意識はない,という考え方

2019/9/22

前野は受動脳仮説というとても挑戦的な仮説を提案している(おそらく彼自身は仮説とは考えていないが).意識というものは我々の日常的な活動に全く関与しない.環境からの多種多様な情報を処理するのに長けた、多くの小人たちが脳の中に存在し、それらがそれぞれの思いの下で勝手に行動する.日常生活はそれで終わりである.しかし何らかの理由で進化した意識システムがこの小人たちの活動の結果を知るところとなる.そこで意識システムは小人たちにご苦労さんというかというとそうではなく、なんと恩知らずなことに自分が小人たちを動かしてやったという作話を行う.だいたいこれが前野の語る受動脳仮説というものだ.

どうしてこんな作話が可能になるのだろうか.これを考えるときに参考になるのはダニエル・ウェグナーの『見かけの因果』という大変に魅力的なアイディアである.我々人間は様々な出来事の間に原因と結果という役割を与えてながら世界を理解している.急に部屋が明るくなったとしたら(結果)、誰かが電気をつけた(原因)のだろうと思う.さんまが焼けるにおいがした(結果)ならば,誰かが近くでサンマを焼いている(原因)のだろうと思う.

原因となる事象と結果となる事象の間には特定の関係が必要になると考えられている.まず原因は結果よりも先に起こっていなければならないというものである.さんまのにおいがしたことが原因で誰かがサンマを焼くなどということはない.後に起こったことが先に起こったことを引き起こすということは論理的に有り得ない.もう一つは意味的関連性である.結果となる事象の前にはさまざまな事象が起きている.しかしそれらの大半は原因とはなり得ない.部屋が明るくなる前には、自分は食事をしたかもしれないし、外で犬が鳴いたかもしれないし、昨晩は妻の誕生日だったかもしれない.しかしこれらはいずれも原因とはなり得ない.食事や犬の鳴き声や妻の誕生日は部屋が明るくなることとは意味的に無関係だからである.

この意味的関連性については,ガルシアとケリングの行ったとてもおもしろい実験がある.この実験ではネズミにちょっとかわいそうなことを行う.檻に閉じ込められたネズミがそこに置いてある水を飲むと,そのネズミに大量の放射線を照射する.これをされると人間同様ネズミは吐き気を覚えることになる.吐き気はもちろん嫌なことなので、ネズミは水を飲まないようになる.これは当然のことである.さてこの実験で水を飲んだ罰として与えられた放射線を電気ショックに変えたらどうなるだろうか.むろん電気ショックも楽しいはずはないので、水を飲まなくなるように思える.しかしこうした条件ではネズミはいつまでも水を飲み続けるという(そして電気ショックを与えられ続ける).

さてネズミはなぜ電気ショックのときには水を飲むことをやめないのだろうか.ネズミの気持ちを代弁すれば、『そんなこと有り得ない』からである.水を飲んで電気的なショックを感じるなんて有り得ない、つまりこの2つの出来事の間に意味的な関連性が見つけられないのである.人間だってそうだろう.何かを口にして気持ちが悪くなれば食べたものが原因だとわかる.しかし電気的な痺れを感じたら,その原因が水にあるとは思えないだろう.

少し寄り道が長くなったが、因果関係には原因の時間的な先行性と原因と結果の間の意味的関連性が必要ということが理解できるだろう.ということで意識の作話に戻ろう.ウェグナーによれば,すべての人間の行為は無意識的なプロセスの産物である.ところが人間はこの無意識的プロセスが進行している中でなぜか『意図』というものを発生させてしまう.そして面白いことにその意図は実際に行為が開始される前に発生するようである(リベットの実験を思い出してほしい).さてそうすると、行為という結果を観察すると、その直前に意図が発生していることに気づくことになる.この意図は行為の直前に生じており、かつ行為そのものと意味的に関連しているので(だって,その行為をやろうという内容を含んでいるのだから)、人間の因果原則に照らして原因となる資格を有していることになる.そうしたことで意図が行為の原因だという錯覚が生まれるのである.

コーヒーカップに手を伸ばすという行為を取り上げて具体的に考えてみる.ふつうは自分が手を伸ばそうと思った,つまり手を伸ばそうと意図したので手が伸びたと考えるはずである.しかしウェグナーによれば,そうではないことになる.コーヒーカップに手を伸ばすことは意図とは無関係に完全に無意識的に実行される.しかし手を伸ばす直前に,おそらく0.2秒前に,この無意識的プロセスは『手を伸ばそう』という意図を発生させる.なぜ手を伸ばしたか、その原因を考える際に,本当の原因である無意識的プロセスは無意識的であるが故に原因の候補とはなり得ない.その結果、原因の候補として唯一残るのは,『手を伸ばそう』という意図だけになる.よって『手を伸ばそうと思ったので手を伸ばした』という見かけの因果関係,つまり作話が成立することになる.

興味深い例から,同様のことを主張しているのがスーザン・ブラックモアである.この例とは次のようなものだ.冷蔵庫を知らない人がいたとしよう.この人は冷蔵庫のドアを開けて中にいろいろなものが入っていることを知ると同時に、冷蔵庫中にはライトがありそれが中を照らしていることも知る.何度開けてみても、ライトはついている.こうしたことから冷蔵庫のライトがいつでもオンになっているという結論を出せるだろうか.

意識状態にあるだろうかと自分に問いかける.するともちろんそうしたことを意識できるので『私は意識状態にある』と答える.何度繰り返してもそうである.こうしたことから、私たちは自分にいつでも意識があると考えてしまう.しかしそうした問いかけを行わないときにはどうなのだろうか.意識はあるのだろうか.冷蔵庫のドアが閉まっているときにはライトがオフになっているように、私たちが意識的な問いかけを発しないときには意識はオフになっているのかもしれない.

コーヒーカップをつかむ話も微視的に考えれば,意識や意図なんか全然関係していない部分がたくさんある.腕を伸ばそう,適当な位置で止めよう,手を開こう・閉じよう,指に力を入れようなど,たくさんの微視的な行為がここには含まれているが,そういうことを意識することはほとんどない.だから身体は意識とは無関係に勝手に動いているのだ.

彼女はこうしたアナロジーから,私たちの通常の活動の中には意識もクオリアも主観的経験も存在しておらず、我々の生活する環境に高度に適応した脳が意識の働きの助けを借りずに,つまり自律的に反応し、体が動いているだけなのだという.そして意識は錯覚に過ぎないと主張する.どんな錯覚かと言えば、我々は経験を意識化し、意思の力によって行為を行うという錯覚である.


おめでとうとごめんなさい

2014/1/3

おめでとう:
まず明けましておめでとうございます.本年もどうぞよろしく.昨年から私が所属することを誇りに思う日本認知科学会の会長という重責を担うことになりました.大変でしょうが頑張ってくださいとよくいわれますが,実は大変ではありません.理由は2つあります.1つは会議のメンバーたちが私と同じ思い(認知科学会に対するとてもポジティブな思い入れ)を抱いていること,そして建設的であること,論理的、合理的に思考が出来ること,ということです.ですので妙な気遣いなく,真剣勝負で議論できます.これは楽しいです.いろいろな会議に出ていますけどこういう条件を満たす会議はこれまで1つも経験したことがありません.もう1つは事務局長の清河さんがいろいろと私が気づかないレベルのことまで考えて動かしてくれているためです.おんぶにだっこにならないように私もいろいろと気を使うようにしていますが,なかなかすべてというわけにはいきません.でもそうした部分は信頼できる清河さんがやってくれるので,相当に助かっています.という次第ですので,もう1年ですが楽しませていただきます.

本年は学会が名古屋大学で,斉藤洋典委員長,三輪和久運営委員長,川合伸幸プログラム委員長を中心として開かれます.久しぶりの名古屋の学会です.また植田一博さん,今井むつみさんを中心として学会としての新しい出版の企画が動き始める予定です(「認知科学の探究」以来10年度だと思います).さらに岡田浩之さん,小野哲雄さんを中心にして学会のホームページもリニューアルされる予定です.お楽しみに.

ごめんなさい:
このBlogはあまり更新もしておらず,管理もしていません.一応昨年の後半、おそらく11月にはspamコメントを全部削除したのですが,今見たら2500件を超えるコメントがありました.もしかしたら私の書いたものに真面目なコメントくださった方もいるかもしれませんが,チェックの限界を超えているのですべて削除しました.本当にすみません.匿名をよいことにメールを送るスキルだけがあるクズ野郎,クズ女郎どもによって,このコミュニティや私が大事にしてきた機能がなくなることが残念ですが、これまでの投稿をTB,コメントが出来ないものに変えていきます.


おもしろい研究をする

2013/9/24

9月は忙しかった.さて認知科学会で「30年後の認知科学を考える」というようなワークショップがあり,話題提供をした.その時に提出したものをここに載せます.これはfacebook上で公開されていて,発達心理学者の無藤隆さんからはおもしろいと言われ,哲学者の土屋俊さんからはつまらないと言われています.

自分で書いている時には佐伯さんの「タテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸」で書かれていないことを書けたのではとも思ったけど,結局ナナメ糸、ヨコ糸について別の言い方をしただけのような気もしてきた.

30年後もおもしろい研究を続けるために

認知科学の重要な問題の多くは認識論哲学から生じている.これらの問題について,人類史上に残る最高の知性を持った人間が議論を重ねてきた.しかしながら,何かが解決され尽くし,もう答えが確定したという問題は(多くは?)ない(ちなみに確定することはないことが確定したことは若干ある).

このような歴史上の経緯から推測するに,30年後に視覚,注意,記憶,推論,言語,学習などの知性の根幹に関わる問題が解決されている可能性はほぼ0だろう.そういう意味において認知科学が現在扱っているテーマは,その洗練の度合い,証拠の量,問題の形式,参照すべき範囲は変わるにしても,30年後にも存在していることはほぼ確実と言える.そういう意味で30年後はどうなっているということについて,扱う問題から見る限り心配はない.

おもしろい研究を続ける

我が師の佐伯胖は認知科学の厳密な定義をすることを拒絶し,「おもしろいものはすべて認知科学」というめちゃくちゃな定義(?)を提出した(出所不明).私はこうした姿勢が日本の認知科学を支える大事な柱の一つになっていると信じているし,これが続く限りは認知科学は時代をリードする学問であり続けると思う.

おもしろい研究とは何だろうか.人間の認知に関わることは,何でもおもしろいと思えばおもしろい.解けない問題が解けること,こともが言葉を話し出すこと,何かを思い出したり思い出せなかったりすること,数え上げればきりがない.

それで自分でおもしろがって研究を続けていけばいいかと言えばそうではないだろう.というのは,上記のいずれもおもしろくない当たり前だ,という見方も存在するからである.解けない問題が解けたのは解き方を思い出したから,こどもが言葉を話し出すのはそういう風に設計されているから,想起の可否は努力によるなど,なんともつまらない答えもたくさん用意されているからである.つまり主観的なおもしろさはおもしろさを保証しない.

佐伯はそこで有名なタテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸を持ち出す.つまりその分野の知見を押さえ,時代精神に合致し,対立する相手との対話精神が,研究のおもしろさを構成するという.私はこの説に反対する気は毛頭ないが,別の観点を導入して,おもしろい研究の具体像を描いてみたい.

私はおもしろさには

  • 何らかの参照系が存在すること,
  • その参照系から見ると説明が出来ないこと,

が必要ではないかと思う.ここで参照系とは一般常識であってもよいし,過去の知見でもよいし,何らかの理論でもよい.

たとえば Magical Number 7±2 はなぜ注目を集めたのだろうか.このおもしろさの背後には当時注目を集めていた情報理論,情報量の考え方がある.もしこれがなければ,この研究は大事かもしれないけど,単にいろいろ調べてご苦労
様という研究にとどまっていたのではないだろうか.語意の獲得に関して制約を持ち込んだMarkmanの研究も,その背後にQuineの提出した問題がなければ本当のおもしろさは生じない.協力などの利他行動はそれ自体でもおもしろいが,
それは進化を参照枠とすることでさらにおもしろくなる.

つまりプロとして研究を進めるためには,何らかの参照枠を熟知することが必要になる.そしてその参照枠からある種のパラドックスを生み出すことが,おもしろい研究につながる.

開放系であり続けるための異分野間対話

真にイノベーティブな研究を行うには,他者が参照してこなかった枠を見つけ出すことが必要になるだろう.これによって今までさしておもしろくないとされてきた研究もおもしろい研究に変貌する可能性もある.

ではどうやってそれを見つけるのだろうか.これには異分野間対話が欠かせないと断言したい.そもそも認知科学は学際科学であり,哲学,心理学,人工知能,言語学など多様な分野の研究者が作り上げてきたものである.これらの学問の持つ参照枠は半ば古典となっている.また近年はこれらの古典的な参照枠を乗り越え,認知科学は新たな対話の相手を見いだし,その参照枠を内部化させてきた.たとえば,脳の可塑性,学習能力についての知見を提供する認知神経科学,身体,環境というパートナーの性質及びそれとの相互作用のあり方についての知見を提供する生態心理学,相互作用による知性の創発についての知見を提供する談話研究,エスノグラフィー,生体,環境の相互作用を時間軸の中で統合する力学系,ある認知能力が存在するための条件を明らかにする進化アプローチ,これらとの対話を通して認知科学は不断の展開を遂げてきたと言えるだろう。

今後どのようなパートナー見つけるか,どんな参照枠を持ち込むかは重要な問題であるが,これは各研究者が見つけるべきことだろう.個人的には,考古学,人類史,農業経済学,地理学などは興味深い.

蛇足かもしれないが最後に1つ付け加えたいことがある.それは異分野対話だけで終わってはならないということである.これを認知科学のこれまでの知見と組み合わせ,内部化し,境界を作り出すことが重要である.これを怠れば認知
科学は単なる拡散の道を進むだけになる.内部化し,境界を作り出すことで新たな他者(異分野)が形成され,それによってまた新しい異分野対話,参照枠が生み出される.学会はこのサイクルがうまく回ることに目を配ることが重要な責務となる


Representationは表現か,表象か

2012/9/7

認知科学会のサマースクールに参加した.これは日本の認知科学のパイオニアの一人で,慶應の塾長を経て,現在学術振興会の理事長を務めている安西祐一郎先生の発案で,認知科学会の主催で昨年から行われてきている.基本は,若手の研究者とほどほど年をとった研究者の対話から,認知科学の源流と最先端の成果を結びつけ,今後の認知科学の活性化を図る目的で行われている.昨年は安西先生が3日間,連続で講義するという信じられないプログラムで、もちろん参加した.得ることはたくさんあり、このBlogでも報告しようと思ったが整理しきれず、下書きとして眠っている.

さて初日の安西先生のレクチャーはやはりそうとう刺激的だった.いろいろと得るものがあるのだが,representationの捉え方について,きわめてすっきりしたのでここに報告したい.

representationというのは表象と訳すのがふつうだと思うのだが,認知科学では『表現』と訳すことも多い.工学系の人は表現という言葉を多用し,認知や心理の人は表象という言葉を多用する.たとえば,コンピュータ上で知識を何らかの形で表す場合には『表現』が用いられ,『表象』という言葉は使われないわけではないがあまり用いられない.

なんとなくこの語感はわかっているつもりだったのだが,この根源がMarrの著作に由来する思想と関連づいていることが,安西先生のレクチャーの中でわかった.Marrによれば,representationとは情報(そのタイプ)とその組み合わせの仕方を明示するformal systemということになる.そしてこれを用いて表現された具体的なものはdescriptionと呼ばれる.つまりMarrによれば,表現形式,表現のための型とルールがrepresentationということである.Marrの考え方は,形式論理における理論とモデルとおそらく同じだと思う.世界を記述するための理論とそれによって記述されたモデルということである.

このように考えると,日本語での『表現』というのはMarr的な意味でのrepresentationであり,『表象』というのはdescriptionということになる.たとえばスキーマ表現とか、脳内表現とか,分散表現とか,representationがそういう使われ方をする場合には表現のための系を指す.一方,表象という場合には特定の表現の下で記述されたもの(すなわちdescription)を指すということになる.

工学者がなぜ表現という言葉を多用し,心理学者が表象という言葉を多用するのはこうした事情によるということになる.工学者はさまざまな事物をコンピュータの中で記述するためのシステムに力点があり,心理学者はそうして記述されたもの自体に関心があるということなのだ.

こういう観点から見ると,representationという単一の単語に,我々が異なる訳語を当てることがとても妥当であることがわかってくる.


わざ言語を読みながら(3)

2012/7/7

さて本日のゼミはなかなか衝撃的だった.

今日はゼミ生の須藤君が、「わざ言語」の本の中での、わざ、技能、技術などの用語が未定義で用いられることに業を煮やし(?)、ライルの原本(邦訳)にあたって検討してきた.ライルはまずintellectとintelligenceの区別を明確にする.そして主知主義者たちは、intellectの探求のみを行ってきたことを徹底的に批判する.こういうとintellectはknowing thatで、intelligenceはknowing howのことだということになる.ここらへんはある意味で常識化していることだと思う.ちなみにintellectは知性、intelligenceは理知と訳されているが、別の語感があるように思うので、ここでは原語をそのまま使うことにする.

驚きはそこでライルが挙げる例である.行為の中で誤りを見つけ、それを修正したり、反復試行の中でそれを改良し、教訓を得ることがintelligenceである、というのもかなり驚きなのだが、自ら真理を見いだす能力を、さらに真理を見いだした後にそれを組織的に利用する能力、という例もある.思慮深さとか、鋭敏さとか、そういういわゆる身体領域とは別の事柄の中にもintelligenceすなわちknowing howが存在するというのである.そしてこうしたknowing howそれ自体には真理かどうかという判定基準は使えないと述べる.

つまりknowing howに確かに身体知は含まれるかもしれないが、身体知や自動化された行為だからといってknowing howというわけではないし、knowing howは身体知や自動化された行為を指しているというわけでもないということだ.またこれは佐伯先生が以前からいっていたことであるが、knowing howと手続き的知識、knowing thatと宣言的知識という対応も全くの的外れということになる.手続き的に書き下した手順のようなものは、無論knowing howではない.

つまり何か生み出されたもの=intellect、生み出す原動力、プロセス=intelligenceということなのだ.

こうしたことから考えると、(これはさらに驚きだったのだが)以前に書いた記事で熟達は状況を感じ取る力とそこから調整する力と書いたが、ライルの定義はまさにそれそのものではないのだろうか.

きちんと読まずに人の言ったことの上に乗って議論することの怖さを強く感じた次第だ.なお以上述べてきたことは,私の憶測をたぶんに含んでおり,Ryleや須藤くんの意見とは異なっているかもしれないことをお断りしておく.


洞察ワークショップ

2009/8/31

日本心理学会で阿部慶賀さんが洞察に関するワークショップを開き,そのスピーカの1人として参加した.

東京電気大の寺井さんは仮説空間,データ空間という理論的なバックグラウンドから洞察を検討した.言語報告をさせるといわゆる「はまった」状態から突発的に「ひらめく」状態への変化が見られる.しかし詳細な眼球運動の分析を行うと,この飛躍のはるかに前から,人間は洞察をする方向へとシフトしていることが分かるというもの.だいぶ前に聞いた研究なのだが,やはりその意義は大きい.

中部大学の清河さんは共同で洞察課題を行わせたときの結果を発表した.共同というよりは人のものを見ることがどんな意義があるのかを検討した研究だ.二人で20秒ずつ交替でパズルを解く.この際,一切のインタラクションは禁止されている.このような条件で行うと,1人でやったときよりも成績がよくなるという.さらにおもしろいのは,20秒でいったん中止して,人のを見るかわりに自分のやったことを見るという条件は,1人でやったときよりもさらに悪くなるということだ.メタ認知を導入して説明をしようとしていた.この研究も結構前のものだけど,やはりおもしろい.人の失敗が成功を生みだすのだろうか,それとも人の(部分的な)成功が成功を導くのだろうか.いろいろと研究課題がわき出てくる.

青山学院大学の阿部さんは,社会的交渉における裏切り者検知という進化的に作り出されたバイアスが,ある種の洞察問題解決を阻害するという話をした.扱った問題は次のようなものだ(細部は違う).

太郎,次郎,三郎は土産物屋で1万円ずつ出し合って,3万円の品物を購入した.このお金を受け取った店員が店主にこのお金を渡しに行くと,5000円まけてあげなさいといった.この時店員はこの5000円の中から2000円をねこばばして,3000円を三人に返した.三人はこれを1000円ずつに分けて受け取った.さて,三人の出したお金は9000円×3で27000円,猫ばばした店員の2000円と会わせると29000円にしかならない.1000円はどこに行ったのでしょうか.

というものだ.この問題はかなり難しくて,自発的に解ける人はそれほど多くはない.阿部さんはこの原因が猫ばばという裏切り者がいるため,そこに執着してしまうことと考えた.そこで猫ばばではないような問題にこの話を変えたところ,成績がかなり向上したという.進化と洞察を結びつけようということらしい.

私は,洞察の突発性,驚きは,失敗からの潜在学習の成果を,それを意識が後から観察することに拠るものだ,という発表を行った.潜在学習や意識のコントロールを離れた認知は数多く存在する(偶発学習,潜在記憶,潜在学習などなど).だとすれば思考だけは潜在とは無縁だと考えるのはおかしい.実際,洞察が意識的なコントロールとは相性が悪いという報告は数多くある.ということで,潜在成分を含めたモデルを提案し,これを実証するために行ったサブリミナル刺激を用いた実験を報告した.これも古い.

コメンテータの三輪さん(名古屋大)はご自身の最新のデータも呈示しながらだったが,時間切れできちんと聞けなかった.こんどしっかり聞くことにしよう.

初日に午前中のワークショップと言うことで,開始15分前に行ったら,発表者以外の人は一人だけという状況で,これはどうなるんだろうと思ったが,最終的には20人くらいの方が聞きに来てくれた.このコミュニティが広がることを祈りたい.また阿部さんの努力に感謝したい.

その後,推論のシンポジウムのディスカッサントとして午後のセッションに出る.ここでは理研の入来さんや,霊長研の友永さんなど,本当にお久しぶりという方たちと合い,生産的なディスカッションをすることができた.もう1人のディスカッサントのSteven Slomanさんとも10年ぶりくらいでお会いした.ただこれらはほとんどシンポジウム前の話.シンポジウム自体は,企画者の坂本さんが「何でも推論なんだ」ということでいろんな推論を集めたとかいう程度なので,全体としてはあまり意味のないものであったと思う.


精神分析を見直す

2008/5/3

精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.

確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。

こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.

その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.

もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.

よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.

ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.


動物と人間の合理性,非合理性のシンポat 慶応

2008/2/13

“Rational animal, Irrational human”というタイトルでシンポジウムが開かれた。慶應大学のGCOE(グローバル・センター・オブ・エクセレンス)という、渡辺茂先生がヘッドを務める組織の主催だ。講演者の一人として呼ばれたので出かけてきました。初日は出られなくて、2日目の午後自分の講演から3日目のほぼ最後まで出席した。初日は渡辺先生と特に関連の深い動物関係の話が多かったようだ。

自分の発表はいつもこの頃やっている創発認知の話の中の、生成性と冗長性の話の前に、人間のirrationalityについての知見(演繹、類推、転移、洞察)の話を付け加えて、そこからコンピュータメタファーの問題につなげた。正直かなり苦しんだ。スライドは、数年前の国際ファジイ学会の時のものと、入来さんのシンポジウムの講演者として話した神経科学会のものを組み合わせたのだが、なかなかすっきりと行かず、いろいろな調整を行い、英文の原稿も含めて約10日ほど費やしたと思う。未だに英語というとかなり苦労する。特に今回は1時間という、やったことのない長さだったので、かなり神経を使った。しかしまあ終わってみれば良いしかし苦い経験ということになる。良薬は口に苦し。

自分の後は、若手の女性の発表が3件あった。東大の旦さんのは開さんとの協同でメディアの理解というか、realityの理解というか、これに関しての大変に興味深い発表が行われた。どうもテレビなどの画面に映し出されるものと現実の理解との間の関係に付け方に6ヶ月から10ヶ月の間に大きな変化があるようだ。後の2件はともにstimulus equivalenceについてのもので、一件は慶應の人、もう一件は理研の山崎さんが小川さん、入来さんと一緒にやったものの発表だった。なかなかおもしろかったのだが、ちょっと眠ってしまったのもあるのと、そもそもあまり詳しくないのとで解説はやめておく。ただStimulus equivalenceというのはなかなかおもしろいもので特に対称性(A->Bを学習すると、B->Aの結合もすぐにできる)は論理的ではないが、どうも人間に固有な現象のようで興味をひく。そうだ、今度CATKATに来てもらって日本語でゆっくり話を聞こう。

最終日は午前中が長谷川真理子先生の嬰児殺人についての話から始まった。嬰児を殺すのは同部では稀で、ボスが交代したときなどに起こることがある(インドの何とかというサルとか、ライオン)がかなり珍しい。しかし人間ではよく起こる。やるのはたいがい女性で、若くて、よく考えた上でやるらしい。また日本は特にそれが多いとのこと。日本で多い理由は文化的、制度的要因が大きいようだ。他には昭和大学の寺沢先生、慶應の女性の発表があった。

最後の論理のセッションは正直つらかった。別に変なことを言っているわけではないのだが、やはりいろいろな意味でつらい。

そこでおもしろい話があった。そもそも論理学は知性のmechanizationを行い、その結果としてコンピュータが生まれた。そこではいろいろな発展もあったが、創造性については全然だめだったということが論理学者の側からなされた。これに対して、コンピュータも適切なプログラムさえあれば創造的になれるとか、人間の脳だってそもそもmechanicalなんだけど創造性を持つことができるとか、いろいろおもしろい議論がなされた。

・・・Illustratorできれいな画像が作れるのは?
・・・写真がエロティックなのはカメラがエロティックだから?
素材、道具とそのプロダクトを混同していると思う。


新ネットワーク思考

2007/3/22

いまバラバシの「


今月のCATKAT

2006/12/19

今月のCatkatは東大&博報堂の鷲田さんの研究発表があった。マーケッティングとマルチエージェントシミュレーションを組み合わせるという、catkatではほとんど聞けない、大変におもしろい話を聞かせてもらった。

彼の考えの根本はdemand side innovationのモデル化だ。これは何かというと、供給側の工夫や改善によるイノベーションではなく、需要者側が製品の持つ特定の機能を供給側の意図しない形で評価し、それが口コミなどを通して業界のスタンダードとして定着するというような現象を指す。たとえば携帯の着メロなどはその典型ということだそうだ。

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Beyond the learning curve

2006/9/24

東大の教育心理の院生およびOB,OGの人たちの変な名前の研究会と合同でcatkat研究会が9月23日行われた。Speelman & Kirsner “Beyond the learning curve: The Construction of Mind” (OUP)という本だった。なかなか不思議な本であった。

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他者とのディスカッションは何を生み出すか

2006/9/19

犬塚さんと岩男君の企画した教育心理学会のシンポジウム「他者との対話による論理的表現力の育成」(正確ではない)に参加した。話題としては、今自分たちが進めているアカデミックスキルの獲得という話に非常に近い話だと言うことがわかった。また心理学的に分析可能な形にすることがとても難しい、非常に骨の折れる仕事に若手(?)中堅(?)の研究者が果敢に挑戦していることが分かった。

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大学教育におけるリフレクションを促す授業実践:教育心理学会総会

2006/9/16

上のようなワークショップに出ました。うーーん、はっきり言って自分のあまりの勘違いにがっくりきた。要は、エンカウンターとか、グループディスカッションの話であり、いわゆる反省という話とは直接的な関係を見いだすことが出来なかった。いわゆる反省と自分が思いこんでいたことは、どうも例外的というか、認知科学会特有というのか、そういうものではないかと思い始めている。

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人間の社会性の文化的・適応的基盤と北大のCOE

2006/9/10

という北大のCOEに基づく研究会に行ってきた(場所は麻布十番というか,六本木というかそこらへん).進化を通して,社会,組織,制度,文化などの研究を行うというのが,このCOEの目的であるの.ということで,れに関連した研究を行っている内外の研究者たちが発表するというものだ.

Leda Cosmides(進化心理学、カリフォルニア大学サンタバーバラ校)
 Joseph Henrich(進化人類学、ブリティッシュ=コロンビア大学)
 Shinobu Kitayama(文化心理学、ミシガン大学)
 Mary C. Brinton(社会学、ハーバード大学)
 山岸俊男(社会心理学、北海道大学)
 亀田達也(社会心理学、北海道大学)

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不思議な知覚的体験

2006/9/6

この後に書く予定のスキルサイエンス研究会で、研究会とは全く別の場面で不思議な体験をした.場所は大丸の屋上です。部屋の中は禁煙なので、一服ということで屋上にでた。外を見るとちょうど眼下に東京駅,遠くには皇居が見える。ということで、金網のフェンスの前で、遠くを見ていた。すると、皇居から巨大なUFOが、

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もうだいぶたってしまったけど一応認知科学会06

2006/8/20

いまさら書いてもとも思うけど、中京大学で行われた認知科学会について一応自分のためのメモを残しておく。

最初に書いておくべきことは、Macのノートを持って行ったのに、外部モニターへの接続アダプタを忘れて真っ青になったことだ。前日入りしていたので、急遽宅急便で家からアダプタを送ってもらって、大会初日に到着。一安心と思って、初日夜に発表練習などをしていると、バッテリーがなくなってきて、おっと充電と思ったら、電源アダプタも忘れてきたことに気づく・・・・。結局Apple Store名古屋に行って、電源アダプタを買う。約1万円。これで3つめだ・・・。

1。発表関連
・前日:今回の発表の共同研究者である、卒業生の竹葉さんが名古屋に勤めているので、前日入りして、発表の内容を二人で検討した。

・初日、シンポジウムを聞いた。茂木さん、三輪さん、戸田山さんがスピーカ。モデルの持つ意味、モデルの役割、モデルのあり方について、三輪さんと戸田山さんがお話しした。正直言って、モデルというものの価値がわからなくなった。細かいことはおいておくと、モデルの前に理論があるんじゃないのという思いを抱いた。茂木さんの話は、よくわかる。まあ生成が大事、バックグラウンドが大事という話ですのでね。それから確率批判を行っていた。これは結構反発する人も多かったようだが、茂木さんの言いたいことはよくわかる。つまり結果としてaggregateレベルで行動を確率で表現できると言うことと、認知のメカニズムの中に確率的だという前提を入れることは別の話と言うことだ。たぶんそういうことだと思う。だとすれば、ここに書いたことと同じだ。よくわかる。この本の2章にも書いた(買ってね)。あと、パワポを使わないということで、マイクだけで話していた。

Vosniadouの講演は、まあ特にというか、基本は10数年前の話。ただ、その後いろいろな文化圏で実験を繰り返し、syncreticモデルの多様性が見えてきたとのこと。でも基本は同じという話なのではないかな。

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帰納推論と因果推論

2006/8/12

今日(8月11日)、研究室で仕事をしていると、岩男君が突然やってきた。ひどくびっくりしたが、青学でやっている非常勤の科目の試験答案をわざわざ受け取りに来たとのこと(なんで郵送しないのだろうか)。

私は昔から認知科学の三大恥辱(大事なのに研究が進んでいない、あるいはやられたのにさっぱり分かった気にならない)は、

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visuospatial reasoning

2006/7/15

今年は大学院のゼミで,The Cambridge Handbook of Thinking and Reasoningを読んでいる.まあ,ハンドブックなので,そんなにものすごいことが書いてあるわけではないのだが,あまり体系的に勉強をしていない身にとっては,いろいろと参考になることがある.また今度とある教科書のようなものを書かねばならないということもあり,重宝している.ところで,今日はこのエントリーのタイトルにあるようなチャプターを読んでみた.

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生態学的なアプローチによる意思決定

2006/6/26

だいぶたってしまったが(下書きのまま状態)、6月17日にcatkat研究会で、東工大の本田さんの発表を聞いた。とても好きなアプローチ)なので、ちょっとだけメモしておく。意思決定一般は、思考研究の大事な分野なので、むろん昔から関心を持っていた。また、この分野には優れた研究も数多く、感銘を受けたこともある。

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ダーウィン的方法

2006/5/4

佐々木正人「ダーウィン的方法:運動からアフォーダンスへ」(岩波)を読んだ。この本は佐々木さんが10年くらい前から、さまざまな雑誌に載せた論文(ここに書いた論文も載っています)や、翻訳本のあとがき、解題などをまとめたものだ(書き下ろしもある)。佐々木さんとその関連の研究者たち、ダーウィン、リード、ベルンシュタイン、テーレンなどの仕事を通して、もの-環境-行為の関わりについて佐々木さん独自のアイディアが展開されている。

前のエントリーにも書いたように、緑の線がいっぱい引けた。

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緑を使う方法

2006/5/3

三色ボールペンを使っている。斉藤孝の「三色ボールペンで読む日本語」を読んで深く納得し、それ以来おそらく3年くらい使っている。話はちょっとずれるが、斉藤君は大学院の同じ専攻の2年後輩で、高校が同じと言うこともあり、その当時はけっこうよく話してた。そう言えば指圧というか、マッサージみたいなのもしてもらったことがあるなぁ。

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metaとabstraction

2006/3/30

3/18にあったcatkat研究会で、メタ知識という言葉と抽象化という言葉を区別することが出来たので、いちおうメモしておく。抽象化された知識(abstraction)というのは、ある対象の属性をブランクにしたものとして定義することが出来る。人間の抽象化を考える際には、実際にはブランクにするための制約が必要になるのだが(完全なブランクには出来ずある範囲を設定するとか)、とりあえずはどれかの属性においてどんな値でもとりうるようにした知識を抽象化と呼ぶ。

一方、

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ハートで感じる他者の心理?

2006/3/13

前回「ハートで感じる英文法」を絶賛した。基本は発話とそれを取り巻く状況から相手の考えていることを推測すると言うことなわけですね。そうなると、「心の理論」というのが連想的に出てくる。

心の理論は人の行動と心理の間の関係を理解するために素人が用いる認知的なフレームワークを指す。特に焦点となっているのは、ご存じのように、他者には自分とは独立した信念、欲求が存在し、それがその人の行動の原因となることを理解出来るのはどうしてか、またそれはいつからかということだ。この分野の研究はおおよそ20数年くらいの歴史があり、

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認知科学をどう教えようかな

2005/10/11

始めは「認知科学をどう教えるか」というタイトルにしたのだが、なんかこれだと偉そうに聞こえ、「こうするべきだ」というような響きがあるので、上記のようなタイトルにした。認知科学概論のような科目を持っていて、それをどんな感じで教えようかという、つまりとても私的な問題だということです。

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身体知研究会に参加

2005/9/29

9/28にSFCの古川先生を代表とし、諏訪さん(中京)藤波さん(JAIST)などがメンバーの研究会に参加させてもらった。場所は、JAISTの東京キャンパスというので、東京駅大丸の9階にでかけてきた(かなり不思議な場所だった)。

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認知科学会22回大会に参加

2005/8/12

今回は、京都大学に出来た100周年記念会館(?)というところで行われました。前日から京都に入り、便利なところに宿を取って楽しんできました。私は大西さん、竹葉さんと一緒に行っているブロック作りの熟達過程についてのポスター発表をやってきました。この研究も一度Blogに書いておきたいのだが、また別の機会に。気づいたことを列挙。

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文化と認知

2005/4/28

上のようなタイトルで波多野先生が簡単にまとめているものがあるので一応メモしておこう。


大島さんの大学授業のデザイン実験

2005/1/28

非常勤で本学の大学院で教えている大島純さん(静岡大)が講演を行ってくれた。トピックは大学の授業における学習科学実験についてであった。私も1年生向けの基礎演習や、学部のゼミでblogなどを用いて、なんとか授業改善を行い始めたので、大変に期待していたのだが、実際に勉強になることが満載で、非常に面白かった。

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長滝編「現象学と二十一世紀の知」について

2005/1/25

哲学者の長滝さん(中京)から「現象学と21世紀の知」(ナカニシヤ)という本をいただいた。彼とは数年前に北大で行われた進化系の学会で一緒になり、ススキノを飲み歩いたのがきっかけでした(もっとも彼は一滴も飲まなかったと思う)。

まあそんなことはどうでもいいとして、この本はおもしろい。まだ全部は読んでいなくて、非常によく分かるのは長滝さんの書いた2章なのだが、ここだけでもメモっておこう。

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「知能」、「知能の謎」について

2005/1/5

冬休み前後に2冊の本をいただいた。
・けいはんな社会的知能発生学研究会「知能の謎」(ブルーバックス)←(たぶん)開さんから
・ディアリ「知能」(岩波)←繁桝先生から

これについてちょっとだけ。

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認知症?

2004/12/2

先週くらいの新聞に痴呆症というのは侮蔑を含む表現であるから、今後は「認知症」という名前にするという答申が厚労省関係の委員会でされたそうだ。

これは抗議しないといかんね。こういう言葉が広がると、認知科学は痴呆についての科学、認知的不協和は痴呆的不協和、認知カウンセリングは痴呆カウンセリング、認知発達は痴呆発達などなどとなってしまい、あってはならない誤解を生み出す。

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行動遺伝学について

2004/11/15

双子がどれだけ似ているかなどの方法論を用いた行動遺伝学という学問がある。この分野の人たちは当然ながら遺伝の影響を強く見積もることが仕事になっている。

この学問はずいぶん昔からあり、その過程で徹底的に批判されたりたんで、もうないだろうと思っていた。しかしどういう理由か生き延び、最近の進化、脳あたりの関連でもう一回復活しつつあるようだ。日本では、安藤寿康(慶應)さんあたりが中心になっている。この間参加した理論心理学会というところにも、カナダからこの領域の研究者が来て、招待講演を行っていた。

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理論心理学会および研究者育成

2004/11/7

理論心理学会の大会が駒場であり、「日本発の理論を考える」というシンポジウムのシンポジストとして話してきた。駒場に着いたら、立て看板に「日本理論心理学会50回大会」というのがあって、誤植じゃないかと思ってしまった。しかし、日本の心理学関連学会43学会!(こいつも驚きだ)の中で数番目に長い歴史を持つ学会ということを後で聞いた。

シンポジストは、

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教育心理学会04:実践と研究

2004/10/12

教育心理学会の大会に出席するために富山に出張していました。いつも何らかの形でデータを出し、それを世に問うという姿勢を持った現役の研究者であろうと思い、そんな気持ちで毎年何らかの発表をしています。

昨年、一昨年と出席していると「うーん、違う」という気がしてなりませんでした。というのは、「実践」というムードが高まってきて、認知科学者であるわたしにはとうてい興味が持てない内容が目白押しだったからです。

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1999年のいろいろ

2000/1/10

あまりに忙しくて、書いている暇がなかったのはあるけど、What’s Newとかいって、1年以上も変わらない(Last updateは1998/07/30とありました…) というのも、ひどい。去年(1999年)一年と最近のこと付け加えます。

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