメタファーの問題につなげた。正直かなり苦しんだ。スライドは、数年前の国際ファジイ学会の時のものと、入来さんのシンポジウムの講演者として話した神経科学会のものを組み合わせたのだが、なかなかすっきりと行かず、いろいろな調整を行い、英文の原稿も含めて約10日ほど費やしたと思う。未だに英語というとかなり苦労する。特に今回は1時間という、やったことのない長さだったので、かなり神経を使った。しかしまあ終わってみれば良いしかし苦い経験ということになる。良薬は口に苦し。

自分の後は、若手の女性の発表が3件あった。東大の旦さんのは開さんとの協同でメディアの理解というか、realityの理解というか、これに関しての大変に興味深い発表が行われた。どうもテレビなどの画面に映し出されるものと現実の理解との間の関係に付け方に6ヶ月から10ヶ月の間に大きな変化があるようだ。後の2件はともにstimulus equivalenceについてのもので、一件は慶應の人、もう一件は理研の山崎さんが小川さん、入来さんと一緒にやったものの発表だった。なかなかおもしろかったのだが、ちょっと眠ってしまったのもあるのと、そもそもあまり詳しくないのとで解説はやめておく。ただStimulus equivalenceというのはなかなかおもしろいもので特に対称性(A->Bを学習すると、B->Aの結合もすぐにできる)は論理的ではないが、どうも人間に固有な現象のようで興味をひく。そうだ、今度CATKATに来てもらって日本語でゆっくり話を聞こう。

最終日は午前中が長谷川真理子先生の嬰児殺人についての話から始まった。嬰児を殺すのは同部では稀で、ボスが交代したときなどに起こることがある(インドの何とかというサルとか、ライオン)がかなり珍しい。しかし人間ではよく起こる。やるのはたいがい女性で、若くて、よく考えた上でやるらしい。また日本は特にそれが多いとのこと。日本で多い理由は文化的、制度的要因が大きいようだ。他には昭和大学の寺沢先生、慶應の女性の発表があった。

最後の論理のセッションは正直つらかった。別に変なことを言っているわけではないのだが、やはりいろいろな意味でつらい。

そこでおもしろい話があった。そもそも論理学は知性のmechanizationを行い、その結果としてコンピュータが生まれた。そこではいろいろな発展もあったが、創造性については全然だめだったということが論理学者の側からなされた。これに対して、コンピュータも適切なプログラムさえあれば創造的になれるとか、人間の脳だってそもそもmechanicalなんだけど創造性を持つことができるとか、いろいろおもしろい議論がなされた。

・・・Illustratorできれいな画像が作れるのは?
・・・写真がエロティックなのはカメラがエロティックだから?
素材、道具とそのプロダクトを混同していると思う。


ICPA予行シンポジウム

2006/12/7

しばらく前の話(11/30)なんだけど、ICPA(International Conference of Perception and Action)という学会が来年横浜で開かれるとかで、その予行(?)シンポジウムというのが、横浜赤レンガ倉庫というところで行われた。ということで行ってきた。

発表者は、
三嶋さん:自動車運転時の光学的情報
工藤さん:ドラムの初心者-熟達者のDSA的比較
染谷さん:生態学的アプローチについての哲学からの疑問(への回答)
鈴木さん:マイクロスリップ
廣瀬さん:マイクロスリップ
の方々で、生態心理学関係の方たちが主だった。

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心理学会06参加

2006/11/7

日本心理学会に参加してきた。朝晩とかなり動き回っていたので、とても記事を書く気力が湧かなかった。昨年と比べて自分の関心が広がったせいなのか、たまたまなのか、分からないが、いろいろと勉強になった。いちおう、日記風にまとめる。

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天野清先生について

2006/10/31

学部時代大変にお世話になった天野清先生が今年の初めに中央大学で最終講義を行ったということが(今頃になって?)分かった。最終講義の内容が分かる中央大学の心理学科のニュースが届いたのでちょっと書いておきたい。

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結果とその解釈、誤解釈

2006/10/7

10月3日の朝日新聞の「政態拝見」という政治関連の記事において、北大の山岸先生夫を中心としたCOEの研究の成果(の一部)が大きく取り上げられていた。以前のエントリーで私が書いたのと同じように、このCOEが本当にうまく運営され、すばらしい成果を上げているということも書かれているのだが、ポイントは最近の教育行政における右傾化との関連である。

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味のある研究

2006/7/3

先日いただいた中京大学の人工知能高等研究所ニュースに木村泉先生がエッセーを書いていた.木村先生は,1つの形の折り紙(みそさざい)を15万回以上折り続けて,その間の自らの熟達の過程を研究されている方だ.我が研究室で行なっているブロック作成における熟達研究は,木村先生が何年か前の認知科学会で発表されたこの研究に触発されて行なっている.

エッセーはそのことについてではなく,『味のある研究』をどうするかという話だった.

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人工知能学会の変化

2006/6/8

人工知能学会に出席して,発表される研究の方法がずいぶんと変わってきたことに驚いている.以前は,何か作りました,証明しました,そういうものがないととても人工知能学会で発表するというわけにはいかなかったような気がする.確かに,何も作らないでアイディアのみという発表もあるにはあったが,そういう人たちは別のところでちゃんとしたものを作っていて,その上でアイディアのみを述べるという感じだったと思う.

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not scientians but scientists

2006/6/7

きょうから3日間人工知能学会の全国大会が船堀というところで行われる。初日から参加してみた。おもしろかったのは村上陽一郎さんの招待講演かな。昔はファンだったので、いくつも読んだ経験がある。最近は読んでいなかったのだが、平均して年に1回は本(単著)を執筆されているようだ。もう70歳くらいなのだが、全く衰えていないと言うことなのだろう。

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歴史を作る人

2006/3/31

青学のe-learning人材育成研究センターが開催したオープンフォーラムに参加した。そこで佐伯先生の講演「eラーニングと学びの変革」というのを聞いた。うーーん、参りました、というしかないですね。

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心理学会を終えて、

2005/9/12

いくつか気になったことがあったので、メモしておく。

1.虚偽記憶
潜在的連想と顕在的連想(処理?)によって、虚偽記憶が構成されている。ただ俺の好きなLoftusなんかの研究で見られた現象と、どの部分で関連しているのか、ここらへんが考えていくべきネタだと思った。

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図書館と民主主義

2005/9/6

以前お世話になっていた名誉教授の先生と本当に久しぶりにゆっくり話すことが出来た。この先生は図書館情報学が専門で、国内外で非常に活躍されていた女性です。

で、話を聞きながら感動したのは、図書館(建物だけではなく、そういうシステム)が政治や、体制というものとと深く関わりを持つことを強く意識し、その上で図書館を民主主義を実現する(つまり封建主義、国家主義などを排するために)礎として捉え、それを促進するように努力するという、先生の強い意志だ。

図書館について、こういう発想を持ったことがなかったので、強い刺激を受けた。


確率的発想法

2005/8/10

阿部さんのページに確率的発想法という本がとても優れた本であるという紹介がだいぶ前にあったので読んでみた。

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私的研究心得

2005/3/4

トラックバック元の記事に触発された。もう全然読むことはないけど、以前は科学哲学、科学史の本はけっこう好きでよく読んでいた記憶がある。おれが研究をやろうと思ったのは、そもそもマルクス主義、というか唯物弁証法に感動したことから始まるのだから、これは当然とも言える。

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論文の書き方

2005/2/28

情報系の先生らしいが、論文の書き方についてかなり長いのを書いているようだ。ここにメモしておく。

これです

大事なことも書いているけど、かなりテクニカルなことが多いね。逆に言えば、そういう部分を間違う学生が多いと言うことだろうか。


理論による説明

2005/2/16

長田さんが、「XX理論で説明できる」というエントリーで、「XXX理論で説明できる」とはいかなることを意味するかを、否定的ニュアンスで書いている。確かにその通りで、だれかが「この現象はルーマンといった通りだ」といっても、そんなこと言われたって、「だから何?」という感じですよね。

じゃあ、既存の理論との関連づけは何も意味ないのだろうか。

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査読

2005/2/14

わたしの知り合いの人が査読でひどく待たされて、憤慨しているようだ。自分もいろんな雑誌の査読をやったことがあるし、されたこともあるし、編集委員もやったことあるので、驚くような思いをしたことが多々ある。

  • 音信不通となる査読者
  • 原稿を紛失する査読者
  • すべて不採録とする査読者
  • 読まない査読者
  • 投稿者をバカ呼ばわりする査読者

などいろいろいる。ただしばらく前に聞いてびっくりしたのは、なんと投稿者の一人(第5か6著者)が自分が共著者ということを知らずに査読したという話だ。回す方も回す方だけど、査読する方もする方。


素人発想、玄人実行

2005/1/11

長田さんが大前さんの本を紹介しているのを見て、思い出した本を1つ。それは
金出武雄「素人のように考え、玄人として実行する」(PHP)
という本。金出さんはコンピュータビジョンの国際的な権威で、現在CMUの教授をしている人です。研究者向けの本だが、禿同の連発です。目次の一部だけでも、

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